第523話 遠足 その3 『栄光の食卓と、画面越しの卵焼き』
七月の容赦ない太陽太陽が天頂に差し掛かる頃、巨大テーマパークWSWは熱気のピークを迎えていた。
アスファルトから立ち上る陽炎を逃れるように、三年生一行が辿り着いたのは、パークのメインダイニング『ビストロ・ザ・グローリー(栄光の食卓)』だ。
重厚なオーク材の扉を開けると、ひんやりとした冷気が汗ばんだ肌を優しく撫でる。
現在は期間限定の「ムーンライト・アニメ・フェスタ」の真っ最中で、広大なレストラン内は、名作映画のサウンドトラックと人気アニメ主題歌の壮大なオーケストラアレンジが交互に流れ、独特の高揚感と祝祭の空気に包まれていた。
「……あ、あの装飾。一九九〇年代のセル画風ライティング……光の透過率の再現度が高いです」
ソフィアの解説に頷きながら、普段は無口で表情を崩さない紬が、エントランスに掲げられたタペストリーを見上げて小刻みに震えている。
ソフィアはさらに「フィンランドの冬の静寂も美しいですが、この色彩の熱狂もまた、素晴らしい一つの文化ですね」と、透き通る青い瞳に知的な好奇心を煌めかせていた。
広々としたボックス席に案内され、メニューを開いた六人は、そのあまりの「ガチ」なラインナップに目を丸くする。
WSWは空港さながらのX線検査まで行う徹底した飲食物持ち込み禁止のパークだ。おばあちゃんの特製弁当は、今ここにはない。それは一華と二乃に託されている。
その分、彼女たちはこの夢の空間で、最高のランチを味わう権利を得ていた。
それぞれが、自分の好みやインスピレーションに従って注文を決めていく。
ソフィアが選んだのは、『北欧の風:オーロラの森』より「森の恵み・トナカイ風シチューとベリーのタルト」。
彼女の故郷を舞台にした感動アニメの再現食だ。濃厚なデミグラスの香りと、添えられたベリーの鮮やかな赤が目を引く本格派である。
紬の注文は、『ネオン・コード:電脳都市の鼓動』より「サイバー・ブラック・パスタと回路図のショコラ」。
最先端のSFアクションをモチーフにした一皿で、イカスミの漆黒と、怪しく発光するグリーンのソース(正体はブラックライトに反応する安全な食用ジュレ)が、紬のオタク心をダイレクトに直撃していた。
杏子は、『夕焼け侍と月の姫』より「おむすび街道セット・黄金の卵焼き添え」。
幼いころ祖父母と一緒に茶の間でよく見ていた、懐かしの時代劇アニメの再現メニューだ。本物の竹の皮に包まれた大きなおにぎりと、分厚く見事な焼き色の卵焼きが主役を張っている。
一方、アニメの知識に乏しいまゆは、分厚いメニュー表を前にすっかり戸惑っていた。
期間限定のフェスタ中だからこそ、アニメメニューに食指を動かしたまゆだったが、聞いたことのないタイトルばかりで決めかねている。
それを見かねた紬が、すっとメニューの一点を指し示し言った。
「……それは、わたしの、課題では、ありません」
いつもの突き放すような口癖。だが、その指先は的確に、まゆの好みに合いそうな一皿を教えてくれている。
「空飛ぶオムライス・星屑パフェセット。……紬、ありがとう。これにするね」
素直に注文を決めたまゆに、すかさずソフィアが解説を添える。
「『雲の上のフワフワ王国』という作品ですね。色彩感覚が極めて素晴らしいと話題になったアニメで、心温まる美しいファンタジーですよ。まゆにぴったりです」
残る二人も個性的だ。
あかねは、『弾丸特急:ゼロ・アワー』より「爆走ダイナマイト・ベーコンバーガー」。
全米で大ヒットしたアクション映画の再現で、一口噛めば火薬の匂いを連想させる強烈な燻製の香りが広がる、あかねらしいワイルドでボリューム満点の一皿。
栞代は、『真夜中の招待状:仮面の告白』より「漆黒のトリュフリゾット・謎のルビー・デザート」。
世界的人気のサスペンス映画をテーマにしており、リゾットを食べ進めると、皿の底に「秘密のメッセージ」が隠されているという、凝りに凝った演出が施されている。
「……いただきます」
六人の声が重なり、一斉にスプーンやフォークを動かし始める。
「……美味しい。トナカイの風味、祖父が作ってくれた懐かしい味がします」
シチューを口に含んだソフィアが、ふわりと表情をほどく。
「……ソースの粘度、パスタの茹で加減。作画崩壊の一切ない、完璧な盛り付け」
紬は食べる前に、スマートフォンで様々な角度からパスタを撮影し、芸術品を鑑定するように静かに頷いている。
杏子も、目の前に置かれた「おむすび街道セット」の卵焼きを箸で切り分け、そっと口に運んだ。
一流のシェフが監修しているだけあって、出汁の旨味が上品に広がり、ふっくらとした食感は文句のつけようがない。
「……うん。美味しい。卵焼きも、すごく立派だし、甘さもちょうどいい」
だが、その瞬間。杏子の口から、ふと小さな溜息が漏れた。
「……でも、やっぱりおばあちゃんの卵焼きの方が、好きだな」
プロの技術がどれほど完璧であっても、記憶と愛情に根ざした「いつもの味」には及ばない。
形がいびつでも、少し焦げ目があっても、早朝の台所で自分のために焼いてくれるあの卵焼きこそが、杏子にとっての世界一の御馳走なのだ。
「ま、そりゃそうやろ。おばあちゃんの味は国宝級やからな」
栞代が、トリュフの香りを堪能しながら笑いかける。
「ねえ、これ一口食べてみて! スモークベーコン、めっちゃ肉汁すごい!」
あかねの提案を皮切りに、六人はそれぞれのお皿から一口ずつを交換し合い、味覚の冒険を楽しむ。
飛び交う感想と、絶え間ない笑い声。
涼しいダイニングで、彼女たちは高校生活最後となるかもしれない、最高のランチタイムを心ゆくまで堪能していた。
テーマパークのルールゆえに、今日ここには「おばあちゃんの弁当」はない。
その分、今朝一華と二乃に託された重たい弁当箱は、それぞれの遠足の地で、一・二年生たちの胃袋を確実に満たしているはずだ。
ふと、その寂しさを埋めるような絶妙のタイミングで、杏子のブレザーのポケットでスマホが震えた。
グループLINEからの通知。
【LINE:真映(二年生)】
『親分〜っ! 一華から全部聞きましたよ! 今日、一華と二乃だけ朝ごはん一緒に食べたんですってねー! そんな殺生なー!!』
恨み節のテキストと共に添付されていたのは、一枚の躍動感あふれる写真だった。
場所は、遠足で訪れている『鹿乃子大公園』。
無数の鹿に取り囲まれながら、それでもおばあちゃんの卵焼きを死守し、幸せそうに頬張る真映、つばめ、楓。そしてその後ろで、タブレットを抱えながら腕を組んでドヤ顔を決めている一華の姿が写っている。
『でも、一華が大奥様の卵焼きをたっぷりと持ってきてくれたので、恨みは綺麗さっぱり忘れます! 親分、今度絶対に、またお家に遊びに行かせてくださいっ!』
立て続けに、もう一通の通知。
【LINE:二乃(一年生)】
『部長、みんなで楽しく卵焼き食べてます〜!』
こちらの写真は、地元の名勝である海岸線を模した『白石の渚・波切絶壁』が背景だ。
抜けるような青い海と、荒々しい白い岩肌をバックに、一年生全員が、まるでお宝のように割り箸に挟んだ祖母の卵焼きを掲げ、「エイエイオー」とポーズを決めている。
潮風を感じるような、眩しいほどに元気な一枚。
「……あはは。みんな、本当に美味しそうに食べるんだから」
杏子は目を細め、スマホの画面を栞代に見せた。
「見て、栞代。真映、鹿に卵焼き取られそうになってる」
「あいつ、相変わらず食い意地張ってんな……。鹿相手でも本気で食い物の取り合いするからな、あいつは」
栞代の言葉に、杏子は小さく頷いた。
目の前に並ぶ「アニメの世界の豪華な料理」も素晴らしい。非日常の魔法は、確かに心を躍らせてくれる。
けれど。
自分の帰りを待っている日常には、この世で一番美味しい卵焼きがある。
どんな絶叫マシンよりも心を揺さぶり、どんな魔法よりも確かな温もりをくれる仲間たちがいる。
その確信と安心が、杏子の背筋をピンと伸ばした。
これから訪れるいろんな困難に対する、ささやかで絶対的な勇気を与えてくれていた。
「よし、まゆ。星屑パフェ食べ終わったら、次は約束の『ムーンライト・アニメ・ボート』だね。紬、ソフィア、現地の案内と詳細な解説、お願いね」
杏子が明るい声で宣言する。
視線を向けられた紬は、ストローでアイスコーヒーをかき混ぜながら、冷たく応えた。
「……それは、わたしの、課題では、ありません」
すかさず、あかねがハンバーガーの最後の一口を飲み込みながら、ニヤリと笑ってツッコミを入れる。
「今のは、栞代の通訳がなくても分かるっ。完全に『私に任せとけ』って意味だなっ。ついに、あの無口な紬の、オタク全開フリートークが聞けるのかっ」
図星を突かれたのか、紬がわずかに耳の先を赤くしてそっぽを向く。
六人の弾けるような笑い声が、オーケストラの調べに混ざり合い、華やかなレストランの天井高くへと響き渡っていった。
魔法の時間は、まだまだ終わらない。




