第500話 絶望は愚か者の結論
六月の風は、梅雨入り前の重い湿り気を帯びていた。 インターハイ予選を間近に控え、鳳城高校弓道部の空気はピンと張り詰めていたが、この日の放課後は、雨が止んだ僅かな隙を縫って、黒羽詩織の提案で商店街へ繰り出すことになった。
「麗霞もたまには息抜きせんと! ここの揚げたてのコロッケ、最高やねんで」 詩織の突き抜けるような明るい声に、麗霞は少し困ったように、けれど柔らかな微笑みを返した。
曽我部瑠桜、鷹見蒼乃、的場アナスタシア、要馨。団体戦のメンバーがぞろぞろと二人の後を、まるで雛鳥が一列になって親鳥を追うように歩いている。部員たちは迷惑にならないように。先頭の詩織が振り向いて麗霞に話しかけていた。
入部以降、麗霞の背中を追い、しがみつくように努力を重ね、未経験からレギュラーにまで辿りついた瑠桜は、麗霞の変化に胸を熱くしていた。かつては孤高の頂に一人で立ち、周囲を寄せ付けない静寂を纏っていた麗霞。そんな彼女に直接話しかけるのは、とても勇気がいることだった。
しかし、一目で麗霞に魅了された瑠桜には、近づきたいという強い気持ちがあった。
そして、いざ話しかけてみると、冷静で感情を表に出さず、その気高さが誤解されるけど、本当はとても面倒みがいい、求めると丁寧に応えてくれる、とても優しい人だと瑠桜は知った。
そして、その「気高さ」ゆえの孤独を溶かしたのは、この型破りな詩織だった。 厳格な家柄を背負い、感情を表に出さない麗霞が、今はこうして一人の高校生として、仲間たちの笑い声の中に身を置いている。
詩織自身もまた、当初は相当尖っていた。麗霞は、周りが孤高の存在にしていた面があったが、詩織は意識的に一人になろうとしていた。
詩織の弓は、粗削りで、当てればそれでいい、という、迫力はあったが、とても荒い弓だった。麗霞と同じ流派の傍流に連なる誇りと、本家本流である麗霞に対して、劣等感と激しい敵愾心を抱えていた。
麗霞に勝つという執念を燃やして挑戦し続けていたが、常に麗霞が一歩先を行っていた。
詩織の、麗霞に勝ちたいという、もはや妄執とまで表現できる思いが、最終手段に選んだ方法。それは、麗霞に勝つ手段を麗霞自身に乞う、という、切羽詰まった、いかにも詩織らしい方法だった。
それでも麗霞は手の内を一切隠すことなく、詩織に伝えた。こうして二人の絆は特別なものになった。
麗霞が詩織に伝えたものの中には弓道の技術だけではなく、弓道の「礼の心」というものも、絶対に必要なものだと繰り返されていた。
それでも、麗霞と歩くときは、詩織が麗霞の数歩先を歩くのは、詩織のちょっとした意地と麗霞への敬愛を感じられる。
「詩織、前をちゃんと見て。前向いて歩かないと危ないわよ」麗霞が詩織を窘める。
商店街は夕方の買い物客で賑わっている。麗霞は、すっかり馴染んだ鳳城の団体戦メンバーとの何気ない時間を楽しんでいた。詩織がさきほどの練習の様子を大げさに再現し、一同の笑いを誘う。
麗霞の方に完全に向き直り、後向きで歩きながら、詩織が続ける。麗霞の練習での厳しい表情を、大げさに真似て見せた。
「麗霞のあの顔、見た? 『そこ、違う』って目だけで刺してくんねんで!こわいって。わたしやから大丈夫やったけど、あれ一年生に向けてたら、三回は泣いてたな。いや、泣いて家に走って帰ってるで」 笑いながら詩織が後ろ向きに一歩下がった、その瞬間だった。
詩織の肩にかけたスポーツバッグの角が、歩道の端でふざけて遊んでいた幼子の腕に、こつん、と当たった。 強い衝撃ではない。しかし、幼子の重心はあまりに軽く、小さな体はふらりと車道側へ傾いた。
「あ――」 詩織の声が、途中で凍りついた。
交差点の向こうから、信号の変わり目を抜けようと加速した乗用車が湿った路面を切り裂いて滑り込んでくる。 ブレーキ音。短い悲鳴。 麗霞は、考えるより先に身体が弾けていた。
アスファルトを蹴る。幼子の背中に、迷いなく右手を伸ばした。 「あぶない!」 叫びながら、渾身の力で子どもの体を歩道側へと押し戻す。
母親の腕が、間一髪で幼子を抱きとめた。 だが、その代償はあまりに大きかった。 回避しきれなかった車のサイドミラーが麗霞の右肩を強かに打ち据え、体勢を崩した彼女は、そのまま逃げ場がなく、縁石へ右肩から真っ向に叩きつけられた。
鈍い音が響き、商店街の喧騒が一瞬にして静寂に変わった。
「麗霞!!」 詩織が、瑠桜が絶叫しながら駆け寄る。
麗霞は泥だらけのまま起き上がろうとしたが、右腕に全く力が入らず、その場に崩れた。額には大粒の汗がにじみ、陶器のような肌がみるみる蒼白になっていく。
幼子は、母親の胸の中で火がついたように泣いている。 その泣き声を聞いた麗霞は、激痛に顔を歪めながらも、幽かに満足そうに頷いた。 「……よかった」
詩織の唇が、見たこともないほどに震えている。 「麗霞、だ、大丈夫か・・・・ご,ごめん……うちが、うちがあんなところで……!」
「詩織」 麗霞の声は痛みに耐えるように低く、絞り出されていた。しかし、その響きは日頃の麗霞の気高さそのままだった。
「アクシデントよ。……救急車を、お願い」
一通りの検査が終わる。
麗霞が一緒に居る部員たちを見ながら、医師に言った。
「先生、みんなも一緒に聞いてもらっていいですか?」
医師は一瞬躊躇した。
麗霞が続ける。
「みんな、仲間なんです。一緒に居て欲しいんです」
こんなに心細そうな、不安げな麗霞を見るのは、全員初めてのことだった。それでも、凜とした気高さは失っていない。
医師は、麗霞の真剣な眼差しを見て頷いた。
シャウカステンに掲げられたレントゲン写真が、青白く光っている。 医師は画像を指しながら、重い沈黙を破った。
「右上腕骨大結節の骨折です」
その言葉に、部員たちの息が止まった。
「幸い転位――骨のズレは大きくありませんが、ここは肩を動かすための主要な腱が集中している非常に重要な場所です。手術は行わず、固定による保存療法を選択しますが……」
横で話を聞いていた詩織が、瑠桜が、蒼乃が、アナスタシアが、馨が、全員が祈るように拳を握りしめる。 けれど、医師の口から出た言葉は、あまりにも冷酷な現実だった。
「弓道、でしたね。肩は射技の根幹です。段階的なリハビリを慎重に行う必要があり、骨が癒合するのを待つだけでは不十分です。
……今年の総体には、間に合いません」
その場にいた全員の時が完全に停止した。
麗霞はしばらく黙っていた。固定された右肩の奥から響く痛みを堪えるように、ゆっくりと目を閉じる。
予選まであと数日。三年間の集大成。かぐやとの約束。杏子との約束。 そのすべてが、砂の城のように崩れ、指の間からこぼれ落ちていく。
それでも、麗霞がゆっくりと目を開けたとき、その瞳から「麗霞らしさ」は一片も失われていなかった。
「……分かりました」
詩織は、顔をくしゃくしゃにして泣き崩れた。 「ごめん、麗霞……ごめん……!」
瑠桜と、蒼乃が両側から震える詩織を支える。
麗霞は、自由な左手だけで、そっと詩織の肩に触れた。 「詩織、誰も悪くないわ。……子供が無事だったんだから、本当に良かった。弓道家として、瞬間に正しい判断ができた。それは誇れること。そうでしょ?」
気高く微笑む麗霞。 しかし、その微笑の裏側にある絶望の深さを、少女たちはまだ知る由もない。
麗霞は、もの心ついた時から、祖母も母も届かなかった、女性としての家元就任を夢見ていた。
流派創設以来、伝説となっている二代目以来の二人めとなる女性家元。
中高の公式戦で全て的中させれば。流派創設以来、二人目という女性での家元就任、その重たい扉を開けるには、中高の公式戦における「全射皆中」、その前人未到の記録こそが、現家元である父から提示された、女性として家元を継ぐための最低条件だった。
その最低条件を達成するのは、これで不可能になった。それでも、麗霞は気高さを失うことは無かった。
いまこそ、血のにじむような修練で築き上げてきた「心」に、すがりつきたかった。
それにしても、どれほどの絶望感であっただろう。人生のすべてを懸けてきた最後の試練のはずだった、十八歳の夏。 その終わりを、彼女は今、受け入れざるを得なかった。
窓の外では、いつの間にか、また雨が降り出していた。 アスファルトを叩く激しい雨音が、少女たちの嗚咽をかき消していく。
絶対王者の夏は、戦う前に、あまりにも唐突に終わりを告げた。




