第517話 『変わらない朝、戻ってきた宇宙人と一華の嘘』
祝勝会と、その裏で知らされた衝撃的なニュース。
そんな波乱に満ちた夜の翌朝は、驚くほど静かに始まった。
朝陽が校舎の窓を叩くよりずっと前。
空はまだ薄く白み始めたばかりで、街の輪郭には夜の群青色が色濃く残っている。
杏子の家の朝は、いつものように三人の歩調と共に始まっていた。
祖父と杏子、そして栞代の三人は、朝靄のかかる川沿いの遊歩道をゆっくりと歩いていた。
「……それでな、こないだ高階会長の家に遊びに行ったときに出た茶菓子が、これまた絶妙に美味くてな……」
祖父の取るに足らない世間話が、朝の冷たく澄んだ空気に溶けていく。
「はいはい、おじいちゃん。その話、昨日どころか一昨日から三回ずつは聞いたぞ」
栞代が、眠い目をこすりながら容赦なくツッコミを入れる。
「いや、昨日はしておらんから、まだ二度目じゃ」
「してたって」
「しておらん」
「してた」
いつ「おまえのかあちゃんでべそ」と言い出しかねない小学生のような言い争い。
杏子は、二人の間に流れるそのやり取りを聞きながら、小さく笑った。
形勢不利とみた祖父は、咳払いをして話題の方向を変える。
「栞代、お前は、もしかしてわしがちょっとボケてしまって、同じ話を繰り返しているとは思わんのか。そういうときはじゃな、常に初めて聞いたように、新鮮な対応をするのが年長者への礼儀、思いやりというものじゃ」
「もしおじいちゃんが本当にそうなったら、何度でもちゃんと初めてのフリして聞いてやるよ。でも今のおじいちゃんは、違うだろ。その高級菓子をもう一回食べたい、だから杏子とオレに買ってきてくれとねだるための前フリ、こういう意味だろ?」
栞代がいつもの調子で的確に図星を突くと、隣を歩く杏子が「ふふっ」と小さく声を出して肩を揺らした。
杏子は、むくれる祖父の腕にそっと自分の腕を絡め、庇うように言った。
「おじいちゃん、今度高階会長に、なんて言うお菓子なのか、ちゃんと聞いておくからね」
その言葉に、祖父は嬉々として鼻を高くし、栞代を振り返ってドヤ顔を見せつけた。
昨夜、ホテルの客室で、かぐやからの報告を聞いたとき、声を上げて泣き崩れていた杏子の姿は、もうそこにはなかった。
表情は穏やかで、足取りもしっかりしている。
けれど、ふとした瞬間に遠くの空を見つめるその瞳の奥には、以前よりも深い、凪いだ海のような「静寂」が宿っていることを、栞代だけは見抜いていた。
「ところで栞代、わしがこのまえ高階会長の家でだなあ……」
性懲りもなく、また同じ話が始まる。
栞代が呆れて「もうメンドクサイ」というテイでひらひらと手を振ると、杏子はその横で、また楽しそうに笑った。
変わらない朝だった。
昨日、確かに杏子の世界を揺るがすような何かが大きく変わったはずなのに。
この時間は、何も変わっていなかった。
早朝練習の空気も、いつもと同じだった。
「……親分。我々は一体いつ、平穏な朝を迎えられるのでしょうか」
道場に着くやいなや、大げさに天を仰いで嘆いて見せたのは真映だ。
テスト期間が明けた途端に再開された早朝練習。彼女にとっては、鉛筆を握る苦行の次に、強烈な眠気との戦いが待っていたのである。しかも、それが永遠に続くように思われた。
「今の状態が、オレたちの平穏なんだよ」
栞代が即答する。
「そんな身も蓋もないことを……」
真映が肩を落とすやり取りに、道場内にくすくすと笑いが広がる。
そんな中、一年生の葡萄が目を輝かせて杏子に詰め寄った。
「部長! 私、ナイスアイデアを思いついたんです。早朝練習の時って、登校する生徒が少ないじゃないですか? だから、家から思いっきり好きな服で登校して、部室で着替えて、練習後に制服になって授業に出るの……アリじゃないですか!?」
「……お前、テスト期間中にそんなこと考えてたのか」
すかさず栞代のツッコミが入るが、葡萄は引かない。
「だって、オシャレしたいじゃないですか! 朝の光の中で、可愛い服着て歩きたいんですよ!」
「登校する時は制服って校則で決まっとるからなあ。あの新校長に見つかって練習時間減らされたらどうするっ。しかも、学校帰りに私服に着替えて遊びに行くのは聞くけど、逆回ししてどうするんや」
あかねが横から口を挟む。
「途中まで私服で来て、学校近くの公衆トイレで制服に着替えて登校。クラブ終わったらまた途中のトイレで着替えて帰る、いうのはどうや?」
葡萄は一瞬真剣な表情を見せたと思ったら、すぐに首を横に振った。
「クラブ終わったらヘロヘロなんで、二度も着替えるのはヤです」
「なんやそれ!」
道場の空気が、また和らぐ。
(葡萄も、そんなに本気で練習して、ヘロヘロになってるんだなあ)
考えてみると当たり前だが、いつも飄々としてオシャレのことばかり考えているように見える葡萄も、手を抜かず毎日真剣に弓と向き合っているのだ。
杏子は、ふと隣の真映を見る。真映も同じだ。文句を言いながらも、誰よりも早く道場に来て準備をしている。
杏子は改めて思う。
昨日と同じ仲間たち。
同じ声。同じ動き。同じ空気。
そして、自分の中にも、昨日と同じものがある。
麗霞の不在という激しい揺れは、決して消えてはいない。
けれど――。
杏子は、弓を持つ。
足踏み。
胴造り。
弓構え。
もう、彼女の体は、迷っていなかった。
引き分ける。
会。
離れ。
パンッ!
矢は迷いなく一直線に飛び、的の芯に吸い込まれるように突き刺さった。
これが、杏子の姿だ。
完璧で、これ以上ないほど美しい。
変わらない、不動の姿。
その「変わらなさ」に、部員たちは静かに、深く安堵していた。
射を終えた杏子が、矢取りのために的へ向かって歩き出した瞬間。
「あっ」
道場の敷居に足を引っかけて、小さくよろけた。
「……これでこそ親分」
真映が小さく呟いた。
全員が、嬉しそうに頷いていたが、一華だけがその敷居を睨み続けていた。練習終了後、その敷居には小さな養生テープが貼られていた。
放課後の練習。
全体の流れは、昨夜のぎこちなさが嘘のように整っていた。一華の指示に従いながら、ペースを調整し、全員で呼吸を合わせていく。
ブロック大会は、もうすぐそこまで迫っている。
その中で、杏子の射は、既に完全に元の「宇宙人」の姿を取り戻していた。
「部長、射型に乱れはありません。ペースも完全に安定しています」
一華がタブレットを片手に報告する。その言葉通り、杏子が放つ矢は次々と的の芯を捉え、一切の迷いを感じさせない完璧な姿を部員たちに見せつけていた。
「……なぁ、一華」
休憩中、真映がぼそりと一華に話しかけた。
「昨夜、親分が相当動揺して荒れてたって聞いたけど。……今の姿見る限り、全然分からんな。お前のことやから、昨日の映像もばっちり撮ってるんやろ? 見せてくれへんか」
いつになく真剣な真映の問いに、一華は愛想の欠片もなく、冷たく答えた。
「……撮っていない。昨日の部長のデータは、ノイズが多すぎて記録に値しないと判断した」
一切の温度を排した言葉。
けれど、それは一華の「嘘」だった。
実は、昨夜、杏子本人から「撮っといた方がいいんじゃない?」と提案され、一華はすべてを記録していたのだ。
そして、その泥臭く、人間味に溢れた射のデータを杏子のスマホに送った直後、一華は自分の端末からは、その動画を削除していた。
「……動揺している姿を、データとしていつまでも残しておく趣味はない」
一華は、心の中で杏子との「二人だけの秘密」をそっと閉じ込めた。
主将の弱い部分を、他者の目に晒す必要はない。
「そっか。どうやって一晩で修正していったのか、その過程を見たいと思ったんだ」
真映が少し残念そうに言うと、一華はタブレットの画面をスワイプした。
「部長の心配は無用です。それよりも真映、あなたにはあなたの修正過程を完璧に記録していますよ。ほら、ここ。引き分けの時の肩のラインが甘い。必要なら、1年前から今日の分とまとめてデータお送りしますから、百回見直してください」
「ひえっ! 相変わらず、きっちりしてんなあ、一華!」
いつもの小言に、真映が悲鳴を上げる。
道場には、弦音と笑い声が交差している。
光田高校弓道部は、もう完全に「次」へと歩み出していた。




