第521話 遠足 その1
遠足でチャーターされた観光バスが、高速道路を滑るように走っていく。
車内のちょうど中央付近。窓から差し込む柔らかな朝の陽射しを浴びて、杏子はシートに深く身を沈め、完全な眠りに落ちていた。
その隣では、栞代も首をカクカクと揺らしながら、うたた寝を繰り返している。
払暁からの、中田道場での早朝練習。そして、祖母の愛情たっぷりな朝食。心地よい疲労と満腹感が、二人を深く甘い微睡へと誘っていた。
「……ほんと、よくやるわ」
通路を挟んで座るあかねが、二人の無防備な寝顔を見ながら、呆れたように、そして同時にどこか優しげに呟いた。
「ま、今はゆっくり寝かせてやろ。昨日の夜から、あいつら、弓道にWSWと倍はアドレナリン出っぱなしだったろうしな」
栞代は眠りが浅いのか、時折薄目を開けて周りを見渡し、あかねと目が合って苦笑いを交わすと、再び重い瞼を閉じる。
そのやり取りを、あかねの後ろの席から興味深そうに眺めていたのは、テニス部のエースペアであり、また同時に最大のライバルという関係にある、遥と澪だった。
「せっかく栞代と杏子の分もと思って、気合入れてお菓子山ほど買ってきたんやけどなあ」
遥が膝の上に抱えた、パンパンに膨らんだコンビニのビニール袋を残念そうに揺らす。
「責任取って私が食べるから、安心してくれ」
あかねが迷いなく手を伸ばし、袋の中からコンソメ味のポテトチップスを抜き取って口に放り込んだ。
「あかねも大変やなあ。杏子ってほんま、どっか浮世離れしてるとこあるからなあ」
遥がからかうように言う。
「弓握ったらちゃうんやで」
あかねがフォローを入れると、
「ああ、でもあれは逆に、ちょっと危険すぎるな。あの姿見たら、なんか身体動かしたくなって、倒れるまでの練習を欲してまう」
遥がそう言った瞬間、澪が
「ほんと、いい迷惑」
と、言葉とまるで違う、にこやかな顔で呟いた。
「あの刺激があったから、今年は団体戦でも全国のキップ取れたよね」
「ああ、いつも団体の時は体力続かんかったけど、修学旅行で杏子の弓見てから、なんか知らん、気がついたら倒れてたってぐらい練習したもんなあ」
遥はそう言うと、我にかえったように、話題を変えた。
「でもあかね、ずっと一緒やったまゆと、三年生になって進路が分かれてクラスも離れちゃったから、ちょっと寂しいんちゃう?」
「いや、お前みたいな騒がしいのがいるから、全然寂しくなんかないわ」
あかねが鼻で笑ってチップスを噛み砕く。
「まゆちゃんは大丈夫なん? あかねと離れて寂しがってない?」
澪が身を乗り出して尋ねる。
「まゆなら、ソフィアと紬と同じクラスやからな。少し景色は変わったやろうけど、あの二人が付いてりゃ安心や。ソフィアも紬も、ああ見えて意外とかなり気が強いからな。……ま、紬は気が強いっていうか、周りに一ミリも左右されないだけやけど」
「そやけど、まゆちゃんとソフィアちゃんが同じクラスなんて」
澪がしみじみと頷く。
「うちらの学年を代表する美形と可愛らしさトップ二人が揃っちゃって。しかも二人とも理系という。 ただでさえ女子少ないのに、理系の男子、絶対に勉強に身が入ららないよねえ」
澪の言葉に、あかねが深く、呆れたように頷いた。
「ああ。うちの部の松平と海棠も同じ理系クラスやけどな。あの二人、絶対に進路選ぶの、邪な考えからやで。……松平はまゆの、海棠はソフィアの近くにいたいっていう、実に分かりやすい不純な欲望や。将来マジメに考えとんのやろか?」
「そやけど、文系女子の方が圧倒的に多いのに、なんでうちらの学年のワン・ツー女子が理系やねん。なんか文系女子として悔しいわ」
遥が頰を膨らませてぼやく。
「いやいや、うちらのクラスにも、遥と澪いう、トップがおるやん」
あかねがおだてると、遥は「えへへ。そう?」と満更でもない顔で照れた。
「それにしても、松平も海棠も、その異常な執念と集中力を、少しは弓道に回して結果出してほしいわ」
あかねが毒づくと、テニス部の二人は声を上げて笑った。
「そやけど、あかね。今年は団体も個人も、男子も全国行くやん。頑張ったやん」
「あれ、絶対にソフィアとまゆに褒められたいだけやで、全く」
今度は三人が揃って大笑いした。
全国という舞台で同じ高みを目指す者同士。競技は違えど、話題は尽きることなく、バスは夏空の下を軽快に飛ばしていく。
やがて、バスの車窓に巨大な「山」のシルエットが見えてきた。
日本が誇る世界規模の巨大テーマパーク、WSWのシンボル、サミット・マウンテンだ。
「おい、杏子。起きろ、着いたぞ」
先に目を覚ましていた栞代が、杏子の肩を優しく揺らす。
「……う、ん……。もう、お昼……?」
「昼じゃない。それはまだや。夢の世界の入り口についたで」
杏子が寝ぼけまなこを擦りながら窓の外に目をやった瞬間。
その瞳に、パッと眩い輝きが宿った。
視界に飛び込んできたのは、夏の陽光を乱反射して煌めく巨大な「クリスタル・ゲート」。そして、パークの支配人である『レオ・ザ・サミット』の巨大なモニュメントが、シルクハットを片手に、誇らしげに右手を上げてゲストを迎えていた。
「わぁ……! すごい……!」
昨日まで、道場の片隅で「弓の練習をしたいから、行くの、辞めようかな」と本気で零していたストイックな求道者の姿は、もうそこにはいなかった。
弓を置いた今の彼女は、ただの十七歳の、等身大の女の子だ。
弓を握れば「宇宙人」と、畏怖の念を一身に浴びる杏子だが、弓から離れた時の杏子は、驚くほど素直で、感情が顔に出やすい。
「見て、栞代! あのドラゴンのコースター、空を飛んでるみたい!」
杏子が、ガラスに額を押し付けんばかりに指差す
「ああ、あれが『サミット・オブ・ドラゴン』だな。あかねが絶対に乗るって、行く気満々で息巻いてるぞ」
バスが専用駐車場にゆっくりと滑り込むと同時に、杏子は、身を乗り出すようにしてリュックから地図を引っ張り出し、膝の上に広げた。
その横顔は、これから始まる冒険への好奇心でいっぱいの、子供のような無邪気な輝きを放っている。
「よし、行こう! まずは、えーと……ここに行って、それから……!」
「落ち着けよ、主将。逃げやしないから。まずは整列だ」
栞代が笑いながらリュックを背負い、杏子の頭を軽くかき回す。
プシュー、とバスの扉が開いた瞬間。
車内に流れ込んできたのは、うだるような夏の熱気と、パーク内から響き渡る高揚感あふれるブラスバンドのオーケストラだった。
光田高校三年生。
彼女たちの、すべてを忘れて楽しむ「特別な一日」が、今、最高のファンファーレと共に幕を開けた。




