第518話 『大好きの優先順位、金メダルの夢』
七月の重く湿り気を帯びた夜風が、杏子の家の縁側をゆっくりと吹き抜けていく。
夕食後の穏やかなひと時。おばあちゃんが淹れた緑茶の香ばしい香りがリビングに満ちる中、テレビの音量を少し下げて、おじいちゃんが意を決したように切り出した。
「……ぱみゅ子。改めて真面目に話したことはなかったが、明日は三者面談じゃな。地元の短大に行くという考えで、変わりはないのかい?」
同居している栞代の志望校(就職から進学への変更)については先日話し合っていたが、杏子の進路については、祖父もどこか慎重に言葉を選んでいた。
「うん、おじいちゃん。私、ここから通える範囲で、地元の短大にいくよ。保育とか、生活科学とか、そういうの学べるところ」
迷いのない声。満足そうに目を細める祖父。
しかし、祖母は静かに湯呑みをテーブルに置き、孫娘を真っ直ぐに見つめた。
「杏子ちゃん。……ありがとう。でもね、あなたが望むなら、もっと遠くの大学に進学して一人ぐらししてもいいし、近くへ一緒に引っ越したっていいのよ。まあ多分おじいちゃんが放っておかないでしょうけど。あなたの将来に繋がる選択をしてちょうだい。無理に地元や、私たちに縛られる必要はないわ」
「うん。おばあちゃん、ありがとう。でもね、私は今、ここでみんなと暮らすのが一番やりたいことなの。おばあちゃんが育ったこの土地で、私もずっと一緒にいたいんだ」
その頑固なまでの「今」への愛着に、祖母は少し寂しそうに、けれど誇らしそうに微笑んだ。
「それに、やりたいことが新しく見つかったら、ちゃんとその時に相談するよ。高校卒業のときには明確な夢がみつからなかったって、全然問題ないって。自分の時間割は自分で決めればいいって、おじいちゃんも言ってるしね」
杏子と祖父母のやり取りを、少し離れたソファで黙って聞いていた栞代が、茶化すように口を挟む。
「まあ、おじいちゃんは時々、一応はいいことを言うんだけどさ」
「時々とか、一応とかなんじゃい! わしの発言はいついかなる時も金言じゃいっ!」
祖父が即座に噛み付くが、栞代は意に介さず、杏子に向き直った。
「でも、杏子。身も蓋もない現実的な話だけどさ、杏子の弓道の実力と実績があれば、スポーツ推薦で全国どこへでも、有名な大学に行けるんじゃないか?」
栞代はそう杏子に向かって言ったかと思うと、くるりと首を回し、祖父をジロリと睨みつけた。
「……おじいちゃん。杏子への大学からのスカウトの話とか、隠してないよね?」
「う……」
おじいちゃんの目が、あからさまに泳いだ。
「やっぱり。瑠月さんや冴子さん、沙月さんにも強豪大学からバンバン話が来てたんだ。高校ナンバーワンの杏子に来ないわけがないよな。どうせ、学校宛てに来た資料とか、おじいちゃんが勝手にストップかけてるんだろ」
「じゃ、じゃあわし、そろそろもう眠いから寝ようかのう……」
ふらふらと逃げるように立ち上がろうとする祖父だったが。
「逃げるなよ。ちゃんと話せって」
栞代にガッチリと肩を掴まれ、おじいちゃんは観念したように深いため息を吐いた。
「……わしは、スポーツ推薦には反対なんじゃ」
祖父が、珍しく真面目な顔で語り出した。
「推薦で入れば、大学の看板を背負わされる。『やりたいからやる』という純粋な粋を超えて、『弓道をやらなければならない義務』になる。何かに縛られて弓を引くというのが、どうにもわしには我慢ならんのじゃ。人間、一番大事なものは、自由じゃ」
「って、おじいちゃんが縛られる訳じゃねーじゃんか。杏子の人生だろ」
栞代はため息を付きつつも、少し声のトーンを落とした。
「ただ、でもさ、杏子。実はおじいちゃんの言うことも分かるんだよね。勝つための道具にされるのはキツい。……瑠月さんも一瞬はスポーツ推薦を考えたらしいけど、瑠月さんの目標は『教師になること』で違うところにあったから、結局は弓道部には入らなかったし。でもまあ、勉強もめっちゃできたからなあ、瑠月さんは。自力で国立受かっちゃうんだから」
「うんっ!」
杏子は、大好きな瑠月が褒められて、我がことのように嬉しそうに頷く。
「さすがは瑠月さんじゃ。才色兼備とはあのことよ」
祖父も目を細めるが、栞代は再び現実に戻す。
「でもさ、話が来てるなら、杏子にはちゃんと相談するべきだろ。もしかしたら試合会場とかで、大学のスカウトの人が直接杏子に声をかけようと来てたかもしれないけど……」
栞代はふと、試合会場での杏子の周辺の光景を思い出した。
「まあ、杏子には、不審なやつは絶対に近づけない『鉄壁の防衛体制』が整ってるからなあ、うちの弓道部は……」
栞代の脳裏に、真映や楓、一華の姿が浮かぶ。それに加えて、今年からは一年生の滴や葡萄も加わっている。
今の弓道部はそもそもが「杏子一家」という体裁だし、その中でも、今思い浮かべた面々が「杏子親衛隊」として、少しでも怪しい大人が近づこうものなら、物理的・心理的バリケードを築いて杏子を護っている。
そして当然、若頭と呼ばれている栞代自身も、その筆頭だ。スカウトマンが接触する隙など、一秒たりともなかっただろう。
「ううん、いいんだよ、栞代」
杏子が、お茶を一口飲んでから、屈託のない笑顔で言った。
「それに私、弓道は続ける気ないから」
「……え?」
栞代が絶句した。
高校女子弓道界の頂点に立つ少女の口から出た言葉とは、到底思えなかった。
「だって私の夢は、おばあちゃんに金メダルをプレゼントすることだもん」
杏子は、隣に座る祖母の肩にコテンと頭を乗せ、まるで子供のように純粋な笑顔で続けた。
「弓道は大好きだけど、おばあちゃんはもっと大好きだから。金メダルを取ったら、私の弓道は一旦おしまい。大満足だもん」
杏子らしい、あまりに純粋で、計算も野心も、一点の曇りもない決意。
それは、今夏のインターハイが、文字通り杏子にとって「最初で最後の集大成」であることを意味していた。
大学での活躍も、一般での栄光も、彼女の「時間割」には最初から組み込まれていなかったのだ。
栞代は、彼女の隣に立つことの重みを、改めて骨の髄まで思い知らされた。
この夏で終わる。
この、理不尽なまでに美しく、圧倒的な「宇宙人」の弓を見られるのは、この夏が最後なのだ。
「ぱ、ぱみゅ子……。わ、わしは……? わしは……?」
その感動的な空気をぶち壊すように、祖父が震える指を自分に向け、捨てられた子犬のような顔で泣きついてきた。
「おばあちゃんが一番で、弓道が二番なら……わしは何番目なんじゃ……?」
「も、もちろんおじいちゃんも好きだよ〜」
杏子が苦笑いしながらフォローするが、祖父はわざとらしく胸を押さえてよろけた。
「わ、わしには『大』が付いていない……! ただの『好き』じゃ……!」
分かりやすく落ち込み、床に崩れ落ちる祖父。
「あ、大好き、大好きだから! おじいちゃんも大好き!」
杏子が慌てて取り繕い、背中をさする。
お約束の茶番劇が始まる中、栞代はふと、窓の外の夏の闇に目を向けた。
杏子の夢を叶えるために、自分ができること。
そして、弓道とは別に、自分の歩むべき未来の道。
明日、学校の教室で、その未来を言葉にする時がくる。
三者面談。
それぞれの夏が、それぞれの人生の岐路に向かっていた。




