第531話 遠足、その後のその2 帰るべき場所
「……ん、……ぁ……」
すっかり深い眠りに落ちていた杏子は、大型バスがインターチェンジを降りる時の微かな振動と、カーブの遠心力で、ぼんやりと目を覚ました。
窓の外はもうすっかり夜の帳が下りており、見慣れた街灯の光が、オレンジ色の流星群のように窓ガラスを流れていく。
寝ぼけ眼のまま、杏子はブレザーのポケットからスマホを取り出し、祖父にLINEを送った。
『おじいちゃん、もうすぐ学校に着くよ』
送信して数秒もしないうちに、即座に既読がついた。
『楽しかったか、ぱみゅ子。気をつけて帰っておいで。今、迎えに行くところじゃからな』
画面越しの、少し過保護で温かい言葉に、杏子の口元が自然と緩む。
「杏子、おはよう。……よく寝てたな。よだれ垂らしてないか?」
隣の席で、ガサガサとお土産の整理を始めていた栞代が、からかうように声をかけてきた。
「……垂らしてないもん。……楽しかったね、栞代」
「ほんとにな。……お、これ、おばあちゃんへのクッキー缶、潰れてないか?」
「大丈夫。一番上に乗せておいたから」
バスが光田高校に近づくにつれ、車内には一人、また一人と目を覚ます級友たちの声が増えていく。
「あ、二乃からLINEだ。一華からも来てる」
杏子が通知に気づくと、栞代も自分のスマホを覗き込んだ。
「あいつら、本当に夕方から道場で練習したんだな。帰って体力余ってたらやれとは言ったけど……。一日遠足に行った後で道場に立つなんて、若いというか、弓道ジャンキーというか、気力も体力もありすぎだろ」
「若いって素晴らしいわねぇ」
後ろの席から、あかねが少し疲れた顔を座席の間からのぞかせて、けれど楽しそうに声を挟んできた。
「おい、あかね。オレらもまだ十分に若いだろ!」
「そうだよ、まだ花の十七歳だし!」
栞代がツッコミ、杏子も笑って応戦する。
「いやいや、栞代、あんた一人選挙権持ってるやろ?」
あかねもきっちりと言い返している。
そんな他愛ないやり取りが、終わろうとしている夢の遠足の寂しさを、少しだけ紛らわせてくれた。
やがてバスは、見慣れた光田高校の正門前に停車した。
大量の荷物を抱えて降りると、そこには引率の先生たちの「家に帰るまでは遠足だぞ。寄り道せずに帰れよ」という、お決まりの言葉が待っていた。
「……考えたらさ。このセリフ聞くの、今日が人生で最後なんだよね」
あかねが、夜の闇に浮かび上がる光り輝く校舎を振り返って、ポツリと呟いた。
その言葉に、杏子の胸が少し締め付けられる。
小学校から何度も聞いてきた、聞き飽きたはずのフレーズ。それが「最後」なのだと突きつけられた瞬間、高校生活の非日常的な行事が、本当に終わってしまうのだと実感した。
「……いや、お前が赤点取って留年したら、来年ももう一回聞けるぞ」
栞代が、感傷を断ち切るように、あえてぶっきらぼうに突き放した。
「それは絶対ヤだっ! あたしは意地でも現役合格してやる!」
あかねが即座に牙を剥き、三人の間にいつもの笑いが起きた。
バスを降りて解散となったところで、まゆからLINEが届いた。
『一ノ瀬くんが、杏子に話したいって言ってるんだ。珍しいけど、なんだか顔面蒼白だよ』
返信を書こうとしていると、ちょうどその時一ノ瀬が、一八五センチの巨体を限界まで小さく丸めて駆け寄ってきた。
栞代がいつもの若頭の習慣で、さりげなく杏子の前に立ち、物理的なガードを固める。
「あ、あの! 杏子部長! お詫びを……謝罪文を提出したいのですが!」
一ノ瀬は、今にも切腹でもしそうな悲壮な顔で、深々と九十度以上の角度で頭を下げた。
「いったい何の話だ? お前、なんか粗相でもしたか?」
栞代が眉をひそめて問いただすと、一ノ瀬は震える声で答えた。
「あ、いや、その……今日、パレードの場所取りの間、僕、杏子さんの『一メートル以内に五分以上』居てしまったので……! おじいさまのターゲットリストから除外していただきたく……!」
栞代は、昼間に自分が適当に吹き込んだ「おじいちゃんの鉄槌」という脅し文句を思い出し、たまらず噴き出しそうになった。
「おいおい、ありゃ冗談だ。……いや、半分は冗談でもないけどな」
どっちなんだよ、と一ノ瀬がさらに困惑して泣きそうな顔を見せる。
「いいか一ノ瀬。誰もおじいちゃんに報告したりしないから安心しろ。逆にそんなもの(紙の謝罪文)出したら、証拠が残って確実におじいちゃんのブラックリストに入るぞ。今日のことはすっかり忘れて、明日からの練習のことだけ考えろ」
「は、はあ……。失礼しました!」
一ノ瀬は、その大きな背中を丸め、逃げるように自分のクラスの男子の集団へ戻っていった。
「……でもさぁ」
栞代が、夜闇に消えていく一ノ瀬の背中を見ながら、杏子に真剣な顔で向き直った。
「いつか本当に、こういうことがあるんだろうなぁ。杏子が『彼氏』とか言って、誰かを家に連れてくる日が」
「えっ、私が?」
きょとんとする杏子に、栞代の目は本気だった。
「いいか、そういう時の相談は、絶対にまずおばあちゃんにするんだぞ。おじいちゃんには、もう、結婚式の前日まで絶対に隠しとけ。ショックで寝込むか、相手の男を弓で射殺すかの二択だからな。オレがずっと側にいてやれたらいいんだが……」
「う、うん……?」
恋愛という概念がすっぽりと抜け落ちている杏子には、まだ全くピンと来ていなかったが。栞代のその過保護すぎる「本気」の眼差しに、ただ小さく頷くしかなかった。
「おーい! ぱみゅ子〜〜っ!」
校門を出た途端、聞き慣れた、けれど誰よりも愛を感じる大きな声が響いた。
見ると、祖父が車の横で、ちぎれんばかりに大きく手を振って待っていた。
「おじいちゃん! 栞代、おじいちゃん来たよ!」
杏子の声が、一気にワントーン上がる。
「栞代〜、ぱみゅ子〜、無事に帰ってきたなぁ! おじいちゃんの祈りが通じたようじゃ!」
「おじいちゃんの念が強すぎて、道中背筋が寒くてヒヤヒヤしたぜ」
栞代と祖父の、いつもの気軽な軽口が始まる。周囲のクラスメイトたちからも、「杏子、栞代、また明日〜!」とあちこちから声がかかり、手を振り返す。
「明日は普通に学校かぁ。WSW、休日前に行きたかったけど、混むもんな。……ま、頑張ろか」
栞代の少し気怠げな呟きに、杏子がニヤリと笑って返した。
「若いもんね、私たち!」
家に着くと、そこには祖母の穏やかな笑顔と、温かな夕食の匂いが待っていた。
楓やあまつ、菓が、わざわざ遠足のお土産を「卵焼きの御礼」として届けに来てくれたことを聞き、杏子の心はさらに温かくなる。
食卓に座った途端、杏子はまるで遠足帰りの小学生に戻ったかのように、今日一日の出来事を身を乗り出して話し始めた。
「おじいちゃん、あのね! 最初に入り口でレオ監督に会ったんだよ! 手がすっごく温かくて。それからね、紬とソフィアがアニメのボートで、何語か分からない言葉でずっと喋っててね……!」
杏子の口から、機関銃のように言葉が溢れ出す。
ランチで食べた時代劇アニメの再現メニューのこと。お土産売り場で楓たちのために選んだストラップのこと。まゆと一緒に食べたチュロスの味。
栞代は、一ノ瀬と松平が「杏子に一メートル以内に五分以上いた一件」を、祖父にバレないようヒヤヒヤしながら隣で食事を運んでいた。
しかし、杏子はそんな栞代の心配をよそに、男子の話など一ミリも出さず、パレードの黄金の紙吹雪の美しさをキラキラした瞳で伝えていた。
「……そっか。栞代がドラゴンに乗っとる時、ぱみゅ子は下で場所取りをしてたんじゃな。ぱみゅ子は本当におばあちゃんに似て、絶叫マシンが苦手なんじゃな」
祖父は、自慢の孫娘と一緒にドラゴンに乗るという、将来の夢が絶たれたことを残念そうに、しょんぼりと肩を落とした。
「でも、パレードは本当に一番前の特等席で見られたんだよ! すっごく綺麗だった!今度、一緒に見ようね」
祖母が淹れてくれた、温かいほうじ茶の湯気の向こうで、杏子の笑顔が弾ける。
弓道部の主将でも、全国でトップを伺う射手でもない。
大好きなおじいちゃんとおばあちゃんの横で、一生懸命に今日という日の宝物を披露する、ただの「ぱみゅ子」としての時間。
この温かい灯火のような日常があるからこそ。
明日、また道場で、凛とした究極の弦音を響かせることができるのだと、杏子は心の底から感じていた。
夏の夜が、静かに更けていく。




