第510話 『アスリートたちの共鳴、変人ホイホイ、覚醒の女神の密かな決意』
「あー、やっと終わったぁ〜!!」
期末テスト最終日。最後の科目終了を告げるチャイムの余韻が消えぬうちに、岸本遥が椅子に座ったまま大きく両腕を伸ばし、天井に向かって吠えるような叫びを上げた。
数日間にわたり教室を支配していた、鉛筆の走る音とチョークの粉の匂い、そして窒息しそうなほどの緊張感が、その一言で一瞬にしてほどけていく。窓の外では、間もなく訪れる夏を予感させるような強い日差しが照りつけていた
「終わったとたんに元気になるなあ、遥」
隣の席で、静かに筆記用具を鞄にしまっていた栞代が、呆れ半分に笑う。
遥は肩を大きく回し、首の骨をポキポキと鳴らした。
「そやけど、ほんま緊張するわ。新しい校長がガチガチに厳しいからなあ。まさか赤点で全国大会出場できへん、なんてことはないやろうけど……平気で練習時間削ってきそうやからなあ。練習時間を削られたら、私の愛する筋肉たちが痩せて泣くっちゅうねん。なあ、澪?」
遥の言葉に、テニス部でダブルスを組む宮下澪が、静かに笑って頷く。彼女は多くを語らないが、遥とは最大のライバルであり無二の親友でもある。その瞳の奥には遥と同じ、競技に対する飢餓感のようなものが常に燃えている。
遥は肩をすくめると、立ち上がって隣の澪を肘で軽くつついた。
「栞代、お前らもそうやろうけど、わたしらも全国優勝狙っとんやで。水を差されるのだけは、ほんま勘弁してほしいわなあ。なあ、澪」
繰り返される問いかけに、澪はいつもの静かな笑みを浮かべ、再びゆっくりとうなずく。
そのしなやかな所作の中に、圧倒的な練習量に裏打ちされた自信が垣間見えた。
そのとき、廊下の向こうから、ドタバタという無遠慮で聞き慣れた足音が近づいてきた。
そして、教室の引き戸が、勢いよくガラリと開け放たれる。
「親分〜〜! 若頭〜〜! やっと、地獄の苦しみが終わりましたな!」
満面の笑みで顔を出したのは、弓道部の真映だった。
「なんや、真映。三年の教室に騒がしく入ってくるな」
栞代がたしなめるが、真映はどこ吹く風で、一直線に杏子の元へ駆け寄る。そして栞代の方に振り返り、
「そうは言っても若頭、油断してたら親分のご祖母御前特製の卵焼き、他のやつらに食い尽くされますやん! さあ、カバンの中の『宝物』を持って、いざ我々の龍宮城(道場)へ参りましょうっ!」
「はー」
栞代がこれ見よがしに深い溜息をつくも、杏子は目を丸くしたあと、思わず小さく吹き出してしまう。
遥がその様子を眺め、感心したように腕を組んだ。
「そやけど、お前らの後輩はほんま元気やなあ。疲れを知らん犬みたいや」
真映は即座に姿勢を正し、宝塚の男役のような芝居がかった動きで深く一礼する。
「これはこれは、光田高校の大有名人、岸本遥さん。そして、宮下澪さん。全国大会出場、おめでとうございます」
「ああ、ありがとう。お前らもな」
遥が気さくに答えると、真映は少しだけ唇を尖らせた。
「いや、それにしても、わたしらの方が一歩早かったというのに、あとから来たものに追い抜かれ……とはまさにこのこと。学校の注目は一気にテニス部に持っていかれましたもんねえ。垂れ幕の大きさも、なんか負けてる気がしますし」
「と思ったら、即効で男子バレー部に全部持っていかれたけどな」
遥が肩をすくめながらぼやく。
「まあ、男子バレー部は、噂によるとかっこいい野郎ばかりらしいですから、女子からの注目を集めてますよねえ。キャーキャー言われて、羨ましい限りで」
真映が腕を組みながら、大げさに何度も頷いて見せる。
「ほー。真映、お前、誰かお気に入りでもおるんか?」
栞代が目を細めてからかうと、真映は首を激しく横に振った。
「まさか! あっしは、いや、あっしら弓道部員は、親分に一生を捧げてますから、他の野郎なんて、一切、全く、ちっとも、これっぽっちも眼中になどありません! 若頭もそうですよねっ!」
真映が栞代を見て、ニヤリと不敵に笑う。
遥がたまらず吹き出した。
「おい杏子、ずいぶんと教育がしっかりと行き届いてるようやな」
突然話を振られ、杏子は顔を真っ赤にして、
「ち、違うよぉ」と俯いた。
遥は大笑いしたあと、ふっと表情を引き締め、シリアスな声色に変わる。
「それにしても腹立つのは、新校長や。ここまで結果出したんは、自分の手柄やって思ってるらしいやん」
「それは聞き捨てなりませんなあ」
真映も声を低くして同調する。
「そやで、真映。あんたからもちゃんと言ってやれ」
遥がマジメな口調で続ける。
「前の校長は、クラブ活動に本気で理解があって、練習時間を確保してくれてたからこそ、みんなここまで来れたんやで。質云々以前に、まず圧倒的な『量』や。量をこなしてない奴に、質を語る資格はない」
その言葉に、澪が今日一番の力強さで静かにうなずいた。まさに血の滲むような反復練習を重ねてきた者だけが共有できる、真理の響き。
「ま、そう言うてもしゃーない。やれることとにかくやらんと」
栞代が空気を切り替えるように、パンと手を叩いた。
「まあテストも終わったし。今日から、夏に向かって追い込みや。遥、澪、お前らも頑張れよ」
「ああ」
遥は真っ直ぐに栞代を見た。その視線は、テニスコートで獲物を狙う時のように鋭い。
「お前ら女子弓道部が、この学校で一番頂点に近いところに居るから。……頑張れよ。わたしらも続くで」
その言葉は、異なる競技であっても同じ高みを目指す者に対する、最大級の敬意に満ちていた。
教室を出て、杏子と栞代は真映を連れて弓道場へ向かう。遥と澪は、灼熱の太陽が照りつけるテニスコートへと歩いていった。
「それにしても、あの二人、ほんま凄い練習量らしいですもんねえ」
窓からテニスコートを見下ろしながら、真映がぽつりと呟く。
「まあな」
栞代は短く答える。
「体力の追い込みは、弓道の比やない。遥と澪、ほんま吐きながら泣きながらコート走ってたらしいからな。鬼の所業やで」
「はー。わたしは的を外すたびに、心で血を流してましたけどねえ」
「自分で言うか」
栞代は苦笑しつつ、言葉を継ぐ。
「でもな。もともとあの二人は県内でも強かったんやが、二年生の時の修学旅行で杏子の弓見て、さらに一段ギアが入ったらしいんや」
栞代の言葉に、真映は前を歩く杏子の小さな背中を見つめながら、感嘆の息を漏らす。
「……やっぱり親分には、人を覚醒させる何かがあるんですなあ。人呼んで『覚醒の女神』ですな」
「ちゃうちゃう。女神やのうて、『変人ホイホイ』や」
栞代がにべもなく切り捨てる。
「もともと変人の素質あるやつが、杏子見たら、磁石みたいに吸い寄せられてやる気になるんや。まゆも、ソフィアも、楓も滴も菓も、あまつも。……ほんで、真映、お前もやろ。
まさか別競技の変人にも通じるとは思わんかったけどな」
真映は即座に胸を張って言い返した。
「若頭〜っ! その変人ホイホイの第一号にして一番手は、絶対、若頭自身やないですか!」
「……真映、お前、今日の卵焼き、なしな」
「そりゃないですよぉぉっっ!! わ、若頭〜〜っっ! 勘弁してください〜〜っっ!」
三人の笑い声が、夏の始まりの埃っぽい廊下に、どこまでも明るく響き渡っていった。
道場に着くころには、部員たちも三々五々集まり始めていた。
テスト期間中の「禁欲」から解き放たれたように、昼食のお弁当タイムは久しぶりの大盛り上がりを見せる。
床に車座になり、弁当の蓋が次々と開く。色とりどりのおかずの匂いが、道場の木の香りと混ざり合う。
杏子の祖母が焼いた、出汁の香る黄金色の卵焼き。ソフィアの祖母が持たせてくれた、シナモンとバターの甘く優しい異国の焼き菓子。
それらは、全国という途方もない舞台へ向かう少女たちの「戦士の糧」として、箸が飛び交う中、あっという間に消えていった。
「おかしいな……多めに持ってきたんだけど」
空っぽになったタッパーを見つめ、杏子が首を傾げる。
「私もです。多めに焼いてもらったはずなんですが……」
ソフィアも同様な言葉を呟き、空のクッキー缶を見つめる。
けれど、二人の顔には不満はなく、むしろ嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
食事が一瞬で消えること。それは、この頼もしくも喧しい仲間たちが、確かにここに居るという何よりの証だったからだ。
食事のあと、いよいよ練習が始まる。
テスト期間中のなまった身体を呼び起こすため、まずはしっかりと走り込みと体幹練習を行い、入念なゴム弓での姿勢チェックに入る。
テスト期間中、全体練習が無かったのはわずか三日間。しかし、弓道においてその空白は大きい。部員たちの射は、まだ少し関節に油が回っていないような硬さがあったが、外見のフォームにはほとんど変化は無かった。
身体は、反復した努力を必ず覚えている。筋肉の記憶が、彼女たちを支えている。
的前に立ち、矢を放ち終えた杏子の練習を見ていた一華が、ずんずんと歩み寄ってきた。
「部長。テスト期間中も、中田先生の道場に通ったんですね?」
一華が、タブレット越しに恨めしそうに確認する。とても、少しでもブランクがあるとは思えない。
「う、うん。ちょっとだけね」
「行かないって言ったのに……! 部長がわたしを裏切った!」
よよよ、と一華は目元を抑え、大げさに泣き崩れるポーズを取る。手で顔を覆っているが、指の隙間からこちらを観察しているのが丸わかりだ。
それを見た栞代が、弓を拭きながら笑い飛ばす。
「一華、どうせその期間のデータが取れなかったのが悔しいだけだろ? 映像、中田先生のところで全部録画してあるから、あとでクラウドに送るわ」
その言葉を聞いた瞬間、一華は「現金」という言葉が服を着て歩いているかのように、一瞬でいつもの冷酷な分析官の表情に戻った。
「……拡張子はMP4でお願いします。画質は落とさないでくださいね」
もう用事は終わったとばかりに、さっと部室に戻っていく一華の背中を見て、二乃がお腹を抱えて笑っている。
夕暮れが近づき、道場に西日が差し込む頃。
今日の練習後は、光田弓矢会の高階会長が主催する、盛大な祝勝会が予定されている。
「肉だ! 焼肉だ! カルビだ!」
男子部員たちと真映は、すでに頭の中が肉で埋め尽くされているらしく、鼻息を荒くして片付けを急いでいる。
しかし、弓を手入れする杏子は、その喧騒から少し離れたところで、全く別のことを考えていた。
(祝勝会、失礼のないようにご挨拶をして……早めに切り上げて、中田先生のところに行こう)
彼女の頭の中には、霜降り肉の映像など一ミリも存在しない。
あるのはただ、二十八メートル先の小さな的と、自分の射をさらに高みへと引き上げるための、飽くなき渇望だけ。
夏の匂いを孕んだ風が、道場を吹き抜ける。
全国大会への、そして彼女たちの最後の夏へのカウントダウンが、静かに、そして熱く時を刻み始めていた。




