第514話 「的だけ見たらええんや」
祝勝会の熱気が冷めやらぬホテル前のロータリー。
「……よし、行くか!」
男子部長の山下が、意気揚々と声を張り上げる。その隣では、並々ならぬ根性を決めた松平と海棠が、意を決して杏子と栞代の前に進み出た。
「あの、杏子さん、栞代さん。……この後、もし良ければ二次会のカラオケに……」
その誘いに、杏子はどこか遠くを見るような、静かで穏やかな笑みを浮かべた。
「うん」
そういって、女子メンバーに向き直った。
「みんなもテスト明けだし、せっかくの機会だから楽しんで。……私は、少し用事があるから、抜けるね」
「部長……?」
一華が、眼鏡の奥の鋭い瞳を杏子に向けた。
「もしかして、今から中田先生のところに行くんじゃないでしょうね」
図星を突かれた杏子が小さく頷いた。
いつも四六時中杏子を気にかけている一華は、今の杏子がどこか普段と違うことを感じ取っていた。迷わず口を開いた。
「……邪魔はしません。一緒に行かせてください」
「もし気になるなら、映像は撮りません。数値だけチェックしたいです」
いつものクールな口調ではなく、どこか懇願調だ。
「うん、わかった。そんなに気にしないでもいいよ。むしろ、撮った方がいいかも」
杏子はいつも通り、笑顔で応える。
結局、二次会には「賑やか組」が向かうことになった。松平が望んだまゆ、まゆが行くなら当然のようにあかね、海棠が誘ったソフィア、ならば当然と紬も加わり、真映やつばめ、菓がそこに続いた。
栞代があかねとそして男子部長の山下に丁寧に羽目を外しすぎないよう、お願いしていた。
杏子に同行することになったのは、栞代、一華、二乃、そして杏子のただならぬ様子を案じて離れようとしない楓、滴、そしてあまつの六人だった。
「おーい、こっちじゃ」
ロータリーの端に停まっていた見慣れた車。迎えに来てくれた杏子の祖父の車に乗り込む。
祖父は、バックミラー越しに杏子の青ざめた顔を一目見て、すぐにただ事ではない異変を察した。
杏子のことになると動揺を隠せない祖父であったが、それでも杏子の目を見て、聞き出すのは、やめた。
そして、普段通りに、助手席の栞代と「ステーキはどうじゃった? 柔らかかったか?」と、いつもの馬鹿話を始めた。
「ぱみゅ子は男子と距離をおいてただろうなあ」
栞代は呆れながらも「はいはい」と応えていた。
杏子は会話に参加することなく、ただ、前を見つめていた。
中田先生の道場に着くと、杏子は吸い込まれるように準備室へ向かった。その後を一華と二乃が影のように追う。
楓と滴は、杏子に何があったのか、栞代に聞こうと残っていた。
栞代は、祖父の低く静かな声で呼び止められていた。
「……栞代。何か、あったのか?」
栞代は一瞬躊躇したが、隠し通せるものでもないと判断し、小さな声で告げた。
「……麗霞が、ケガをした。インターハイ、出られないんだって」
その場にいた楓、滴、あまつが息を呑んだ。
「麗霞さんが……?」
あまつは、あの鳳城高校で絶対的な存在であり、自分が目標としていた麗霞の不在を思い、完全に言葉を失った。
杏子のあの、魂が抜けたような「虚脱感」の正体が、ようやく全員の腑に落ちた。
栞代は、車中に残っていたメンバーに言った
「二次会の連中には、今はまだ伝えるな。あいつらの楽しい夜を壊したくないから。……今は、杏子の側にいてやってくれ」
栞代の言葉に、後輩たちは深く、静かに頷いた。
道場に、パッと明かりが灯る。
中田先生もまた、杏子の射場への入り方、その足取りの重さにただならぬ気配を感じ、栞代から短く事情を聞き出した。
「……そうか。あの娘がな……」
中田先生は、多くを語らなかった。あえて厳しい顔を崩さず、杏子の斜め後ろにどっかとパイプ椅子に腰を下ろした。
杏子が弓を構える。
けれど、その所作は、いつもの「宇宙人」と称されるほどの淀みのなさとは程遠いものだった。
指先が微かに震え、大三から引き分けにかけて、肩が不自然に強張っているのが遠目にもはっきりと分かる。
(麗霞さんは、しばらくの間、引けないんだ)
他人の痛みを、まるで自分の痛みのように感じる。
それが杏子の「優しさ」であり、勝負の世界においては致命的な「弱さ」でもあった。
杏子は弦を引き絞った。麗霞のことが頭から離れない。それでも手は止められなかった。弓を引いていないと、どこかへ消えてしまいそうだった。
弦音が道場に響く。矢は的の外れにかすりもせず、飛んでいった。
「杏子」中田先生の声が響く。
声に、肩がびくりと跳ねた。それでも杏子は次の矢を番えた。手を止めれば、また考えてしまう。
「杏子、そこに立つ者は、余計なこと考えたらあかんのや」
矢を引く手が、微かに止まった。
「的の前に立ったら、お前はお前だけや。悲しみも、心配も、一回置いてこい。的と向き合う、その一瞬だけに、全部を込める。そう教えたはずやけどな」
杏子はゆっくりと息を吐いた。胸の奥で何かが、静かに解けていく気がした。
ここに初めて立った日。弓を初めて引いた日。
つい昨日のことのように思える。
その日に戻ったように、次の矢を番える。足踏み、胴造り。一つひとつの動作を、ただ丁寧に。あの日のように。麗霞のことは、消えていない。消えなくていい。でも今この瞬間だけは、矢と的だけを見つめた。
弦音が、少しずつ違う響きに変わっていく。
一華は、タブレットを膝に置いたまま、一度も画面を見なかった。データで測れる領域を超えていることを、彼女は熟知している。
二乃は、杏子が矢筒から抜いた矢を、祈るように丁寧に拭き上げた。
麗霞の凄さを誰よりも知るあまつは、杏子の背中越しに、ずっと比較され続けてきた麗霞を思う。そして、杏子を選んで今があることを、改めて思う。
楓と滴も、杏子の震える小さな肩を見て、目を潤ませている。
「……杏子、そや。その調子や」
中田先生の、低く、腹の底に響く声が道場を震わせた。
中田先生が珍しく、言葉にして杏子を褒めた。
「『的』だけ見たらええんや」
杏子が、深く、深く呼吸を吐き出した。
震えを止めるように、肺の中の空気を全て入れ替える。
自分を支えてくれる仲間たちの視線を感じる。
それらすべての想いを感じ、ゆっくりと弓を開いていく。
今の彼女には、いろんな思いが渦巻いていた。
悲しみも、戸惑いも、麗霞の思いも、すべてを泥のように背負ったまま。
けれど、それでも「正しく立とう」とするその姿は、かつての孤高で完璧な麗霞とも違う、ひどく人間臭く、血の通った、泥臭いまでに美しい「人間の射」だった。
夢中でその姿を見守る一行。
人の痛みを自分の痛みのように感じてしまう杏子には、きっと今夜は辛い夜だろう。けれどこれは、杏子が乗り越えなければならない痛みだ。栞代は、ただそう思った
そう思った瞬間、中田先生と目が合った。
あまつは声もなく、ただ静かに涙をこぼしていた。楓と滴も、こんなに必死になって弓を引く杏子の姿を目の当たりにして、もはや目を潤ませるだけに留めることはできなかった。
杏子は、ただただ、全員の思いを受け止めながら、静かにゆっくりと、弓を引き続けた。
静寂の中。
鋭い弦音が、夜の中田道場に、悲鳴のように響き渡った。




