第45話 合宿 部内試合
初日からお世話になったコーチたちとの別れを済ませ、部員たちは新たな心持ちで道場に集まる。今日から、また新しいコーチによる指導が始まる。
拓哉コーチが全員の前に立った。
「今日から、男女別のメニューで、より個別的な指導を行います」
静まり返った道場に、コーチの声が響く。
「弓道には、人によって違うアプローチがあります。同じことを目指していても、コーチによって異なる表現をすることがあります。しかし」
コーチは一瞬言葉を切り、部員たちの表情を見渡した。
「全てのコーチは、皆さんの上達を真摯に考えて指導しています。特に一年生は、まずは基本に立ち返ってみてください。教えられたことがしっくりこない時は、まず基本に立ち返ってください。コーチ間で情報は共有していますから、それぞれ効果的なアプローチを探っているのです。それでも迷う場合は相談してください」
杏子は静かに頷きながら、おばあちゃんから教わった基本の大切さを思い出していた。
「まずは受け入れてみてください。ただし、絶対というものはありません。そのバランスを考えることも、皆さんの課題です。ですよね、紬さん。」
コーチの珍しい冗談に、場の緊張が少しだけ和らぐのがわかった。
続いて、拓哉コーチは少し緊張を孕んだ声で続けた。「それから、3日後にインターハイの団体戦の立ち順を決定する試合を行います。団体戦に登録する6人と、つぐみさん、杏子さん、冴子さん、沙月さんは通常通り射ちます。また、一年生の栞代さん、紬さん、あかねさんはそれぞれ2本ずつ射ってもらいます。一年生は、的中よりも姿勢を見せることを意識してください」
鳳城高校との練習試合を思い出す部員たち。あの時の立ち順決定から、何もかもが始まったように思える。予備メンバーとして登録されても、予選落ちすれば確実にインターハイの舞台には立てない。その重みが、部員たちの胸に響く。道場内に緊張感が漂った。3年生の中には明らかに表情を曇らせる者もいる。彼らの中には、この試合が持つ重要性を深く理解している者も少なくないからだ。
指導スタイルが変わる中、部員たちはそれぞれの練習に取り組む。特に男女別でのメニューは、より個人の課題に踏み込む内容となり、部員たちには新たな刺激を与えた。
3日後、いよいよ部内練習試合が始まった。三年生チームは、瑠月と花音がそれぞれ3本、他のメンバーが1本ずつの合計10本。対する1.2年生チームは、つぐみと杏子の完璧な皆中を軸に、冴子と沙月がそれぞれ2本、栞代が1本を加えて合計13本を記録。試合としては1.2年生チームの勝利となった。
しかし、最大の課題は3年生の登録メンバー決定だった。1本ずつの的中で4人が並び、さらに4本ずつの再試合でも結果は同じ。最終的に競射となり、咲宮さくらが予備メンバーとなった。
新しい団体戦の立ち順が発表される。奈流芳瑠月、堂本海、西門理子、榊原夏美、国広花音の順。ほぼ今までの練習通りで大きな混乱はなかったが、とはいえ、この決定には重みがあった。
合宿はその後も順調に進む。新しいコーチの個性が色濃く出た指導に、部員たちは戸惑いながらも少しずつ吸収し、次なる大会に向けて準備を進めていく。
杏子はいつものように黙々と弓を引き続け、その姿に周囲の部員たちも刺激を受けていくのだった。
合宿最後の夜、夕暮れの道場に二人の姿があった。夜風が道場の障子を優しく揺らす。合宿の最終夜、個別練習時間が設けられた静かな時間に、つぐみが杏子に歩み寄った。
「杏子、勝負してよ」
つぐみの声には、これまでにない決意が込められていた。
「杏子に負けたままじゃ全国には出られない」
その瞳には、負けん気と覚悟が宿っている。杏子は一瞬驚きながらも、その挑戦を正面から受け止めた。
道場の奥で練習していた栞代や紬、あかね、そして練習を見守っていたまゆも二人の様子に気付き、自然と視線を向けた。緊張感が道場全体に広がる中、試合が始まった。
一矢、また一矢と、両者の矢が次々と的中していく。その度に、見守る一年生たちからかすかな歓声が漏れる。一射目、二射目と、二人は緊張感の中でも確実に矢を放ち続けた。その姿は、どちらも完璧だった。矢が放たれるたびに完璧な弦音と、矢が的に中った音が道場に響き、見守る一年生たちは息を呑む。
「やっぱりすごいな……」栞代が小さく呟く。
杏子もつぐみも、互いに一切の妥協を許さず、静かに矢を放ち続ける。もう永遠に続くかと思われた。
しかし、杏子の心の中で、ある思いが芽生え始めていた。
つぐみは全国に出る。私は出ない。つぐみに自信を持たせることが、チーム全体にとっても大事なはず。何より――杏子は、つぐみの真剣な表情と、負けを認められないプライドを守りたいと感じ始めていた。
その思いは、徐々に杏子の射に影響を与え始める。普段なら絶対に意識しない的中を、わずかに意識し始めてしまう。
「あれ?」
栞代が小さく呟く。いつもの杏子の射とは、どこか違う。
放たれた矢は、わずかに的をそれた。
つぐみの目が鋭く光る。
「杏子」
その声には怒りが含まれていた。
「また、その傲慢な優しさか」
「つぐみ...」
杏子が言葉を探すが、つぐみは遮る。
「甘くて傲慢だ。相変わらずだな」
その言葉には、つぐみ自身の悔しさと、杏子の優しさに対する複雑な思いが混ざっていた。
栞代が慌てて間に入ろうとする。
「ちょっと待って...」
しかし、つぐみの表情が突然和らぐ。
「でも、ありがとう」
思いがけない言葉に、杏子が顔を上げる。
「目先の勝負にこだわって、試合を申し込んだ私の方が子供だったかもしれないな。杏子の性格はよく分かってたのにな。でも、付き合ってくれて、本当にありがと。ずっと的中を続けて、杏子を悩ませた。そこまで追い込んだことで納得するよ」
夜風が道場を通り抜けていく。
「次は必ず本気で勝負しよう、杏子」
つぐみの声には、もう怒りはなかった。
「うん」
杏子も、心から笑顔を見せた。
つぐみはなにか納得したように練習場を後にした。それを目で追いながら、杏子は、栞代に呟いた。
「でも、決してわざと外そうとした訳じゃないんだけどな。迷って、中るかどうか考えただけなんだけど。姿勢のこと以外を考えると、もう覿面にだめね。違うことは考えない。姿勢のことだけ。おばあちゃんはいつも正しいなあ。」
「杏子も杏子で、あらためて勉強になったんだな。」
栞代が杏子の肩を抱き言った。
「オレもいつか、杏子を悩ませるような実力を身につけるからな。」
杏子は黙って頷いた。
一方、あゆは、一緒に居るあかねに呟いた。
「ねえ、あかね。」「うん?」
「これはもちろん私が見ている範囲だから、絶対じゃないと思うんだけど」
「うん。」
「杏子さん、今回の合宿で外したの、今が始めてよ。」
「ええええっっ」
「あ、だから私の見てる範囲だけだし、それにそもそも丁寧に射つから、矢数自体も一番少ないんだけどね。」
「いや、少ないと言っても、軽く一日100本は射つだろ?」
「あ、だから、わたし、半分ぐらいしか見られてないから。」
「は~。わたしなんて、まだ片手ぐらいしか中ってないよ~」
「あかねは始めたばっかりじゃん。わたしなんて、一本もあたってないよ。」
「だって、あゆは弓引いてないじゃんっっ。」
二人は笑いながら、後片付けをしていた。
外では既に星が瞬き始めていた。合宿最後の夜は、それぞれの心に新たな絆を刻みながら、静かに更けていった。




