弟508話 瑠月との一週間 その2 クレタ人の卵焼き
最初にこの「リレー」のバトンを持って現れたのは、真映と楓だった。 二人は席に着くなり、出された夕食、とりわけ祖母特製の黄金色の卵焼きに無我夢中で喰らいついた。ハフハフと熱い息を吐きながら、幸福そうに頬張る。
「いや、これこれ! これを食べないと力出ませんねん!」
真映が目を輝かせる。 すると、祖父がニヤリと悪戯な笑みを浮かべた。
「それ、ほんまはわしが作ったんやで」
えええっ! マジっすか? 全く同じ味ですやんっ!」
真映と楓が箸を止めて驚愕すると、祖父はすかさず
「いや、ほんまはウソやけどな」
と舌を出した。
「ほんまはウソって、な、なんやねん!」
ふざける祖父に、栞代が冷ややかなツッコミを入れる。
「お前ら、おじいちゃんの言うことは絶対に信じるな。おじいちゃんは『クレタ人』やからな」
「クレタ人……?」
真映が首を傾げる。
「『クレタ人は嘘つきだ』とクレタ人が言った。さて、その言葉は真実か嘘か……っていう有名なパラドックスだよ。要するに、この人の言葉に真実はないってこと」
瑠月がくすくすと笑う。楓には通じているようだが、真映は
「はあ……なんか難しそうっすけど、要は嘘つきってことっすね」
とキョトンとしていた。
食事が終わり、皿が空になると、二人は箸を置き、居住まいを正した。 真映が、杏子の目をまっすぐに見つめた。そこには、いつものお調子者の色はなく、静かな炎が宿っていた。
「親分。うちらが、光田弓道部を最強のまま引き継ぎますから! 安心してください!」
真映が力強く宣言すると、楓も続く。
「部長が抜けたら弱くなった、なんて絶対に言わせません。部長はちゃんと後輩を育てたって、私たちが結果で証明してみせますっ」
言葉は若く、少し荒削りだ。けれど、その覚悟は本物だった。 杏子は「うん」と頷きながら、胸の奥で熱いものが込み上げるのを噛みしめる。
(……そっか。もうこの子たちは、自分で立つ覚悟をしてるんだ。私の背中じゃなく、前を見てるんだ) 寂しさと、それを上回る頼もしさを見た。
「そして、また卵焼きを食べさせてくださいっ!」
右手で作った拳を突き上げながら、真映が選挙演説のように力強く叫ぶと、楓も
「わたしもっ!」
と続いた。
「おい、お前ら……今オレを感動させたのに、実は卵焼き食いたいだけちゃうんかいっ」
栞代のツッコミに、二人は「ち、違いますよお!」と手を振って否定する。
いつもの笑い声がリビングに満ちたが、それがピタリと止まったのは、それまで優しく見守っていた瑠月の一言だった。
「ふふ。じゃ、そろそろ勉強しましょうか?」
「え? ……マジ? 勉強するんですか?」
素っ頓狂な声を上げる真映。
「当たり前やろ、真映。期末テスト前やで」 栞代が追い打ちをかけると、真映は「ひえええ」と頭を抱え、その姿にまた笑い声が大きくなった。
翌日、あかねとまゆが訪れた夜は、思い出話に花が咲いた。 湯気の立つ鍋を囲みながら、話題は自然と過去へと遡る。
「三人で優勝した、新人戦の前哨戦の県内選手権、あれは最高やったなあ」
あかねが懐かしそうに目を細める。 杏子、あかね、まゆの三人で組んで挑んだ大会の記憶。
まゆが苦笑する。
「あの時は、トーナメントでずっと競射だったんだよね。わたしが全然中たらなかったから、みんなに迷惑かけちゃった」
「まゆ、今さらそれ言う? それうちの部では御法度発言やで」
あかねが突っ込むと、まゆは慌てて首を振った。
「ううん。違う違う。迷惑かけたけど……決勝戦の競射で、公式戦で初めて中てた、って方を言いたかったんだ」
「そうそう! あれは感動やったなあ。まゆの一本で勝ったんや」
あかねが言い、まゆと杏子が遠い目で楽しそうに笑顔を浮かべる。 三人だけの、黄金の時間。 それを聞いていた栞代が、わざと不貞腐れたように口を挟んだ。
「おい、そのとき決勝で負けたのは、うちら(同校対決だった)のチームやぞ。えーかげんにせー」
杏子ら三人が笑うと、栞代は続けた。
「そやけど、あの時のあかねと杏子の気合、凄かったで。対戦相手、全部びびってたもんなあ。特に杏子。『中てたら殺す』って、目が叫んでたわ」
「ええっ!そ、そんなことないよ~!」
杏子が必死で手を振って否定する。
「いや、決勝で直接体験したオレが言うんやから、間違いない。あの、なにものにも全く動じない紬がびびって外したんやからな。殺気で矢を落とすとか、漫画の世界や」
杏子が勝った話は、祖父の大好物だ。
「がははは! さすがわしのぱみゅ子じゃ!」
と楽しそうに笑い、瑠月も一緒になって笑い転げている。
「でもほんま、あの日のことは、一生の宝物や」
当時、涙で喜んでいたあかねとまゆの姿が鮮やかに蘇る。
まゆが
「わたし、この前の鳳城にも勝ったしね」
と、いたずらっぽく付け足すのを聞いたあかねが、
「むぐぐぐ。う、羨ましい……。わたしももう一つ欲しい」とわざとらしく悔しがる。
その様子を見て、栞代が穏やかに、けれど熱を込めて言った。
「最後に、ブロック大会勝って、あかねがもう一つゲットして、さらにその『想い出』の中に、オレも入れてくれっ」
その言葉に、全員が力強く頷いた。 過去の栄光も大切だが、これから作る未来はもっと輝いているはずだ。
そして、ソフィアと紬が来た日。 夕食のテーブルは、意外にもアニメ談義で沸騰していた。
ソフィアがフィンランドで見た日本のアニメがいかに素晴らしかったか、時折母国語と英語を交えながら熱弁を振るう。
「The animation quality was insane!(作画が狂気的でした!)」
杏子と瑠月が知っている作品の話をすると、二人はそれを広げて盛り上がる。興味が湧いたのか、杏子は途中から「布教用」として本気でメモを取り始めた。
驚くべきは、祖父と祖母だ。
「わしの若い頃は『天才!バカボン』じゃった。もちろん初代じゃぞ。が、最近のアニメもなかなか……」
「私はハイジが好きだったわねえ」
その年代ものもきっちりと抑えている二人。世代を超えたオタク談義には、紬も熱く参加している。普段は無口な紬が、作画監督の違いや演出の妙について、早口で語っているのだ。
その様子を見ていた栞代が感心したように呟いた。
「さすがやな。そんな昔のアニメもちゃんと知ってるんやなあ。それにしても、紬に話しさせようと思ったら、アニメの話を持ち出せばいいんやな。知り合ってから2年以上経つけど、今日一日で聞いた量の方が多いわ」
いつもは見せない饒舌な紬を見た感動を述べると、紬は一瞬、ハッとして動きを止めた。 そして、コホンと咳払いをし、いつもの無表情に戻って言った。
「……それは、わたしの、課題では、ありません」
食卓は爆笑に包まれた。
笑い転げるソフィアに、杏子がふと、真剣な眼差しで聞いた。
「ねえ、ソフィア。……日本に来たこと、後悔してない?」
ソフィアは笑いをおさめ、青い瞳で杏子を真っ直ぐに見つめ返した。
「そんなこと、一度も考えたことはありません」
はっきりと答えた。
「確かに、もう少し早く来れば良かった、とは何度か思いました。私は高校二年生からの編入です。実際、真映や楓と同じ時期に弓道を始めましたから、経験値は二年生と同じです」
ソフィアは言葉を探すように、少し視線を宙に浮かせた。
「でも、できることは全てやりました。実際に会った杏子は素晴らしかった。紬に会えた。みんなにも会えた。だから、わたしは胸を張れます」
それを聞いた瑠月が、小さく、けれど確かに拍手した
「あの、試合の結果だけに拘る拓哉コーチが、ブロック大会のメンバーに選んでくれました。結果的に三年生だけのチームになって、最後の思い出作りという配慮もあったとは思いますが……それでも、わたしの力があったからこそだと、私は信じています」
「その通りやで」
ソフィアの言葉を聞いた栞代が、力強く頷いた。
「それを証明するためにも、ブロック大会、勝たないとな」
そして栞代は、もう一度紬を見た。
「そやろ、紬」
紬は、箸を動かしながら、ボソリと言った。
「……それは、わたしの、課題では、ありません」
「そこは肯定しろよ!」
栞代のツッコミが響き、夜は更けていく。
それぞれが抱える想い。 迷い、決意、そして感謝。 小さなリレーは、杏子の心に確かな灯火をともし、次なる走者へとバトンを繋いでいく。




