第513話 『翼を失った獅子と、永遠の峰』
『……麗霞が怪我しちょっど』
その言葉が鼓膜に届いてから、脳が意味を処理するまで、永遠にも似た空白があった。
「……え?」
やっとの思いで、杏子の口からかすれた音が漏れた。
隣に座る栞代の声が、微かに震える。
「ケガ? 重傷なのか?」
わざわざ電話で伝えるぐらいだ。ある程度の予想はできたが、それでも確認せずにはいられない。
『右肩じゃっど』
杏子の息が止まった。
『道い、ひっくいだいたわぜを、すっど助けたげんな
(道路に飛び出した子供を、咄嗟に助けたらしい)』
世界が、完全に色を失った。
どれぐらいの時間が経ったか分からない。夕暮れの赤い光だけが、無機質に部屋を照らしている。
やがて、スピーカーから最後の通告が響いた。
『総体あ、もてあんなっげんな。……じゃどん、ときえかくりゃ、弓も引くいなゆっげんな(総体は絶望的だそうだ。……だが、時間さえかければ、弓も引けるようにはなるらしい)』
杏子の視界が揺らいだ。
右肩。
弓を引く者にとって、それは翼そのものだ。翼をもがれた鳥が空を舞えないように、右肩を壊した射手が的前に立つことはできない。
『麗霞ん思いを考えれば、まこて切なか……。じゃっどん、おいどんたちは己が務めを全力で果たすしかごわはん』
かぐやの低く、押し殺したような声が続く。
『杏子、栞代。麗霞に恥じん姿を見せん。ここで、おいどんたちが動じ、情けで立ち止まれば、それこそ麗霞が最も悲しむんじゃ。あいつは……あのおなごは、そういう気概の持ち主じゃ。そうでごわはんか?
(杏子、栞代。麗霞に恥じない姿勢を見せよう。ここで私たちが動じたり、同情で立ち止まったりしたら、それこそ麗霞が一番悲しむ。あいつはそういうやつだ。そうだろ?)』
自分に言い聞かせるように、かぐやは言った。
栞代も、そして杏子も、返す言葉を失っていた。
『そいにな、手負いの獅子は恐ろしかものじゃ。麗霞という精神的支柱を失うた鳳城……いや、麗霞ん思いを背負うた残りん面々の執念を案ずればな。生半可な覚悟で挑めば、瞬く間に斬り伏せらるっぞ。
(それに、手負いの獅子は怖いぞ。麗霞という精神的支柱を失った鳳城、いや、麗霞の想いを背負った鳳城の残されたメンバーの執念を考えたらな。生半可な気持ちじゃ、瞬殺されるぞ)』
電話の向こうで、かぐやが小さく息を吐く音が聞こえた。
『杏子、聞いちょっか?』
「……う……ぅ……ん」
『おばあ様に、金メダルを贈るんじゃなかとな?
(おばあちゃんに、金メダルをプレゼントするんだろ)』
最後、かぐやの声が、不器用なほどに優しくなった。
『しっかりせい。気張んか!』
それは、杏子に向けたエールであり、同時に、かぐや自身を奮い立たせるための言葉でもあった。
通話が切れた。
ツーツーという無機質な電子音が響いた後も、杏子は動くことができなかった。
杏子の追い求めている夢。それは同時に、かぐやの、そして麗霞の追い求めている夢と同じ場所にある。
初めて麗霞を見た時の、あの落雷のような衝撃。
屹立する雪山のように、気高く、美しく、圧倒的だった背中。その強さ。とても同じ高校生とは思えない、完成された射。
その頂きを知り、ひとつ、またひとつと、階段をあがるように追いかけた。
去年の選抜大会の団体戦では、結果はあと一歩だったが、麗霞個人との絶望的な距離は全く縮まっていないように思えた。
そして迎えた、春の練習試合の団体戦。そこでは、まさに「奇跡」が起こった。
麗霞自身は相変わらず完璧で、ひとつのミスも無かった。だが、そこは団体戦。鳳城、そして麗霞という巨大な壁に全員でぶつかり、ミスとはとても言えない、ほんの僅かな綻びを、杏子たちは奇跡の連鎖で乗り越えたのだ。
あれは奇跡としか表現のしようがなく、もう二度と同じようには再現できないだろう。
だが、それも元を正せば、麗霞という絶対的な存在に向かっていくことで、光田のメンバー全員から極限の力が引き出されたからこそ起きた奇跡だった。麗霞が居なければ、あの奇跡も無かった。
あの時、敗れてなお毅然と杏子たちを祝福してくれた麗霞の、そして鳳城の気高さ。
杏子の脳裏に、真っ直ぐに聳え立つ麗霞の姿が浮かぶ。
その麗霞が、もう、あの場所に立つことが出来ない。
どれほどの絶望があっただろう。どれほどの悔しさがあっただろう。
杏子自身の夢を叶える場所。それは、麗霞も、かぐやも、そして弓道に青春を懸ける全ての者の夢が試される、神聖な場所だ。
「……あ、あぁ……っ……」
麗霞の心中を想うと、杏子の胸の奥から言葉にならない悲しみが溢れ出した。
どうしていいか分からず、ただ、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。
ライバルが消えた安堵など、微塵もない。あるのは、同じ道を志す者としての、引き裂かれるような喪失感だけだった。
ヒック、ヒックと、しゃくり上げる杏子の小さな肩。
栞代は何も言わなかった。ただ、折れそうなその体を、強く、静かに抱きしめた。
杏子は、栞代の腕の中で、声を失ったまま泣き続けた。
しばらく時間が経ち、窓の外の空が完全に群青色に沈んだ頃。
栞代が、杏子の肩をそっと離し、正面から向き合った。
「杏子、顔、洗おっか。もう祝勝会も終わるころやろ。わたしらが消えたら、みんな心配するで。それに、中田先生のとこ、行くんやろ?」
「……うん」
杏子は部屋の洗面台で冷たい水を顔に当て、目を腫らした痕跡を消すために、瑠月からもらって肌身離さず持っているコンシーラーを丁寧に塗った。
纏う悲痛な空気を完全に消し去ることは出来ないが、外見はとりあえず「いつもの杏子」に整えて、部屋を出る。
ふかふかの絨毯の廊下を歩き、宴会場へと戻る途中。
杏子は、飾られた歴史パネル、若き日の祖母の写真の前でふと足を止めた。
白黒写真の中で、祖母は的を真っ直ぐに見据えている。
その張り詰めた横顔を、杏子はずっと見つめていた。
(おばあちゃん……)
栞代も、黙ってその横に佇み、杏子の気の済むまで付き合っていた。
「親分! やっぱりそこやったすね!」
静寂を破ったのは、宴会場の方から響いてきた、やけに明るい声だった。
「いや、親分の姿が見えないから、絶対に大奥様に会いに行ってるって、あっしが看破したんすよお!」
真映が、小犬が尻尾を振るように駆け寄ってくる。
それに続くように、楓と滴を先頭に、相変わらず杏子を心配して、懲りもせず女子部員全員がわらわらと集まってきた。
「なんだお前ら、金魚のフンみたいに連れ立って」
栞代が毒づくが、その声には安堵が混じっていた。
「いや、それにしてもほんとにそっくりっすねえ」
葡萄が、制服という厳しい制約の中で、精一杯ギャル寄せに改造した着こなし(少し着崩したカーディガンと短めのスカート)を見せつけながら、写真と杏子を見比べて言った。
そして、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「わたし、絶対に決めました」
「何をだよ」
あまりに自信満々な葡萄を見て、栞代が怪訝な顔で突っ込むと、葡萄は杏子の目をしっかりと見つめ返した。
「部長の『お臍』、絶対に見ますよ! 部長に気合の入ったギャルファッション、させてみせます」
ピンと張り詰めていた空気が、一瞬で間抜けな音を立てて弾けた。
廊下に、女子たちの呆れたような笑いが響く。
「おい、その言い方、完全に変態だぞ」
栞代が葡萄の頭を軽くはたいた。
「えっ、? 栞代先輩もお臍出したい? 確かに栞代さんの腹筋の方が映えるでしょうが、ギャップの楽しさ、あの純真無垢な部長のレア度は計り知れないっすよ、痛っ!」
葡萄の言葉が終わる前に、楓と滴が、葡萄の両側の頬を同時に、容赦なくつまみ上げていた。
「葡萄は~っ変なこと言わない!」
「部長が困ってるじゃないですか!」
「ふひぇ〜、らひぇふぇ〜(いてぇ〜、やめてぇ〜)」
いつもの、騒がしくて、愛おしい仲間たちのやり取り。
杏子は、ふわりと笑った。
麗霞の不在という現実は、決して消えない。
手負いの獅子となった鳳城高校は、恐ろしい執念で光田に牙を剥くだろう。
それでも、杏子の隣には、この頼もしい仲間たちがいる。
(……行こう。おばあちゃんの夢の続きを見に、あの一番高い場所へ)
杏子は、写真の中の祖母を最後に一瞥し、廊下という場所を弁えず騒いでいる部員たちを、宴会場へと連れて戻った。




