第522話 遠足 その2 『魔法のゲートと、レオ監督の出迎え』
バスの扉が開き、夏の熱気と共に、夢の世界の空気が肺に流れ込んでくる。
陽光を乱反射して煌めく「クリスタル・ゲート」をくぐり抜けた瞬間、一行を待っていたのは、日常を完全に忘れさせる圧倒的な「映画の魔法」だった。
空に届きそうなサミット・マウンテンを背景に、極彩色の紙吹雪が舞う。最新鋭のプロジェクション演出だというのに、本物にしか見えない。そして、往年の名作映画のテーマソングが、重厚なフルオーケストラでパーク全体に鳴り響いていた。
「……いたっ! レオ監督!」
あかねが真っ先に指を差した。エントランス広場の中心で、大勢のゲストに囲まれていたのは、WSWの総支配人にしてメインマスコットである『レオ・ザ・サミット』だった。
黄金のタテガミを風になびかせ、ディレクターズキャップを斜めに被り、片手にはメガホン。その姿は、パンフレットで見るよりもずっと威風堂々としており、オーラに満ち溢れていた。
「ね、ねぇ。……握手、してもらえるかな」
的前での、あの近寄りがたい「宇宙人」の面影はどこへやら。杏子は完全にただのミーハーな女子高生になっていた。
レオの近くまで小走りで向かったかと思えば、途中で急ブレーキをかけ、百八十度回転して栞代のところへ戻ってくる。
「やっぱり恥ずかしいかも」
と言った数秒後には、またクルッと回転してレオに近づき、ある程度まで行くと、また「無理!」と回転して逃げ帰ってくる。
「杏子、お前それ、単なる不審者の動きやで。もー、ほら、行くぞ」
栞代が呆れて溜息をつき、杏子の手を強引に引いて、レオの隣へと並ばせる。
杏子が頰を上気させ、おずおずと一歩を踏み出す。
「杏子! 写真撮ってやるから並べ!」
栞代がスマホを構えると、杏子はレオの隣で、借りてきた猫のようにカチンコチンに背筋を伸ばした。
「監督、この子、これでも光田弓道部のエースなんですよ。一発、映画みたいなカッコいいポーズお願いします!」
栞代が馴れ馴れしくレオの肩を叩く。すると、国籍も言語も一切不明のレオ監督は、なぜか栞代の関西弁のノリを完全に理解したようだ。心得たとばかりにカチンコを鳴らすジェスチャーを見せ、杏子の小さな肩に大きなライオンの手を優しく置いた。
パシャリ、と最高の笑顔が記録される。
「……レオ監督の手、温かかった……フサフサだった」
満足そうに写真を見返す杏子。
その様子を、少し離れた場所から、あかねと、現地で合流してきたまゆ、ソフィア、紬がニヤニヤしながら眺め、杏子を迎えた。
まゆが車椅子の上から、「杏子、一緒に撮れて良かったね」と優しく声をかける。
杏子は「うんっ。まゆも撮ってもらいなよ!」と振り返った。
すると、杏子たちの様子を見ていたレオが、とことこと自らまゆのそばに歩み寄ってきてくれた。どうやら、まゆの車椅子が目に入り、気を遣ってくれたようだ。
それまで「私たちはもう高校三年生だし、着ぐるみではしゃぐ年齢でもないよね」と、どこか斜に構えた大人の態度を装っていたメンバーたちだったが。
実際に目の前まで来て、紳士的にお辞儀をしてくれるレオ監督の姿に、その薄っぺらい大人の殻は一瞬で崩れ去った。
「キャー! 監督こっち向いてー!」
「ソフィア、もっと寄って寄って!」
みんな大喜びで、レオを囲んでの撮影大会が始まった。
最初は杏子がカメラマンを務めていたが、「やっぱりわたしも入りたい!」となった杏子が、近くを通りかかったクルーを捕まえてスマホを渡し、無事に全員での賑やかな記念写真に収まることができた。
撮影を終え、優雅に手を振って次のゲストの元へ離れていくレオ監督。
ソフィアが、その揺れる黄金のタテガミを見つめながら、大真面目な顔で呟いた。
「……あのライオンの毛並み、毎朝のブラッシングに最低でも三時間は必要ですね。素晴らしい被毛のクオリティです」
その冷静すぎる分析に、一行は朝から大爆笑の渦に包まれた。
「まさかソフィアは時間単位でこの髪触ってるんじゃないだろうなあ」
あかねがソフィアの輝くような金髪をなでながら、ぽつりと呟いた。
午前中のスタート・アトラクションに選んだのは、スリルは標準的だが、圧倒的な没入感が売りの『コロンブス・アドベンチャー:失われたコンパス』だ。
「ここ、アトラクションの乗り場まで専用のスロープがあるな。まゆ、車椅子のままずっと行けるぞ」
栞代が先導し、一行は「映画の撮影スタジオ」を模した薄暗い待ち列を進んでいく。
「見て、あの小道具の地図。羊皮紙の質感がとてもリアルです……」
ソフィアがセットの細部を観察して感心する横で、杏子は時折、コースの先からかすかに聞こえてくる「ガタガタッ! キャーッ!」という振動音と悲鳴に、ビクッと肩をすくめていた。
いよいよ、探検用のジープ型ライドへの乗車口に到着した。ここからは、安全上の理由から車椅子を降りて座席に移る必要がある。
「まゆ、ゆっくりでええぞ。オレらが支えるからな」
栞代がまゆの手を引き、あかねが足元をケアしながら、ジープの少し高い座席へと誘導する。
後ろに並んでいた一般のゲストたちに、ソフィアと紬が「お待たせしてすみません」と軽く会釈をする。ソフィアの圧倒的な北欧系の美貌は、男性のみならず女性にも効果抜群で、全員が笑顔で「ゆっくりでいいですよ」「気にしないで」と温かく声をかけてくれた。
——まあ、美貌の効果だけとは思いたくないが、とあかねは密かに苦笑した。
杏子はまゆの杖をしっかりと預かり、反対側からまゆの身体を支えて座席に座らせた。
「みんな、ありがとう……」
「おいおい、今更水臭いこと言うなよ」
まゆに苦笑いしてから振り返ると、いつの間にか
杏子が乗車口の方へじりじりと後退していた。
「……って、おい杏子! お前も乗るんだぞ? なんでジリジリと後ずさりしてんだ」
「……べ、別に逃げようとしたわけじゃないよ。乗車口の安全確認をしてただけだもん」
栞代に首根っこを掴まれ、杏子も観念してジープに乗り込んだ。
「出発進行!」の掛け声と共に、ライドが動き出す。
未知のジャングルを進むジープは、設定通りに激しい揺れと急カーブの連続だった。
隣に座るまゆが、映像の迫力に「わっ、すごい……!」と声を上げるたび、杏子は無意識に、まゆの空いている方の手をギュッと強く握りしめていた。
「……杏子? 大丈夫? 」
「だ、大丈夫。これくらい、なんてことないよ。全然怖くないよ。ほんとなんだから」
そう強がる杏子だが、彼女の姿勢は、弓道における基本姿勢である「胴造り」を通り越し、カチコチの石像のように固まっている。未知の恐怖(揺れ)を打ち消すために、無意識のうちに極限まで重心を下げて安定させているのだ。
「……杏子、お前、姿勢正しすぎて、逆にジープの中で浮いてたぞ。修行僧かよ」
アトラクション終了後、栞代に突っ込まれ、杏子は真っ赤になって杖をまゆに返した。
続いて向かったのは、巨大なシアター形式のアトラクション『ライオンハート・スタント・エクスプロージョン』だ。
「次は座って観るだけのショーだから、まゆも安心だろ?」
あかねが、少し移動の疲れが見え始めたまゆを気遣う。
「うん、これなら大丈夫。……杏子も、これなら急に落ちたりしないから怖くないよね?」
まゆの優しい問いかけに、杏子は心底ホッとしたように「うん、映画なら……」と胸をなでおろした。
劇場内では、車椅子専用の観覧スペースも用意されていたが、「みんなと一緒に並んで座りたい」というまゆの強い希望を汲み、一番端のアクセスしやすい席に、栞代とあかねがまゆを抱えるようにして座らせた。
上映が始まると、スタントマンたちによる息を呑むアクションが展開される。
爆発シーンに合わせて座席のスピーカーが重低音で振動し、カーチェイスのシーンでは顔に特殊効果の霧が吹きかかる。
「……ソフィア、フィンランドにもこういう4Dシアター、あるのか?」
「あります。でも、この火薬の匂いの再現度……極めてリアルです。フィンランドの父の仕事の関係で見学した軍の演習を思い出します」
ソフィアが真顔で物騒な興奮の仕方をする横で、杏子とまゆは、突然顔にかかった水飛沫に「ひゃっ!」と驚きながら、顔を見合わせて楽しそうに笑い合った。
劇場を出て広場に出ると、ちょうどもう一つの人気マスコットである『カチンコ・スラップくん』が、コミカルな足取りで歩いていた。
「紬、チャンスだぞ」
栞代に背中をポンと押され、紬は無言のまま、スラップくんの前へと進み出た。
スラップくんが、映画の撮影開始を告げるようにカチンコを「パチン!」と鳴らす。すると、普段は無表情な紬が、今日一番の深く美しいお辞儀で応えた。
そのシュールな光景に、まゆも車椅子の上から嬉しそうに手を振って笑った。
「……よし。午前中のスケジュールは順調だな」
栞代が腕時計を見る。頭上の太陽が、七月のジリジリとした熱気をパーク全体に容赦なく振りまいていた。
「お腹空いたね。そろそろ、ソフィアが楽しみにしてた『ビストロ・ザ・グローリー』に行かない?」
杏子の提案に、全員の胃袋が待ってましたとばかりにぐうと鳴った。
「午後からは……あかね熱望のドラゴンのやつと、紬のアニメ・ボートだな」
栞代が、レストランへ向かって歩き出しながらニヤリと笑う。
その言葉を聞いて、杏子はパークの隅にある、静かで涼しげなカフェを指差して、まゆに小声で相談を持ちかけた。
「……まゆ。午後のドラゴンのやつ、あたしたち……あそこで待ってようか?」
「……うん。私も、あれはちょっと……ハードすぎるかも。酔っちゃうかもしれないし」
「だよね! だよね! 無理は禁物だよね!」
二人の「絶叫マシン怖がり同盟」が、強固に結成された瞬間だった。
「あのね、おばあちゃんがジェットコースター系、全然ダメなんだよ。だから私も遺伝でダメなの。仕方ないんだよ」
なぜか、自分が怖がりであることを誇らしげに、嬉しそうにまゆに報告する杏子であった。




