第533話 最後のブロック大会直前
WSWから戻ってからというもの、光田高校弓道部の部員たちのカバンや弓ケースには、揃って『ヴィヴィ&トリー』のストラップが揺れていた。
稽古の合間、ふと視界に入るその小さな輝き。それが、あの日浴びたパレードの黄金色の光や、レオ監督の「君たちが主役だ」という言葉を呼び起こす。それは日常の何気ない景色を見守るお守りとなり、また、練習の張り詰めた緊張を「心地よい集中」へと変える魔法のスイッチになっていた。
だが、道場の空気は決して甘くはない。
今年は高校総体の地元開催。宿敵であり、共に全国への切符を掴んだ川嶋女子高校は、打倒光田に燃える並々ならぬ気合いを隠そうともしなかった。去年同様、ブロック大会で光田を破り、その勢いで全国へ乗り込もむことを目指している。
その川嶋女子からの強い要望で、大会直前の異例の三日間合同練習が始まった。
最も近い距離にいる身近なライバル。かつて冴子部長時代、光田の狂った歯車を調整する役割を果たしてくれたこともある彼女たちが、今度は「乞うて」光田との合同練習に挑む。
当初は光田高校に乗り込んでくる勢いであったが、さすがに川嶋女子の方が圧倒的に施設は充実している。拓哉コーチが練習場所については逆に依頼したのだが、川嶋女子の香坂監督はかえって恐縮していた。
隠すことなど何もない。常に切磋琢磨し、互いの健闘を誓い合う。そんな誇り高い関係がそこにはあった。
今の川嶋女子には、かつての日比野のような圧倒的なカリスマはいない。しかし、その日比野をずっと追いかけ続けてきた現部長・前田霞を中心とした結束力は、かつてないほど強固だった。
なかでも、二年生の西園千景の変貌には、光田の面々も息を呑んだ。
「……あの目、まるで日比野さんだ」
つばめがポツリと呟く。西園の射には、一切の迷いがない。その鋭い成長に最も刺激を受けたのは、真映や楓、そしてあまつ、菓ら一・二年生たちだった。
「親分たちの代の強さを、絶対に受け継ぐ。……そのためには、今、私たちがもっと強くならなきゃいけないんだ」
真映の目に、これまで以上の闘志が宿る。ブロック大会に出場しない下級生たちまでもが、次代の光田を背負う覚悟で、西園の背中を睨みつけていた。
光田の最大の懸案――それは、まゆの出場だった。
あかね、ソフィア、そしてまゆ。三人にとっての最後の夏。
「まゆも、予選で引かせたいんです」
杏子たちの直訴に、拓哉コーチは静かに頷いた。
まゆは、杏子にとって「内弟子中の内弟子」と言える存在だ。車椅子、あるいは特別の椅子に座ったまま弓を引くその特殊な姿勢は、拓哉コーチの理論と、杏子が何度も自ら椅子に座って試し、確認した上で作り上げられた結晶だった。
「椅子に座ったからといって、決して楽に引けるわけじゃない。むしろ土台を固定するのが大変な部分が多い」
それが師弟二人の共通認識だった。まゆは杏子の指導を、一華の映像解析と照らし合わせ、自宅でも学校でも、時間さえあれば何度も何度も繰り返し何万回も脳内で反芻してきた。練習ができなかった時期はなおさら。
大会一週間前。まゆが、静まり返った道場で久しぶりに実射に入った。
一本、また一本。
放たれた矢は、驚くほど正確な軌道を描き、的の芯を捉える。
「……狂ってない」
あかねが声を震わせる。体力的な限界を考慮し、練習量は極限まで抑えられている。しかし、その一射にかける密度は、誰よりも濃く、重かった。
そんなまゆを支えるべく、三年生チームの練習は「鬼気迫る」という言葉が相応しかった。
特に、部長・杏子の変化は顕著だった。
普段の杏子は「のんびり」しすぎるか「緊張しすぎる」かのどちらかであたふたとスタートし、弓を握ることでようやく「無」の境地である「宇宙人モード(冷静)」へと辿り着く。
しかし、今は違う。
まゆのため、チームのため。杏子の心の内側は、今まさに「必死・興奮」という真っ赤な炎で煮えたぎっている。その沸騰しそうな熱量を押さえ込み、無理やり「宇宙人モード」の型へと流し込んで、普段とまるで変わらぬ静謐な姿勢を魅せているのだ。
ベクトルの向きは逆だが、的前での安定感は微塵も揺るがない。
「……普段はどうであれ、やっぱり弓を握らせたら宇宙人か」
栞代が呟く。部員たちは、その絶対的な背中に全幅の信頼を寄せ、自らの限界をさらに押し上げた。
一方、男子部も激しく燃えていた。
エース格の松平と海棠は、もはや「熱血」の塊だ。松平はあかねにLINEで「まゆさんの背中は俺が守る!」と宣言し、海棠は「ブロック大会の優勝メダルをソフィアさんに捧げる!」と空回り気味に吼えている。
そんな二人を、イケメンの孤独好き・立川が冷めた目と、同時に確かな観察眼で見ていた。
(……あいつらの熱意は本物だ。なら、俺は俺の役目をやるか)
立川は、一ノ瀬の弱点である、実力は海棠を超えるが本番勝負に弱い精神力の、克服に動き出した。
「山下、お前部長だろ。一ノ瀬をこのままにしとくのか?」
立川の焚きつけに、部長の山下が滝本顧問に相談を持ちかける。
「……あら、一ノ瀬くんねえ。一回、本気で怒ってみようかしら?」
滝本顧問が、眼鏡の奥で全男子部員に恐れられている「悪魔の微笑み」を浮かべた。
山下は「一ノ瀬の命だけは……」と震えた。
メンタルコーチ深澤と連携し、一ノ瀬には徹底的なプレッシャー対策練習が課せられた。滝本の容赦ない追い込みに、一ノ瀬はデカい図体を縮こまらせながらも、立川や山下のサポートを受け、必死に食らいついていく。その巨体から放たれる矢に、ようやく「迷い」以外の色が混ざり始めた。
道場の隅では、未経験の一年生、フルーツトリオ――苺、葡萄、滴が、静かに、けれど真剣にゴム弓を引いていた。
ブロック大会が終われば、いよいよ彼女たちも本物の弓を握る。
「杏子部長の映像、あと一回見よう」
滴の言葉に、二人が頷きながらも「杏子部長の顔ばっかり見てないで、姿勢をちゃんと見てよ」と笑顔で突っ込んでいた。
カバンに付けたストラップのヴィヴィとトリーが、動きに合わせて揺れている。
あの黄金色の日は、もう単なる思い出ではない。
これから掴み取る、勝利への確かな羅針盤なのだ。
インターハイ前哨戦のこの大会で、去年逃した優勝旗を必ず取り戻して総体へ行く。
光田高校弓道部。
それぞれの「最後」と「始まり」を乗せた矢が、今、放たれようとしていた。




