第512話 レディファーストの伝統、止まった世界
豪華なシャンデリアの光が、グラスに注がれた琥珀色の烏龍茶や泡立つジンジャーエールをきらきらと輝かせている。
ローストビーフの芳醇な香りや、色鮮やかなオードブルの色彩が、空腹の高校生たちの胃袋を容赦なく刺激していた。
宴の開始時間がやってくる。
光田弓矢会の高階会長が、マイクを片手にゆっくりと立ち上がった。
皺の刻まれた顔には、隠しきれない歓喜の色が満ちている。
「今回も、女子が先に道を切り開いてくれて、男子がそれに続いた。どうやら、レディファーストが我が光田高校弓道部の文化らしい」
厳格な印象の強い会長には珍しく、滑らかな軽口が飛び出す。
会場にどっと温かい笑いが起きた。
しかし、次の瞬間、老翁の瞳の奥に宿る光が鋭く引き締まる。
「そして、私が生きている間に、男女揃って全国大会優勝。……その偉業を、どうかこの目に見せてほしい」
それは激励というよりも、祈りだった。
一切の虚飾を排した、本気の顔。その凄みに当てられ、部員たちは背筋を伸ばす。
一拍の静寂の後、割れんばかりの大きな拍手がホテルの宴会場に鳴り響いた。
続いて、男子部長の山下がマイクの前に立つ。
「えー、本日は……」
その硬く緊張した声に、すかさず男子の一、二年生から容赦のない野次が飛ぶ。
「声ちっさいですよ、部長!」
「女子の前で緊張してんですかー?」
ドッと笑いが起こる。
どうやら、和気あいあいと仲がよいのは女子の専売特許ではないらしい。強い結束、盤石の団結力には、風通しの良さというものが必須条件だ。
後輩たちからの生意気で可愛い野次。もちろん、それもまた、苦しい練習を共に乗り越えてきた彼らなりの敬意の裏返しである。山下も照れくさそうに頭を掻きながら、立派に挨拶を締めくくった。
そして――。
続いて、女子部長である杏子の挨拶が始まる。
会場の視線が、一斉に小柄な少女へと集まった。
杏子が一歩前に出て、深々と頭を下げる。
――水を打ったように、静かだった。
先ほどまでの男子のノリはどこへやら、魔法にかかったように静まり返っている。
理由は明確だ。
まゆに熱烈な想いを寄せる松平清純と、ソフィアを一途に追う海棠哲平。この二人が、野次を飛ばそうと口を開きかけた男子連中を、「命がけ」の眼光で制圧していたからだ。
『杏子さんに不敬を働けば、杏子部長を敬愛し、護ろうとする光田女子部員全員から永久に拒絶される。』
その確信に満ちた恐怖が、血気盛んな男子たちを大人しくさせていた。松平と海棠の目は、もはや修羅の如き血走りを帯びている。
誰も野次を飛ばさない。否、飛ばせない。
完璧に整えられた静寂の中、杏子はマイクを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと口を開く。
「……本日は、このような席を設けていただきまして、本当にありがとうございます」
言葉は拙く、華やかな比喩など一つもない。
けれど、その真っ直ぐな声音には、揺るぎない確かな決意が宿っていた。
「全国大会でも、光田高校弓道部の伝統に負けないように、みんなで頑張ります」
短い言葉を終え、再び深く頭を下げる。
一瞬の間の後、男子の時よりもさらに大きく、温かい拍手が沸き起こった。
高階会長の高らかな乾杯の音頭を皮切りに、祝宴が本格的に幕を開ける。
グラスが触れ合う澄んだ音が響き、そこかしこで笑い声が弾けた。
松平と海棠は、まずは礼儀正しく栞代と杏子に「ご挨拶」を済ませてから、それぞれの意中の相手の元へといそいそと向かう。
しかし、現実は非情である。
まゆはあかねとの「全国大会での戦術会議」に夢中であり、ソフィアは紬との「今期最高のアニメ作画」についての談義に花を咲かせ、彼らの入る隙など一ミリも存在しなかった。
「……なかなか、道は険しいな」
海棠が肩を落とす。
「お前もアニメ、見ろよ。まずは共通言語の習得からだ」
松平が遠い目をしながらアドバイスを送る。
そんな男子たちの涙ぐましい苦笑いを横目に、杏子は高級なローストビーフを口に運びながらも、心ここにあらずだった。
密かに、中田道場へ向かうタイミングを計っている。
廊下で見た、若き日の祖母の凛々しい姿。あの写真が脳裏に焼き付いて離れないのだ。
今は美味しい料理よりも、賑やかな歓談よりも、ただ闇雲に弓を引きたい。弽の感触を確かめたい。弦音を響かせたい。
血が、そう叫んでいた。
そのとき。
ブレザーのポケットの中で、スマートフォンが短く、鋭く震えた。
何気なく画面を取り出し、表示された名前に、杏子の胸がわずかに波打つ。
『鷹峯かぐや』
鳴弦館高校の絶対的エース。
ライバルからの、珍しいタイミングでのメッセージだ。
『今、何しちょっと?』
『祝勝会をしてもらってるところだよ』
素直に文字を打ち返すと、すぐに既読がつき、返信が来る。
『……ちっと、話せっどか?
栞代も呼んじくいやい。
あいつにも、伝えちょかんといかん』
文字の羅列から、得体の知れない圧力が滲み出ているような気がした。
杏子は顔を上げる。
少し離れた円卓で、栞代が一年生たちと談笑しているのが見えた。
『うん、わかった』
杏子は小走りで栞代の元へ歩み寄る。
栞代の袖を引き、スマートフォンの画面を見せながら事情を伝えた。
栞代は一瞬だけ怪訝な顔をしたが、すぐに真顔になり、何も言わずに無言で頷く。
二人は、誰にも気づかれないようにそっと宴会場を抜け出した。
「かぐやさん、珍しいよね。何かあったのかな?」
分厚い絨毯の敷かれた廊下を歩きながら、杏子が小声で尋ねる。
「舞台装置好きだからなあ、かぐやは。多分、練習で皆中だしたとか、ついに恋人と手を繋いだとか、そんな自慢話だろ」
少し不安げな杏子の表情を読み取り、栞代がわざと空気を変えるように軽く呟く。
しかし、栞代自身の足取りも、いつもより硬かった。
同じフロアの突き当たり。光田高校弓道部のために、ホテル側が控室として用意してくれた客室がある。
重厚な木製のドアを開け、中に入る。
カチャリとドアを閉めた瞬間、外の華やかな賑わいが嘘のように遠のいた。
静かな空間。
整えられたベッドと、窓際の小さなテーブル。
分厚いカーテンの隙間から、血のように赤い夕暮れの光が、真っ直ぐに床へと差し込んでいる。
エアコンの微かな駆動音だけが、耳元で鳴っていた。
「呼んできたよ」
杏子がメッセージを送信する。
直後、LINE通話の無機質な呼び出し音が部屋に響き渡った。
通話ボタンを押してスピーカーモードに切り替えると、かぐやの低く落ち着いた声が鼓膜を打つ。
『杏子、遅なったけど、優勝おめでとさぁ。
……栞代も、おっどか?』
「ああ、ここにいる。かぐや、そっちも地区優勝おめでとうな」
栞代が努めて明るい声で応える。
しかし、電話の向こうで一瞬、泥のように重い沈黙が流れた。
「……どうしたんだよ、急に」
たまらず栞代が先を促す。
『栞代。……そこに、椅子はあっどか?』
かぐやの思いがけない言葉に、二人の背筋に冷たいものが走った。
得体の知れない悪寒。
促されるように、二人は窓際の小さな椅子に並んで腰を下ろす。
一拍。
スピーカー越しの、微かな息遣い。
沈黙。
「鳳城の予選は、もうすぐやな」
沈黙に耐えきれず、栞代が探りを入れる。
返事はない。
ただ、嫌な予感が、胃の底からゆっくりと這い上がり、ゆっくりと確信へと変わっていく。
『栞代、お前のことは心配しちょらん』
かぐやの声は、ひどく静かで、平坦だった。いつもの豪快さは欠片もない。
『……じゃっどん、杏子は甘かで弱か。
栞代、支えてやってくいやい。
二人とも、可愛か、わたしの弟子じゃ』
「おい、どうしたんだ、いったい」
栞代の声が一段低くなる。警戒と、焦り。
「弓道部全員が付いている。杏子は大丈夫だ。勿体ぶらずに言えよ」
再びの、沈黙。
永遠にも感じられる数秒間。
夕暮れの赤い光が、二人の足元を染め上げている。
そして――。
『おいと麗霞は、ある意味、竹馬の友のごとき仲じゃ。仲も良か。……じゃっで、分かったんでごわす。麗霞が…………麗霞が怪我しちょっど』
その瞬間。
杏子の視界から色彩が消え、呼吸の仕方を忘れ、鼓動の音すらも消え失せた。
世界が、止まった。




