第47話 インターハイへ
朝の練習、的前で弓を引く練習をしている時から、心がすっと落ち着いていくのを感じた。今日はいつもと違って部屋の掃除もあるし、みんな少し慌ただしい。だけど、最後だからか、どこか特別な雰囲気が漂っている。
それに、これだけおじいちゃん、おばあちゃんと離れたのも始めてだ。
「杏子、手、止まってるぞー。」
隣で掃除をしていた栞代が、にやりと笑いながら声をかけてくる。
慌てて雑巾を絞り直しながらも、頭の片隅にはおじいちゃんの顔が浮かんでいる。杏子は祖父のことをまた考えていた。わたしにはいつせみんなが居てくれたから、楽しかったけど、二人は寂しかっただろうな。二週間も家を空けたのは生まれて初めて。一度ここまで様子を見に来てくれた時、祖父の顔には「一緒に帰ろう」「ずっとここに泊まりたい」ってはっきりと書かれていた。
一応、その後のLINEでは平静を装っているものの、きっとおばあちゃんに「あまり寂しがっているそぶりは見せないように」と注意されているのだろうな。その光景を想像すると、少し切なくなった。
「おじいちゃんの好きな今川焼きでも買って帰ろうかな」
そんなことを考えながらも、手は動かし続けた。部屋が少しずつ片付いていくと、心の中も整理されていく気がする。
食堂では、朝食後、臨時コーチたちへの感謝の言葉と手紙の交換が行われた。一週間前と同じ光景なのに、人が違うと全然また印象が違う。
花音が部長らしく、コーチたちに向かって頭を下げる。
「一週間、本当にありがとうございました!」
部員たちもそれに続いて声を揃える。徳永コーチが少し照れたように微笑みながら言った。
「みんなの熱心さに私たちもたくさん刺激をもらいました。インターハイでは、君たちらしい弓を引いてきてくださいね。」
江原コーチが頷きながら、「正しい姿勢で、ね」と言った。その言葉に杏子は自然と背筋が伸びた。
草林コーチは笑顔で手を振りながら、「君たちの射を忘れることはないよ。また盆明けの合宿でも、いろいろ教えてね!」と冗談交じりに言う。その場が笑いに包まれる中、大和コーチは静かに頷き、杏子たち一人一人に手紙を渡していった。
杏子の手元に届いた封筒は、なんだかずっしりと重みがあるように感じられた。
「三年生の皆さん、インターハイでの目標を聞かせてください」
顧問の滝本先生の声に、会場が静まり返る。
「私たち三年生にとっては、高校生活最後の試合だから、後悔しないように全力で引いてきます!」
花音が目を輝かせながら言うと、他の三年生たちも頷いていた。
三年生は団体戦での予選突破が目標だ。そのために、また杏子の願いでもあったが、瑠月がメンバー入りしたと言ってもいい。
「瑠月さんは?」
「はい。一射一射、集中して臨みます」
「つぐみは?」
「打倒雲類鷲麗霞ですよっっ。」
入部時から、まったく振れない目標は、とても気持ちが良いものだった。
バスに乗り込む前、杏子は合宿所を振り返った。「盆明けにまた来るんだよね」と思いながら、ふと笑ってしまう。「今度は絶対、おじいちゃんが『一緒に行く』って言い出すなあ」
バスは静かに揺れながら、インターハイの開催地へと向かっていた。
杏子は、さきほど貰った、コーチからの手紙をゆっくりと開いた。
草林吾朗コーチから杏子への手紙
杏子さんへ
合宿お疲れ様!明日からいよいよインターハイだね。選手たちを応援する君の姿を想像すると、僕まで胸が熱くなってくるよ。
実は、この数日間、君の姿に何度も心を打たれたんだ。練習では一射一射に真摯に向き合い、そして三年生の先輩たちへの深い敬意と応援の気持ちを持ち続ける。その姿勢に、心から感動したよ。
特に印象に残っているのは、合宿中の練習の様子なんだ。最初は、少し型にこだわりすぎて、窮屈そうに思えたんだ。でも、少しずつ自分らしさを見つけていって、最後には弓と一体になっているような美しい射形を見せてくれた。あの瞬間、僕も思わず「おおー!」って声が出ちゃったんだ(笑)
それに、チームのみんなとの関係も素敵だったな。誰かが悩んでいると、さりげなくフォローして、寄り添っていたよね。杏子さんの優しさと強さ、両方見させてもらったよ。
ねぇ、知ってる?弓道って、不思議な競技だと思うんだ。的に矢を当てることが目標なんだけど、実は一番大切なのは、自分との対話なんじゃないかな。杏子さんは、その対話をちゃんとできている。だから、これからもっともっと素晴らしい射手になれると確信しているよ!
インターハイでは、選手たちの応援を任されているけど、その経験もまた、きっと君の大切な財産になるはず。仲間を支える気持ち、チームの一体感、すべてが君を成長させてくれると信じているよ。
あ、そうそう!もし選手たちが緊張して、どうしようもなくなったら、思い出させてあげてね。合宿最終日の朝稽古で、的前で一緒に見た朝日のこと。あの時の気持ち、あの時の空気感、あの時の落ち着いた呼吸を。君の穏やかな笑顔は、きっと選手たちの大きな支えになるはずだから。
最後に、ちょっとふざけた言い方になるけど…
「杏子さん、君の素晴らしい心意気に乾杯!」
これからの君の道を、心から応援しています!
草林吾朗より
追伸:
インターハイが終わったら、また皆で集まって、今度は流しそうめんとかどう?拓哉に相談したら、「え?まだ合宿の疲れ取れてないのに…」って言われちゃったけど(笑)
草林吾朗より
読んでいて、思わず笑いが零れたけど、ふと見ると、周りからクスクス笑い声が聞こえる。きっとみんな、草林コーチの手紙を読んでいるんだな。楽しい人だとは思っていたけど。ちょっとおじいちゃんに似てる。君の瞳に乾杯って。おじいちゃんよく言ってたなあ。あと少しだね、会えるまで。
大和慎吾コーチから杏子への手紙
杏子さんへ
合宿、お疲れさま。短い間だったけど、君が弓道に取り組む姿勢を見て、僕もいろいろと考えさせられる時間を過ごせた。特に印象に残っているのは、君がどんな場面でも「正しい姿勢で射ること」だけを大切にしていたことだ。それは簡単なことじゃないし、多くの人が陥りがちな「結果に縛られる」という罠から自由でいられること、その凄さを君が教えてくれた気がする。
弓道は奥深い世界だ。形だけをなぞるのではなく、心と体の調和が求められる。君の射にはその調和が感じられたし、それが結果的に他の部員たちや僕たちコーチにも影響を与えていたと思う。僕自身、君を見て「自分は今、正しい姿勢で生きているか?」と考え直すきっかけになったくらいだ。
ただ一つ、君に伝えたいことがある。君が「正しい姿勢」を追求する中で、その姿勢がこれからの君の人生全体にどう繋がるか、時折考えてみてほしい。例えば、弓道における「正しい姿勢」は、人間関係や学び、目標に向かう過程にも応用できる。その考え方は、競技だけじゃなく人生そのものをより良くしてくれる武器になるはずだ。
そして、君自身が「楽しい」と思える瞬間を大切にね。きっと君なら、それができる。応援しているよ。
最後に一つ。「後輩は先輩の背中を見て育つ」というのは、ある意味で論理的な必然かもしれません。しかし君の場合、その逆もまた真です。君の姿勢から、私たち指導者も多くのことを学ばせていただきました。
これからの君の弓道人生が、さらなる探究と発見に満ちたものになることを期待しています。
追伸:
もし興味があれば、私の個人的な研究テーマである「弓道における時間知覚と精神集中の相関関係」について、いつか話し合えたら嬉しいです。
大和慎吾より
な、なんか難しいこと書いてるな、大和コーチ。そんなこと考えたこともないんだけど。
徳永由実コーチからの手紙
杏子さんへ
合宿での日々、本当にお疲れさまでした。
私は長年、多くの弓道部員たちを見てきましたが、あなたのような一年生に出会うのは始めてのことでした。技術的な面はもちろんですが、それ以上に、あなたの「在り方」に深く感銘を受けています。
特に印象的だったのは、部員たちがアドバイスを求めてきた時の対応です。決して自分の考えを押しつけることなく、その人の目指す理想の射型との違いを、実に的確に指摘する。そして、どう改善するかは相手に委ねる。その姿勢には、拓哉コーチの影響を感じつつも、確かにあなた自身の理解と信念が宿っていました。
朝一番の練習時間。誰よりも早く道場に来て、黙々と自分の型を追求する姿。そして、三年生の先輩方が来られたら、さっと場を譲って、自然な形でサポートに回る。その所作の一つ一つに、弓道に対する真摯な思いが表れていました。
インターハイでも、あなたならきっと、普段と同じように、選手たちが求める時に、必要なサポートができると確信しています。
これからも、その誠実な心と確かな眼を大切に育んでいってください。いつの日か、また道場でお会いできることを楽しみにしています。
徳永由実
江原順子コーチからの手紙
杏子さんへ
合宿お疲れさま。率直に言って、あなたの「観る目」の確かさには目を見張るものがありました。
一年生でありながら、多くの部員たちがあなたの意見を求めるのを見て、私も興味を持って観察させていただきました。特に印象的だったのは、それぞれの部員の理想とする射型を、あなたがしっかりと把握していること。そして、その理想と現状の差異を、実に正確に指摘できる点です。
私が最も評価したいのは、あなたの「判断力」です。インターハイの出場枠を三年生に譲るという決断。表面的には「譲る」という言葉になりますが、実際には、チームにとって最適な選択を「選び取った」のだと私は捉えています。
弓道というものは、確かに個々人が自分の道を切り開いていくものです。あなたがその本質を、わずか一年生にして理解していることに、深い感銘を受けました。これは間違いなく、拓哉先生の影響もあるのでしょうが、あなた自身の資質があってこそ、ここまで深く理解できているのだと思います。
そうそう、あなたが普段つけている練習ノート。見せてほしいと頼んだら、快く許可していただきましたね。ありがとう。拝見させていただき、様々な射型の特徴や、理想形との比較が非常に細かく記されていて感心しました。その観察眼は、必ずやあなた自身の成長にも活きてくるはずです。
あなたには人それぞれの理想を見抜く目と、それを的確に伝える力がある。その特別な視点を活かして、チームを支えてあげてください。
最後に。いつか必ず、全国の檜舞台で、あなたの射を見られる日が来ることを、楽しみにしています。
江原順子
手紙を読み終えた杏子は、静かに目を閉じた。コーチからの言葉は、とても温かく、まるで杏子の努力と成長をずっと見守ってくれていたかのようだった。
「中田先生、おばあちゃん、そして拓哉コーチに滝本先生……」
杏子の胸に浮かんだのは、手紙のやりとりは無かった、これまで支えてくれたすべての人たちの姿。中田先生の厳しくも真摯な指導、おばあちゃんが教えてくれた"心を射る"弓道、ずっと見守ってくれている拓哉コーチ、そして滝本先生が導いてくれたチームとしての戦い方。
「この弓は、私一人のものじゃない。」
杏子はそっと胸に手を当てる。感謝の気持ちが、静かな炎のように心の中に灯っていた。彼女の弓道には、指導者たちの教えと願いが確かに息づいている。
章の締めくくり
窓の外には、夏の青空がどこまでも広がっている。バスのエンジン音が単調に響く中、杏子はゆっくりと顔を上げた。
「――これからも行こう、ずっとみんなで」
杏子の視線の先には、同じ空を見上げる仲間たちの横顔。インターハイという大舞台に向け、ひとつの弓道部として、今、心が一つになっているのを感じた。
私たちの戦いは、ここから始まる――。