第520話 『夜明けの道場と、おばあちゃんの弁当箱』
それぞれの学年が遠足に出掛けるが、特に三年生にとって「卒業遠足」の当日の朝。
空はまだ、夜の闇が抜けきらない薄明るい群青色に包まれていた。
夏特有の生ぬるい風が吹く中、杏子の家の前に停まった祖父のワゴン車に、杏子と、そして半分以上眠りに落ちている栞代が乗り込む。
車はエンジン音を低く唸らせ、一華と二乃を迎えに向かった。。
昨晩、杏子が直接祖父に頼み込んでおいた一華と二乃も、一華の自宅前でピックアップして合流した。
「……おはよう、ございます」
乗り込んできた一華も二乃も、普段の鋭い眼光やテキパキとした所作はどこへやら、重たい瞼を半分しか開けられないまま、今にも舟を漕ぎそうだ。
「おはよう。一華のお母さん、今日は大丈夫だった?」
去年の修学旅行での『家出騒動』を思い出し、杏子が尋ねると、二乃が半分寝たまま答えた。
「……はい。私が迎えに行ったので……おばさま、部長にくれぐれもよろしくって言ってましたよ……」
そう返事したかと思うと、続いて聞こえてきたのは、二乃の微かな寝息だった。
車は、信号の点滅だけが続く静まり返った街を抜け、中田先生の道場へと滑り込む。
「おじいちゃん、今日は一緒に歩けないけど、待ってる間、少しでいいから散歩してね」
杏子が後部座席から声をかけると、運転席の祖父はバックミラー越しにニカッと笑った。
「ああ、わかっちょる。ぱみゅ子が弓を引いているのを見ながら歩くのも、一興じゃ。がはは!」
わざとらしく大きな声で笑ったのだが、後部座席で辛うじて目を開けて反応したのは一華だけだった。栞代と二乃は、完全に夢の中である。
道場には既に煌々と明かりが灯っており、中田先生はいつものように背筋をピンと伸ばして一行を迎えてくれた。
「杏子、またこんな早よから練習か。一華さんも、そんなに毎回データチェックせなあかんもんなんか。……若いうちは、ゆっくり寝てたらいいのになあ。ご苦労なことやで、ほんま」
口の悪いのはいつものことだが、杏子の姿を見ることができて、喜んでいるのは誰の目にも明らかだ。
先生はぶっきらぼうにそう言いながら、道場の端に置かれたパイプ椅子にどっかと腰を下ろした。
普段、杏子が練習する時、先生は奥の控室からガラス越しに静かに見守るのが常だ。だが今日は、パイプ椅子を道場の端へ引きずり出し、どっかと腰を下ろしていた。
——前回の、麗霞の怪我を知った直後に杏子が見せた、あの荒れた射の「その後」を、この目で見届けるつもりだということは、言葉にしなくても分かった。
杏子が着替えている間、一華は眠気を吹き飛ばし、三脚を立てて撮影の準備を整えていた。前回の突発的な練習と違って、今日はタブレットのバッテリーも、カメラのアングルもきっちりと計算されている。
杏子が道場に現れると、先生が声をかけた。
「杏子、一華さんにもちゃんと感謝せなあかんで。こんな朝早くから」
「はいっ! 一華、ありがとうね」
杏子が明るく返事し、一華に向かって微笑む。
一華は「データ収集は私の趣味ですから」と、相変わらずの無表情で機材をチェックしていた。
結局、二乃と栞代は、さすがに眠気の限界だったのか、祖父の車の中でシートを倒して仮眠を継続することになった。
祖父は約束通り、杏子の練習を道場の外から横目で見守りながら、建物の周りをゆっくりと散歩し、ひんやりとした朝の空気を胸いっぱいに吸い込んでいる。
準備を整えた杏子が、射場に立つ。
静寂の中に、杏子の衣擦れの音だけが微かに響く。
足踏み、胴造り。
一華が『狂いがない』と評した完璧な土台が築き上げられる。
ゆっくりと弓が押し開かれ、会に至る。
一切の淀みも、迷いもない。
パァン。
朝の張り詰めた空気を真っ二つに切り裂くような、乾いて、高く、美しい弦音が響き渡った。矢は、吸い込まれるように的の芯を射抜いていた。
しばらくその姿を見守っていた中田先生は、杏子の的中と、それ以上にその「心の静まり」――つまり、悲しみを乗り越え、自分の射に集中する覚悟――を確認して、深く安心したのだろう。
「……よし。問題ないわ」
ゆっくりと立ち上がり、大きな欠伸を一つ、二つと繰り返しながら、いつもの控室の方へ背中を向けて去っていった。
一方の一華は、定位置から瞬きもせずに撮影を行い、その後、控室へ向かって中田先生と撮影の角度など、何やら専門的なデータについて言葉を交わしている。
ようやく栞代と二乃も目を覚まして道場に入ってきた。栞代は遅れを取り戻すように慌ててゴム弓から準備を始め、二乃は一華の元へ走り、データの集計と機材の調整を手伝い始める。
中田先生の指摘を、一華が通訳するように栞代と杏子に伝達し、二乃がテキパキと矢取りのサポートに回る。
早朝の道場に、いつもの光田高校弓道部のリズムが戻っていた。
予定より若干早めに練習を切り上げた一行は、再び車に乗り込み、杏子の家へと戻った。
杏子の家のダイニングには、祖母が腕によりをかけて準備した、湯気の立つ豪華な朝食が並んでいた。
炊き立ての白米の甘い香りと、出汁の効いた優しいおすましの匂い。それが、朝の練習で張り詰めた身体の芯をじんわりと解きほぐしていく。
「……美味しい。生き返ります」
一華が、祖母の特製である黄金色の卵焼きを口に運び、普段の鉄仮面からは想像もつかないような至福の表情で呟いた。
「真映もそうですけど、楓や滴が、『今朝はここで朝食を一緒に摂る』って知ってたら、絶対に無理やりにでも車に張り付いて付いてきてましたね」
杏子が「この流れは昨晩、急に決まったもんね」と笑って応える。
祖父は「がはは、大勢で食う方が飯は美味いからなあ。これは早起きした者の特権、ご褒美じゃ!」と、賑やかな食卓にご機嫌だ。
栞代は能天気な祖父に、きっちりと、「その分、朝早くから準備して大変なのは、おばあちゃんなんだけどな。いただきます」と、ツッコミを忘れない。
「……だけど、今日ここで飯食ったことは、あいつらには内緒にしてくれよ」
栞代が、おすましを啜りながら二人に釘を刺した。
「いいか、一華、二乃。お前らだけおばあちゃんの卵焼きを食ったことがバレたら、あいつら(親衛隊)に絶対に恨まれるからな。絶対に黙っといてくれよ」
しかし、二乃はすぐに首を振って白旗を上げた。
「いや、栞代さん。それは多分無理ですよ。今日、顔を合わせたら、絶対に根掘り葉掘り訊かれますから。わたしはまだ、同学年の滴の追求を躱すだけで済みそうですが、一華姉は、真映さんと楓さんに両脇から詰められて追求されますからねえ。……一華姉、嘘つけないし」
一華が、卵焼きを見つめながら不安げに零す。
「……真映は、絶対に怒るだろうなあ。……なんせ彼女、おばあさまの卵焼きの熱狂的な大ファンですからね。暴動が起きる確率、九十八パーセントです」
一華の真顔での予測に、食卓にドッと笑いが起きた。
そんな彼女たちのやり取りを微笑みながら見ていた祖母が、立ち上がり、戸棚から風呂敷に包まれた二つの弁当箱を取り出した。
そして、一つを一華に、もう一つを二乃に差し出した。
「はい、これ。一年生と二年生のお昼用に、お弁当の惣菜の用意をしたから。今日、それぞれの遠足先でみんなでつまんでね」
一華と二乃は、そのずっしりと重い弁当箱を受け取り、顔を見合わせた。そして、極めて真顔で呟いた。
「……ありがとうございます。でも、自分で食べたくなりますね」
見事に重なった二人の本音に、杏子も、栞代も、そして祖父も祖母も、声を上げて笑った。
「ふふふ。卵焼き、たくさん作ったからね。みんなで仲良く分けてね」
おばあちゃんの優しい声に見送られ、一行は「非日常の遠足」という、学年ごとに違う行き先へ向かうため、まずは光田高校へと向かって歩き出した。
夏の太陽が、少女たちの背中を眩しく照らしていた。




