第519話 『遠足前夜の喧騒と、早朝特訓計画表』
三者面談という「大人への入り口」を通過したばかりの三年生たちは、どこか憑き物が落ちたような、それでいて将来への覚悟をより深めたような、不思議な熱を帯びていた。
「親分、結局大学はどこに行くんですか?」
休憩中、真映がいつもの調子で、水を飲む杏子に詰め寄った。
「やっぱ『日ノ本学園』? 日本一の大学で、親分が弓を引いてる姿、あっしは見たいですわ!」
「それとも『憲政大学』っすか? でも、あそこは東京だし遠いからなぁ。あっしが寂しいから、地元の『立志館』か、冴子前部長たちが行った『西方大学』にしましょうよ、ね?」
杏子は、隣で「やれやれ」と首を振る栞代を一瞬見てから、ふふっと柔らかく微笑んだ。
「……全然違うよ、真映」
「えっ、じゃあ『秀峰大学』? あそこはうちと関係が深いすけど、国立だし、遠いし、親分にはちょっとしんどすぎません?」
「違うよ」
「えーっ、どこなんですか!」
食い下がる真映を、栞代が片手で制した。
「真映、それは秘密だ。まあ、すぐに分かるだろうけどな」
「えーっ。……まあ、仕方ないっすね。でも、ここで叶わなかった『親分の横で同じ試合に出る夢』、大学の全国大会で絶対に叶えたいですからね。あっしも死ぬ気で追いかけますよ」
横で聞いていた楓も、強く頷く。
「ほんとに。わたしもです。部長の背中、どこまでも追いかけますから」
その瞬間。
杏子の真っ直ぐな瞳に、微かな、それでいて深い悲しみの色が差した。
自分がこの夏を最後に、弓を置くと決めていること。
この素晴らしい仲間たちと同じ場所に居るのは、この夏が最後になるということ。
その予定を、杏子はぐっと飲み込み、笑顔の下に押し込んだ。
「……大事なのは、今だよ。先のことを言うと、鬼が大合唱で笑うっておじいちゃんが言ってたよ。さ、練習しよ!」
明るい声。
けれど、隣に立つ栞代は、その声が微かに震えたことに気がついていた。
練習後、部室は明日に控えた「三年生卒業遠足」の話題で一気に華やいだ。
「親分、明日はいよいよWSWっすよね。三年生だけとか、完全に反則ですよ。あっしらも行きたいっすよ!」
真映が床を転げ回って悔しがる。WSWは、浪都が誇る世界規模の巨大テーマパークだ。
「お前も来年行けるだろ」
と、あかねが呆れ顔で突っ込む。
「いや、不穏な噂があるんですよ! あの小うるさい新校長が、『今年は積立金が進んでいるので間に合わなかったが、来年は精神統一のための座禅会合宿に変更する』なんて言ってるって噂が……」
「お前みたいなうるさい奴がいたら、座禅会のお坊さんも、WSWのマスコットの『レオ・ザ・サミット』も迷惑して逃げ出すだろうしな」
真映はむくれて反論する。
「あっしの一押しは、レオじゃなくて『カチンコ・スラップくん』ですから! あの無表情からのシュールな動き、たまらんですわ」
「……あのスラップの中の人、ずっと真映かと思ってたわ」
あかねが笑うと、真映は立ち上がってマジレスで返した。
「あかねアネキ! 中の人なんて居ないんですよ! 映画の魔法ですよ! せっかく夢の世界から舞い降りてきてくれてる『カチンコ・スラップくん』に失礼っすよ!」
そんな喧騒の端で、杏子がふと、俯いて呟いた。
「……あたし、行くの、辞めようかなって思ってるんだ」
「えええーっ!!」
全員がひっくり返りそうな真映の絶叫が響いた。
「なんでですか! 親分! 今キャンセルしても、積み立てたお金は一円も返って来ないんですよ! 一円も! 一円も返ってこないんですよ!!」」
「ふふ、そういうことじゃなくてね。……一日中遊んでるより、弓の練習を、少しでもしておきたいなって」
「……親分。どこまでストイックなんですか……。滝に打たれる修行僧の時代はとっくに過ぎ去ったんですよっ。今や職人の世界も効率なんですよ」
「杏子。そんな顔すんな」
栞代が、杏子の肩をポンと叩いた。
「明日の早朝、また中田先生のところに行こうや。一時間だけ集中して引いて、それからバスに乗ればいいやろ」
「……うん! じゃあ、もう一時間早く起きてもいいかな?」
「えっ」
朝に弱い栞代の顔が引きつる。——マジかよ。勘弁してくれ……。
「ま、まあいいけど。バスで寝ればいいしな」
「私も同行します」
一華が、いつの間に用意したのか『遠足当日・早朝特訓計画表』というプリントを差し出した。
「部長、ここにサインをお願いします。一分一秒の無駄も許さない、完璧なスケジュールを組みました」
「なんで遠足の朝にそんなもの要るんだよ」
と栞代が呆れると、横から二乃がクスクスと笑いながら理由を説明しだした。
「だって一華姉、去年の部長の修学旅行の時の早朝練習に行こうとしたら、気合入りすぎて朝三時に家を出ようとして、お母さんに『勉強のストレスで家出する気だ』と勘違いされて部屋に閉じ込められたんですよ」
「二乃! なんでその極秘事項を知っている!」
「一華姉、うちに来てうちの母に愚痴ってたじゃないですか。母が笑ってました。今度は、大丈夫です、部長。明日は私が責任を持って、一華姉を迎えに行きますから」
「……二乃、お前は一華のお母さんに全幅の信頼を置かれてるんだな」
栞代が深く頷く。一旦決めたら周りも見ず、猪突猛進すぎる一華と、それを手なずける二乃のコンビに、杏子にもようやく心からの笑顔が戻った。
「部長!」
そこへ、一年の葡萄が目を輝かせて割って入った。
「いっそ明日の遠足、ギャルファッションで行くとかどうですか!? 部長が金髪ウィッグ被って、WSWをジャックするんです!」
「葡萄、別に私服でもいいことに一応はなってるんだけど、私服の場合は、前もって生徒指導部の許可もらわないと駄目なんだよ。だから事実上、全員制服なんだ。ギャルファッションで許可でる訳ないだろ。てか、杏子にそんな服着させるな」
栞代の即答に、苺が続く。
「じゃあ、せめて『光田弓道部参上!』ってデカデカと書いた習字の垂れ幕を用意しますから、パレードに割り込み参加するとか、どうですか?」
「即刻つまみ出されるわ!」
と、今度はあかねが突っ込む。
「……部長。お土産、買ってきてください」
滴が、杏子の袖を遠慮がちに引いた。
「マスコットの『ヴィヴィ&トリー』のペアストラップ、欲しいです。……部長とペアで付けたいから」
「ちょっと待った〜〜っっ!」
滴の抜け駆けのようなアイデアに、楓は血相を変える。
「そ、それは、わたしにっっ! 私がペアになりますっ!」
杏子の戸惑いに、部室には笑いが広がる。
真映がぽつりと、「わたしも早朝練習行こうかな」と呟くも、栞代が制した。
「いやいや、来なくていいって。ニ年生も遠足だろ? 可愛い鹿が真映を待ってるぞ。みんなが練習するのは、学校の道場だけでいい。拓哉コーチが目をひんむいて怒るぞ。まあ、そんな姿見たことないけど」
あかねが少し申し訳なさそうに言う。
「部長が朝から行くのに、なんか、わたしらが行かないの、申し訳なくない?」
「いやいや、大丈夫だって。杏子のペースに付き合ってたら、宇宙に行っちゃうぞ。オレは多分同行するだけで現地で寝るかもしれんし。というか、遠足から帰って元気あったら、普通に夕方からここで練習しようや」
「ま、そだな。それなら付き合うわ」
栞代の提案に、あかねも納得したようだ。
栞代が、黙々と弓を拭いている二人に話を振る。
「ソフィアと紬も、WSWはアニメが元のやつも多いから楽しみだろ?」
「はい。レストラン『ビストロ・ザ・グローリー(栄光の食卓)』の再現メニューが楽しみですね。劇中のパイを食べます」
と、ソフィアは青い目を輝かせる。
「紬は?」
「……それは、わたしの、課題では、ありません」
「ああ、『ムーンライト・シネマ・ボート』の期間限定バージョン、『ムーンライト・アニメ・ボート』が楽しみなんだと」
栞代が即座に通訳する。
「なんで分かるんだよ、栞代太郎。紬もすっかりO次郎化してて、今や栞代しか、言ってることが分からんぞ」
あかねが呆れると、ソフィアがフォローを入れる。
「アニメ見ている時は、普通に流暢に話してますけどね」
Q太郎扱いされた栞代は、慌てて言った。
「いやいや、違うって。だって、紬、さっきから、パンフレットの『ムーンライト・シネマ・ボート』が期間限定バーションの『ムーンライト・アニメ・ボート』になってるページを、穴が開くほど凝視しているからさ」
指摘された紬は、わずかに耳を赤くしてパンフレットを閉じた。
三年生だけの、学校生活最後かもしれない「非日常」。
明日への期待。練習への執念。そして、言葉にできない寂しさ。
様々な感情を乗せて、部員たちは、道場からそれぞれの家路についた。
(※ 注意)
藤子・F・不二雄先生の「オバケのQ太郎」というマンガで、Q太郎の弟のO次郎は「バケラッタ」としか言わないが、Q太郎だけ、弟が何を言っているのか分かる、という設定がある。




