第501話 県大会初日 『一華の完全防衛指令と、三つ巴の射場』
県大会。現地に前日入りした光田高校弓道部。
大会の会場近く、光田高校弓道部が宿泊する老舗旅館。 本来ならば、試合前の静寂と心地よい緊張感が漂うはずの場所だが、今夜の光田の部屋は異様な空気に包まれていた。 原因は、マネージャー兼データ分析官、アナリスト、一華である。彼女は今、「杏子警護SPモード」全開で周囲を威圧していた。
極度の緊張でガチガチになっている杏子を見て、まゆがクスクスと笑う。
「杏子は大丈夫だよね。どうせ弓を持てば『宇宙人』になるんだし。自分でもそれを信じて、のんびりしとけばいいのに。って、誰も心配してないけどね」
「そ、そうかなぁ……おばあちゃんに電話したい……。あ、トイレ……」
杏子が立ち上がろうとしたその瞬間、影が動いた。
「待ってください、杏子部長!」
一華が、立ちはだかる壁のごとく杏子の前に仁王立ちした。
「部長、単独行動は禁止です。廊下を歩くときは壁側。曲がり角は減速。手すり、使ってください」
「一華……トイレなんだけど」
「分かっています。生理現象は不可避です。だが、一人で行かせる訳にはいきません」
一華の眼鏡がキラリと光る。
「道中、床にワックスが塗りすぎられていて滑るかもしれませんし、他校の刺客や不審者が潜んでいないとも限りません。栞代さん、左舷のガードを! 二乃、右舷を! 真映、後方ガードを頼んだわよ。わたしが先導します」
「いや、一華、ただの旅館の廊下だぞ?」
栞代が呆れつつ突っ込むが、一華の瞳は真剣そのものだ。結局、指名された三人に加えて、興味津々の一年生たちも同行し、たかがトイレのために大移動することになった。
トイレに行ったら行ったで、一華はまず個室状況を確認し、安全を確保してから杏子を入れ、ドアの前で腕組みをして待機する。
「あ、あの、一華、すごくやりにくいんだけど……」
「大丈夫です。音が気になるのでしたら、これを」
一華は懐からイヤホンを取り出し自分の耳に付け、さらに小型スピーカーを杏子に手渡した。
「川のせせらぎ音が流れるように設定してあります。これで盗聴の心配もありません」
「いや、盗聴て。問題大ありなんやけど」
栞代が呟くも、一華の耳にはインカム代わりのイヤホンが装着されており、全く聞こえていない。
夕食時になっても、一華の暴走は止まらなかった。 旅館のご馳走が並ぶテーブル。杏子が唐揚げに箸を伸ばそうとした瞬間、一華の箸がそれを遮った。
「……待って。毒味が必要です」
「一華、それ私のから揚げ……」
一華は全品を一口ずつ、神妙な顔つきで咀嚼し、「毒味」していく。
「……よし。即効性の毒はありません。味は普通ですが、杏子部長の繊細な胃腸を刺激するようなスパイスは入っていないようです。さあ、召し上がれ!」
「……一華が食べたから、なんか量減ってるし、余計にお腹空いちゃった……」
杏子が恨めしそうに呟く。
一方、笑いを堪えるのが大変だった二乃は、気分展開の方法を思いついた。現在一華が忘れている記録である。タブレットを取り出し、メモを取り始めた。
《部長、笑顔回数増加。護衛行動による不安緩和効果、仮説A有効》
お風呂の時間になれば「タイルで滑って後頭部を強打するリスク」を熱弁し、脱衣所で
張りつく一華。
それを見た楓と滴が猛抗議する。
「いい加減にして、一華。わたしが付き添うから」
楓と滴がハモる。
あまりの過保護っぷりに部員たちは、明日への緊張もいつの間にか忘れ、すっかり呆れ果てるが、当の杏子は
「一華こそ、お腹壊さないといいけど」と、ひとり違う方向を心配している。 そんな彼女の鈍感さと純粋さが、ピリピリとしたチームの空気を、不思議と和ませていた。
翌朝。 小鳥のさえずりと共に、杏子の枕元でスマートフォンが震えた。 祖父からのモーニングメールだ。 『ぱみゅ子、気楽に遊んでこい。わしたちももうすぐ着くぞ』 その文面を見て、杏子はふわりと笑った。
こっそり抜け出して電話をしようと布団から這い出そうとした、その時だ。 何かが引っかかる。
「……あれ?」
いつの間にか、杏子の手首と一華の手首が、赤いリボンで結ばれていた。
「部長、トイレですか?」
一華がパチリと目を開ける。覚醒まで〇・一秒。
「あ、いや、電話しようかなって思って……」
「ここでして問題ありません。安全です」
隣で直立不動のSPに見守られながらでは、流石に話しにくい。杏子は布団に潜り込み、蓑虫のような状態で祖母に電話を掛けた。
「おばあちゃん……うん、うん、会場でね……」
いよいよ会場入り。 一華のガードは、まだ続いている。 杏子自身は、弓さえ握らせればモードが切り替わるため問題ないが、そのいつもと違う一華の鬼気迫る姿に、他の部員たちの緊張が少し強張っていた。
まずは団体戦の予選。 地区予選のBチームメンバー(栞代、つばめ、紬、ソフィア、あまつ)がそのまま挑む。 栞代が貫禄の皆中を見せ、チームを牽引する。つばめ、紬、ソフィア、あまつがそれぞれ一本ずつ外すが、大きく崩れることはない。 合計十六本。 ライバルの青竹高校と的中数で並んだが、大会規約により二位通過扱いとなった。地区予選の神がかり的な数字と比べれば落としたように見えるが、それでも県大会予選としては十分すぎる数字だ。
続いて、個人戦の予選が始まる。 地区予選で基準を満たした選手の中で、団体戦の予選に出場していない選手が対象だ。光田高校からは、地区予選で悔しい想いをしたAチーム――真映、楓、菓、あかね、そして予備登録の杏子が出場した。
「……見とけよ。うちらの意地、見せたるわ」
真映が低く唸る。 その言葉通り、彼女たちの集中力は凄まじかった。 真映、楓、菓、あかね、そして杏子。 全員が四射三中以上を叩き出し、出場した全員が予選通過という、前代未聞の快挙を成し遂げた。
他校のざわめきを背に、光田高校は駒を進めた。
試合は団体戦の決勝トーナメントに移る。ここからは負けたら終わりの一発勝負だ。
【一回戦】 vs 坊野学園戦
栞代が再び皆中を見せ、不動のエースとしてチームを牽引する。ソフィアが緊張からか二本外すものの、他のメンバーがカバーし、合計十五本。十本の坊野学園を危なげなく退ける。
【二回戦】 vs 海浜中央高校
ここで拓哉コーチが動いた。ソフィアの的中数が落ちたのを見逃さず、迷うことなく杏子を投入する。海浜中央高校とは、以前の県大会でかなりもつれた経験がある。情を排し、最善を尽くすための冷徹な判断だった。
栞代の連続的中がこの日の十一本目で止まり、会場にどよめきが走る。 だが、そのざわめきを切り裂くように、杏子の矢が飛んだ。 パンッ! 期待通りの、いや、期待以上の「宇宙人」ぶりを発揮し、的の中心を射抜く。 それに呼応するように、紬も機械のような冷静さでマイペースを貫き、淡々と中て続けて皆中を出す。 合計十七本。プレッシャーに沈み十二本に終わった海浜中央を、圧倒的な実力差で叩き伏せた。
【決勝戦】 vs 川嶋女子
同地区の最大のライバル。去年はブロック大会とはいえ、後塵を拝した相手だ。 しかし、今の光田に恐れはない。 地区予選で同じ弓道部の仲間を越えて出場しているという自負と責任が、彼女たちの姿を研ぎ澄まされた刃のように変えていた。
この日、わずかなズレを見せていた一年生の中学王者・あまつが一本外したものの、他はなんと全員皆中。 合計十九本。 二十射十九中。
地区予選を上回る、神域の的中。 好敵手・川嶋女子への敬意、乗り越えたAチームへの責任。それら全てを矢に乗せ、ライバルを「圧倒的」という言葉以上の力でねじ伏せた。 団体戦優勝。 一華の予想通り、抜きんでた力で、光田高校は全国への切符を手にした。
団体終了後、息つく暇もなく個人戦が行われる。
一華の分析データを元に、まゆが、微妙なズレに苦しむあまつに修正箇所を伝える。 中学チャンピオンとはいえ、まだ一年生。連戦の疲労とプレッシャーが、彼女の小さな体を蝕んでいた。
個人戦も、川嶋女子の前田、海浜中央の小室が順当に残り、紀央西高校の葉山澄香がダークホース的に残ってはいたが、結局は光田高校の独壇場となった。
舞台は競射になり、的も八寸(二十四センチ)へと小さくなる。 大舞台の経験不足もあり、真映、菓、楓がじわじわと脱落していく。
この日、微かな違和感と戦い続けていたあまつは、わずかに射が乱れて脱落。鳳城の麗霞以来となる、中学・高校連続制覇の夢は、惜しくもここで潰えた。
続いて、地区予選から絶好調だったあかね、そして姉との直接対決を夢見ていたつばめが、八寸の魔物に魅入られたように的を外す。
それぞれの思いを乗り越えて、舞台は、杏子、栞代、紬の三つ巴の対決になった。 この三人は、直前の全国選抜大会での団体戦メンバーだ。鳳城高校をあと一歩まで追い詰め、常に切磋琢磨してきた親友たち。 だからこそ、負けられない。 それぞれ、打倒杏子を本気で願う栞代と、紬。 互いに手の内を知り尽くした親友たちの、魂の削り合い。
それでも。
杏子強し。
その思いを、二人は改めて強く思い知らされた。 一皮剥けた杏子の強さが、本物だということを。杏子は、楽しそうに、ただひたすらに美しく、矢を放ち続けた。祖母に褒められたい。その純粋な思いだけを胸に。
結局、同時に外した栞代と紬。 優勝は、二年連続で杏子に決まった。 残る全国への切符は、あと一枚。 ごく僅かな遠近競射の結果、ごくわずか的の中心に近かった栞代が、準優勝で全国大会の切符を手にした。
終わってみれば、光田の完全勝利。 だが、そこには残酷な明暗があった。 これ以上考えられないぐらいの僅差、まさに紙一重で全国の切符を逃した紬。
控室に戻った栞代が、声をかけるのをためらう。視線を感じ取ったのか、紬は自分から振り返った。 悔し涙を流すでもなく、いつもの平坦な表情で。
「……紬、いい勝負だったな。まさに時の運としか……」
栞代の言葉を遮り、紬は淡々と言った。
「それは、わたしの、課題では、ありません」




