第515話 『夜の車の神様、琥珀色の決意』
中田先生の道場を後にした一行を乗せ、祖父の車が夜の街へと滑り出した。
窓の外を流れるオレンジ色の街灯が、車内を規則正しいリズムで照らしては暗がりに沈める。
座席からは、祖父と栞代のいつものとりとめもないバカ話が響いていた。緊張で張り詰めていた空気をほぐすように、あまつや楓が時折呆れたように突っ込みを入れ、車内に小さな笑いの波が起きる。
「一華姉、部長のおじいさまはあんなに饒舌なのに、なぜ部長には一ミリも遺伝しなかったんでしょうね。……研究の余地がありますね」
二乃の茶化すような言葉に、一華が真面目な顔で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……きっと、神様が仕事をしたんだろう。神様の仕事は、時々意味の分からない理不尽な時もあるが、この件に関しては、神様の最大の功績として後世に語り継がれることになるに違いない」
「どーゆー意味じゃい、そりゃ!」
運転席からの威勢のいい返しに、後部座席の面々がどっと笑い声をあげる。
杏子も、その温かな波につられて少しだけ口角を上げた。
けれど、麗霞のケガというあまりに重すぎる事実は、まだ彼女の心を冷たい水底へと沈めている。貼り付けたような笑顔が笑顔がどこか硬く、ひび割れそうになっていることを、同乗している全員が痛いほどに気づいていた。
車が進むにつれ、一人、また一人と自宅近くで降りていく。
「部長、また明日」
別れ際の短い挨拶。誰もが、これ以上ないほどの最高の笑顔を杏子に向けていた。自分の内にある元気を、少しでも彼女に分けてあげたい。そんな不器用でひたむきな祈りのような笑顔の連鎖。
最後に一華たちが降りる時。彼女は車のドアに手をかけたまま、杏子の目をじっと見つめて口を開いた。
「……杏子部長。先ほどの射、精神的な動揺が、姿勢の細部に如実に出ていました。ですが、足踏みと胴造り、……射の『土台』には、寸分の狂いもありませんでした」
一華の声は、いつもの無機質な分析報告ではなかった。微かな熱を帯びている。
「それは、部長がこれまで積み上げてきた技術の確かさを、改めて証明するものです。それに、手の内も。今日の部長には、これまでの部長の練習風景が見えるようでした」
そして、一華は見たこともないほどぎこちなく、顔の筋肉を総動員して、精一杯口角をあげた。
「……また明日、道場で」
「部長、一華姉のあの顔、不気味に見えるかもしれませんが、あれでも最上級の笑顔なんですよ!」
二乃が満面の笑みで軽快に追い打ちをかけ、二人は夜の闇の中へと消えていった。
車内に残されたのは、杏子と栞代、そして祖父の三人だけになった。
タイヤがアスファルトを擦る音だけが、やけに鮮明に聞こえる。
祖父は相変わらず栞代と軽口を叩き合っているが、杏子を問い詰めることも、無理に励まそうと過剰な言葉をかけることもなかった。
(……おじいちゃん。気になってしょうがないくせに、よく我慢してるな)
栞代は、助手席から祖父の横顔を盗み見た。
いつでもどこでも構いたがりで、杏子のことなら爪の先から髪の毛一本まで把握しておきたいはずの祖父。その彼が、あえて踏み込まず、ただ安全運転に徹している。
それは、杏子を一人の大人として、一人の武道家として信頼している証だ。いや、懸命に信頼しようと自分を律している証拠だった。
その不器用な沈黙が、今の杏子をどれほど守っているか。
帰宅後。
洗面所へ向かった杏子を見送った後、栞代がリビングでくつろぐ祖父に声をかけた。
「おじいちゃん、今日は運転疲れただろ? 例の『肩たたかせてやる券』、使っていいから、ちょっと座りなよ」
栞代が祖父をソファに座らせ、その広い背中に手を置く。
トントン、と小気味良いリズムで肩を叩きながら、二人きりになったリビングでポツリと言った。
「……おじいちゃん。オレ、大学目指すよ」
祖父の肩の筋肉が、一瞬ピクリと跳ねた。驚いたように、けれどすぐに喉の奥で満足そうに鼻を鳴らす。
「……うむ、うむ。そうか」
「まあ、今はまだ総体に向けて集中してるけど、夏が終わったら、勉強一色にするよ。奨学金の返済、きっちりさせてもらうからな」
「がはは。じゃあ、これもサービスで一回に数えてやろう。一回十円じゃからな、しっかり叩けよ。まだ貸してないけどな」
「貸す前に返済させるって、どんな悪徳金融だよ」
栞代は、祖父の肩を叩きながら、言葉にはできない深い感謝を噛み締めていた。
祖父も、杏子と一緒に、静かに成長している。見守る強さを手に入れている。
栞代は、改めてそう感じていた。血の繋がりなど関係ない。この家が、自分と杏子にとって、どれほどかけがえのない場所であるかを、温かい場所かを改めて痛感した。
洗面所で丁寧に手を洗ってから、杏子は食卓へ向かった。祖母が、向かいに座っていた。
祖母は、孫の纏う沈痛な空気を感じ取っていただろうに、何も聞かなかった。ただ、使い込まれたお気に入りの急須で、熱いほうじ茶を丁寧に淹れてくれただけだ。
香ばしい香りが鼻腔をくすぐり、立ち上る湯気の向こうに、祖母の穏やかで慈愛に満ちた微笑みが浮かぶ。
杏子は、温かい湯呑みを両手でそっと包み込んだ。
祖母から譲り受けた弽との摩擦で赤くなった右手のひらに、その陶器の温もりがじんわりと染み込んでいく。
麗霞がいない夏。
客観的に見れば、自分の夢を叶えるための最大の障壁の一つが無くなったことになる。それは客観的に見れば、光田高校にとって大きなプラスの要素なのかもしれない。
しかし、杏子の心には、そんな気持ちは微塵も湧き上がらなかった。
自分をここまで支えてきたのは、祖母への強い思い。そして、その思いを表現してくれているのは、他でもない弓そのものだ。
弓道に出会ったことで、多くのことを感じ、壁を乗り越え、たくさんのことを学んできた。そして、何より掛け替えのない仲間ができた。
それは味方だけではない。麗霞や、かぐやを含めた、競い合うライバルたちもまた、彼女の血肉を形作る大切な「仲間」だった。
その集大成となる、高校生最後の大会。そこに、最も高く美しかった峰である麗霞が居ない。
その事実が、ただただ、どうしようもなく悲しくて辛かった。
ふと、先ほどの一華の言葉が蘇る。
『自分の「土台」は、狂っていなかった』
それは、大好きな祖母の背中をひたすらに追いかけてきたからこそ、今日まで揺るぎなく積み上げられてきた、自分自身の「真実」だ。
(……麗霞さんがいても、いなくても)
湯呑みの底を見つめながら、杏子は小さく息を吸い込んだ。
(私がやることは、ただ一つだけだった)
誰かに背中を押してもらうんじゃない。これは自分が、自分で決めたことだ。
麗霞の悲劇を悲しむだけで終わらせてはいけない。彼女の無念を背負い、誰よりも美しく、正しく的を射抜くこと。それこそが、自分にできる唯一の手向けなのだ。
「……おばあちゃん。美味しいね、これ」
杏子は顔を上げ、今日一番の、曇りのない澄み渡った笑顔を見せた。
その真っ直ぐな瞳には、もう一切の迷いはなかった。
祖母は、孫の顔立ちに宿った確かな決意を見て取り、ただ静かに頷き、テーブルの上の杏子の手をそっと自分の手で包み込んだ。
ほうじ茶は、驚くほど深く、澄んだ味がした。
やがて、祖母が空になった湯呑みを下げる。
その時、卓上に、一滴だけ茶が零れているのに杏子は気がついた。
杏子は黙って布巾を手に取り、その一滴を静かに拭い去った。
いつも祖母が磨き上げているテーブルは、一点の曇りもない、完璧な美しさを保っていなければならない。
それはまるで、これから彼女が放つべき「究極の射」を暗示しているかのようだった。
夏の夜風が、少し開いた窓から入り込み、二人の間を優しく通り抜けていった。




