弟509話 瑠月との一週間 その3
週の半ば。杏子の部屋を訪れたのは、一年生の二人、あまつと菓だった。 机に向かいながらも、二人の間には独特の空気が流れている。 圧倒的な実績を持つ中学王者・あまつに対し、実績としては一歩譲る菓であったが、この数か月で互角以上の成績を叩き出し、選抜試合では立場が入れ替わったことがあった。
「二人はほんま、ええライバルでもあるよな」
栞代が参考書を片手に言うと、菓がペン回しをしながら天井を仰いだ。
「やっぱり……最初はちょっとコンプレックスありましたけどねえ。あまつは『特別』やからって」
菓が正直に呟く。
「でも、それをバネにしてやってきました。あまつに追いつきたくて、追い越したくて。……今回はちょっと頑張りすぎたから、最後息切れしちゃいましたけど」
菓が「あはは」と乾いた笑い声をあげる。そして、隣で黙々と英単語を覚えているあまつを肘で小突いた。
「息切れしただけやで、あまつ。実力負けちゃうからな。だから、最後はあんたに譲ったんや」
それが、菓なりの精一杯の強がりであり、最大の負け惜しみだった。
あまつは顔を上げ、菓をじっと見つめ返す。 その射型も性格も、どこか杏子に似ているあまつ。普段は自分から主張することは少ないが、芯にある頑固さもそっくりだ。
「……うん。分かってる。菓、すごい頑張ってたもんね。最後の一本まで、怖かったよ」
あまつは静かに頷き、それから杏子に視線を合わせた上で、再び菓に向かって宣言した。
「その想いもちゃんと背負って頑張るよ。それに――部長が獲れなかった選抜のタイトル、絶対に獲ろう。だって、インターハイは今年、私たちが獲っちゃうもんね」
その言葉に、杏子は目を丸くし、やがて嬉しそうに微笑んだ。
翌日やってきたのは、未経験者の一年生、「フルーツトリオ」こと苺、葡萄、滴だ。 賑やかな三人が部屋に入ると、空気が一気に華やぐ。
「みんな、部活は楽しい?」
杏子が優しく尋ねる。 弓道の初歩、射法八節に至る前の基礎練習は、地味で単調だ。ゴム弓や素引きの段階で、「思っていたのと違う」と挫折する姿を、杏子は数多く見てきたからだ。
「楽しいですよ! いや、先輩方もみんな通った道ですよね。この先に先輩みたいになれると思ったら、もうめっちゃ楽しみですよ」
葡萄が身を乗り出して答える。彼女は制服であるブレザーのボタンを外し、シャツの裾を気にしている。なんとか自慢のお臍を出そうと苦心しているようだ。
「葡萄、ここでは出さんでええから」
栞代が呆れて制する。葡萄は諦めず、トライし続けている。
三人は顔を見合わせ、声を揃えて言った。
「先輩たち、引退しても、絶対に遊びに来てくださいよっ!」
その言葉に、杏子の胸が温かくなる。
「うん、もちろん行くよ」
「約束ですよ! 私たちの成長、見てくださいね!」
「そのへそ見にか?」
栞代がすかさず突っ込むと、部屋中が爆笑に包まれた。
一人ひとりと向き合い、未来の話をするたびに、杏子の胸に沈殿していた「居たたまれなさ」という重い澱が、少しずつ解れていくようだった。 そもそも、誰も立ち止まってなどいない。 後輩たちは、それぞれの速度で、確実に前を見ている。 自分が勝手に悲観して、立ち止まっている気がして、杏子は少し恥ずかしくなった。
週末。 この日はつばめだけが来る予定だったが、インターホンが鳴ると、そこにはビッグサプライズが待っていた。
「よう! 元気しとるか!」 つばめの隣に立っていたのは、姉のつぐみだった。
「つぐみ!?」
驚く杏子たちをよそに、つぐみはズカズカと上がり込み、リビングの祖父の元へ直行した。
「おじいちゃん、突然やけど、今日泊まってもええ?」
あっけらかんと言うつぐみに、祖父は破顔一笑。
「がははは! もちろんじゃ! つぐみはいつでも大歓迎じゃ。相変わらず遠慮がないのう、実に気持ちええ!」
夕食を一緒に摂ったつばめは、栞代と杏子と姉、久しぶりの再会を果たした三人のために気を使い、瑠月と一緒に空いてる部屋に行き、勉強時間をたっぷりと取った。
丁寧に勉強を見てくれた瑠月に感謝しつつ、姉に「あんまり迷惑かけたらあかんで」と言い残し、先に帰宅した。
瑠月は残ったつぐみに「テスト勉強大丈夫なの?」と心配していたが、「私の辞書に赤点という文字はない」と豪語するつぐみの期末テストは、既に終わっていたのだった。
夜。杏子の部屋。 二年前のように、三人で川の字になって寝転がる。 楽しい思い出、辛い思い出。 三人が同じチームで過ごした時間は一年もなかったが、その密度は濃く、思い出は山のようにあった。 その話題が一段落し、部屋の明かりを常夜灯にした時、つぐみがポテトチップスをかじりながら切り出した。
「杏子。あんたまた『傲慢な悩み』持ってるんやて?」
つぐみが、暗がりの中でニヤリと笑う気配がした。
「えっ……?」
「人のことを考えるのは、自分をきっちり屹立させてからや。あんたには百万年早いわ。自分のことだけ考えとき」
つぐみはバリボリとチップスを噛み砕く。
「言っとくけど、敵は鳳城と鳴弦館だけやないで。この私を忘れるなよ。千曳ヶ丘、強なったでー。私が鍛え上げたからな」
その挑発的で、自信満々の物言い。 初めて会った時から変わらない。この強引さ。 それが、昔から杏子の心をどれほど救っただろう。 杏子は、つぐみのこういう、正直で真っ直ぐな乱暴さが大好きだった。
栞代が横から、ぼそっと言う。
「真映が居たら、杏子を護って一悶着ありそうやな。『親分に勝てるかいっ!』って」
「ああ、真映さんか。覚えとるで。元気のええ子や」
「真映だけちゃうで。今の『杏子親衛隊』には、楓もおるし、滴言う一年生も入隊したからな。鉄壁やぞ」
「そりゃコワイなー。命がいくつあっても足らんわ」
つぐみがおどけて肩をすくめ、三人は笑いの中で眠りについた。
翌朝の散歩に、つぐみもジャージ姿で参加する。 祖父とつぐみは、会えば必ず丁々発止のやり取りだ。変わらぬ景色に、杏子と栞代も楽しそうだ。
ふと、祖父が聞いた。
「つぐみさん、今楽しいか?」
「ええ、めっちゃ楽しいで。いろいろ世話なって、おじいちゃん、ほんまサンキューやで。おじいちゃんが倒れたら、いつでも恩返しに飛んでくるからな」
「まだまだ! わしが倒れてたまるかいっ!」
豪快に笑う祖父は、突如として奇妙なダンスを踊り出した。
「見よ! これが最新の『ファッションモンスター』じゃ!」
きゃりーぱみゅぱみゅの曲に合わせ(ているつもりで)、手足を奇妙に動かす祖父。
「……おじいちゃん、それ盆踊りにしか見えんて」
栞代が呆れる横で、つぐみと杏子が爆笑する。 杏子はその背中を見ながら、自分がどれほど多くの「強さ」に守られ、生かされているかを痛感していた。
多くの笑いを残し、つぐみは午前中に地元へと帰って行った。つぐみとは、全国大会の前に、ブロック大会での対戦が待っている。
休日で学校が無く、早朝練習が無かったこの日、杏子はいつものように、栞代と中田先生の道場へ通った。 静謐な空気が漂う道場。
「まだまだ余裕あるから、要らんこと考えるんや」
中田先生は、杏子の迷いを見透かしたように、ただひたすらに矢を射たせた。 言葉はいらない。ただ、弦音だけが答えを知っている。
「おばあちゃんと比べたら、まだまだ足らんで~」
先生が、パイプ椅子に座りながら笑う。
「杏子のおばあちゃんはな、ほんまに杏子以上に練習の虫やったんや。才能にあぐらをかかず、誰よりも引いてた。今の杏子の十倍は引いてたで!」
豪快な笑い声が道場に響く。
「……はい!」
杏子の返声に、もう迷いは無かった。 的前では無心に。その究極の姿を夢想して、弓を引き続ける。
栞代が心配して、「休憩しよう」と水を渡してくれるまで、杏子は無心で引き続けた。
自分を愛してくれる仲間たちのためにできることは、申し訳なさそうに立ち止まることではない。 おばあちゃんから受け継いだ弽を、強く握りしめる。 誰よりも高く、美しく、自分の弓を完成させること。 それが、この一週間で彼女が見つけた、たった一つの答えだった。
結局、この一週間、瑠月はほとんど杏子に何も言わなかった。 「頑張れ」とも「大丈夫」とも言わず、ただ傍にいて、微笑んでいた。 それでも、瑠月が取り計らい、栞代が繋いでくれたこの一週間は、杏子にとって何物にも代えがたい時間になった。 言葉以上の何かが、彼女の心を修復し、満たしていた。
帰り際、中田先生がニヤリと笑って付け加えた。
「ところで杏子、ちゃんと勉強もしてるか? おばあちゃんは意外と勉強もできたんやで」
「……うっ」
中田先生の声が、耳に痛い。
弓の迷いは晴れたが、期末テストの壁はまだ高くそびえ立っていた。




