第42話 合宿一週間め
光田高校弓道部の合宿も一週間を迎えた。早朝練習を終えた部員たちが、食堂に集まっていた。いつもより少し疲れの色が見える顔々だが、それでも真摯に弓道と向き合う目は、一週間前よりも確かな輝きを増していた。
拓哉コーチが立ち上がる。
「今日から、新しい臨時コーチの方々に来ていただきました」
部員たちの視線が、コーチの横に並ぶ見慣れない顔ぶれに注がれる。
「まず、私の大学時代の同級生、今も現役で弓に取り組んでいる、草林吾朗先生、大和慎吾先生」
二人が軽く会釈する。
「そして、滝本先生のお知り合いの、徳永由実先生、江原善美先生。お二人とも現役の選手でもある。」
優しげな笑顔の徳永コーチと、凜とした雰囲気の江原コーチに、女子部員たちも思わず姿勢を正す。
「四人とも、国体経験者で、全日本弓道選手権大会での入賞経験がある。質問があれば積極的にそして」コーチの表情が少しほころぶ。「前回お世話になった深澤剛先生にも、再びメンタルケアをお願いすることになりました」
深澤コーチが穏やかに頷く。その存在感に、部員たちの表情が少し和らぐ。
「さて」コーチが咳払いをする。「本日は特別な練習メニューを用意しました」
食堂内が、一瞬静まり返る。
「午後から、試合を行います」
「試合?」
栞代が思わず声を上げる。
「はい。コーチ陣と部員との対抗戦です」
部員たちはざわつき始める。「試合?」「本当にコーチと対決するの?」という声があちこちから上がるが、拓哉コーチはにやりと笑った。
「勝ったチームにはプレゼントがあります。」
「いや、コーチと試合をして勝てる訳ないじゃんっ。」
勝った方にプレゼント、と聞いて、あかねが叫ぶ。
「大丈夫です。そこは考えてあります。」
といい、競技方法の説明を始めた。
「コーチ側は、男性チームと、女性チームの2チームとし、
部員側は、インターハイ出場チームと、女性チームと男性チームの3チーム。
さらに、コーチ陣は、特別に18センチの的を使用します。」
36センチでも24センチじゃなくて、18センチの的を使うのか、これは部員側に勝たせようと思っているな、と弓道部の誰もが思ったが、それは完全に間違っていることが後に分かる。
「そして」コーチが意味ありげに笑う。「勝者には、特別なプレゼントがあります」
「どんなプレゼントですか?」あかねが期待に目を輝かせる。
「それは、試合後のお楽しみです」
その後、午前中、部員が体力トレーニング、基礎練習をしている間、今日に限り、コーチ陣は、的前での練習にあてること、部員の練習には深澤メンタルコーチが付き添う、などが拓哉コーチから説明された。
午前の練習は、普段より少し軽めのメニューで始まった。部員たちは、午後の試合に向けて体力を温存しながらも、基礎練習に真摯に取り組んでいる。
インターハイ出場組はそれでも、コーチ陣と共に的前練習に励んだ。その他の部員たちは基礎体力作りと素引きを中心とした練習を行っていた。杏子は、いつも通りの落ち着いた様子で動作を繰り返す。
「正しい姿勢で」
その言葉を心の中で唱えながら、一つ一つの動きを確認していく。
一方、道場の別の場所では、コーチ陣が的前練習を行っていた。特に拓哉コーチの射は、部員たちの目を釘付けにする。
拓哉コーチが部員の前で弓を引くことはほとんどなく、一年生の前では始めてのことだった。
「すごい...」
栞代が思わず呟く。力強さと美しさを兼ね備えた射に、誰もが見入っていた。
「あれは武術系の射ね」
徳永コーチが優しく説明する。
「みんなの型とは少し異なるけれど、立派な流派なの」
午前の練習が終わりかけたころ、道場の入り口に見慣れた姿が現れた。
「あ、おばあちゃん、おじいちゃん!」
杏子が思わず声を上げ、満面の笑顔を見せる。
「ほう、みんな頑張っているのう」
おじいちゃんが満面の笑みを浮かべる。おばあちゃんは静かに頷きながら、杏子の射を見つめている。
「今日試合と聞いて、みんなの活躍を見に来たのじゃ」
おじいちゃんの穏やかな声に、コーチ陣も温かく迎え入れる。
部長の花音が「私たちは今日突然聞いたけど、ちゃんと予定されてたのね」と呟き、全員が頷いていた。
昼食の時間。食堂では、おじいちゃんを中心に賑やかな会話が弾む。
「それで、なぜ杏子をぱみゅ子っと呼ぶのかについてはじゃ...」
「お、おじいちゃん!」
杏子が慌てて制止するが、既に遅かった。
杏子の家に遊びに来た部員たちは知っていたが、これで部員全員に知られてしまった。杏子は少し困惑したが、特に嫌がっている風では無かった。
「ぱみゅ子?」
花音が目を輝かせる。
「それは聞かなきゃ!」
おばあちゃんは微笑みながら、杏子の肩に優しく手を置く。
「午後の試合、楽しみにしてるね。合宿はまだ半分だけど、その成果が楽しみ」
その言葉に、杏子は、逆に少し緊張が和らぐのを感じた。おばあちゃんが見てくれる。いつも通りの射を。ただそれだけを心に刻む。
コーチ陣を見ると、男子コーチは全員大学の同級生で、チームメイト。久しぶりに一堂に会した仲間たち。実に楽しそうに会話が弾んでいた。女性コーチ陣も、滝本先生の友人だけに、少し年齢層は上ではあったが、それでも、女子トークに花を咲かせていた。
午後の試合開始を深澤メンタルコーチが告げた。雲英まゆマネージャーと二人で、審判を担当する。道場内には、ジワジワと特別な緊張感が漂っていた。
「では、インターハイチームから始めます」
咲宮さくら、榊原夏美、西門理子、堂本海と、最後の射手、国広花音までが順番に弓を引いていく。インターハイチームから始めたのは、緊張感を与えるためであった。その緊張感の中で、花音は2本、そのほかのメンバーはかろうじてそれぞれ1本的中させた。合計6本。
「次は男子コーチチーム」
拓哉コーチが立ち上がる前に、審判が特別なアナウンスを入れる。
「コーチチームは特別な的を使用します。直径18センチです」
会場がどよめく。通常の的の4分の1という大きさに、誰もが息を呑んだ。
拓哉コーチから朝説明されたが、実際に見てみると、的がほとんど見えないんじゃないかと思うほど小さかった。
「え、あれを当てるの?」
瑠月が目を丸くする。
裏方に回っている一年生たちは、先に的を見ていたが、特にあかねは、プレゼントが掛かっていることもあり、よしっこれで勝った、と気分を高揚させ期待していた。
しかし、その心配と期待は無用だった。草林コーチを筆頭に、各コーチが4本中3本という驚異的な的中を見せる。そして拓哉コーチに至っては、その射は、誰もが見たことのないような力強さと気品を兼ね備えていた。
射型自体は、杏子がおばあちゃんに教わったものとは少し異なるものだったが、杏子はその美しさと力強さに、憧れを抱いた。どちからと言えば、つぐみの射型に似ていたが、美しさはさておき、力強さが段違いだった。
道場にいた全ての部員たちが驚き、歓声をあげていた。
つぐみが杏子に、「な、私がコーチを慕ってここの高校を選んだ理由が分かっただろう? 」と言った。杏子は黙って頷いた。
結局、拓哉コーチの4本全ての矢が、わずか18センチの的の中心に吸い込まれていく。皆中だった。男子コーチ陣の16本という驚異的な的中数に、道場全体が沸いた。あかね一人元気を無くしていたが「いや、女性コーチ陣はここまで中ることはないだろう」と気を取り直していた。
続く部員男子チームは、プレッシャーを感じながらも健闘し、一人2本ずつの的中で合計10本を記録。
ここまでで、コーチ陣は16本、部員チームも16本で並んだ。
おじいちゃんは満足げに頷きながら、おばあちゃんに何かを囁いている。その視線の先には、次の試合に向けて静かに準備をする杏子の姿があった。
「女子コーチチームも18センチ的を使用します」
実は当初は、コーチの的は、さすがに勝負にならないかもしれないと、24センチ的にしようという話から始まり、24センチだとまだハンデとしては不十分だろう、じゃあ片方のチームを18センチ的にしよう、ということで一旦話はまとまった。
そのあと、男女どちらかが18センチ的にするか、ということでジャンケンをしたところ、女子が24センチ的になったのだが、ジャンケンに負けた白石コーチが、「納得いかない。このままじゃ、女子の方が甘くしてもらったと高校生たちに思われる。同じ18センチ的にします。」と言い張ったという経緯があった。
白石コーチが声を上げる。
「やっぱり24センチ的にしておけば良かったわ。」
「いえいえ」深澤メンタルコーチが穏やかに笑う。女子コーチ陣は納得した様子で的前に向かう。
滝本先生を最後に配置した女子コーチチームの射は、白石コーチの言葉通り、男性陣コーチに全く引けを取っていなかった。圧巻だった。4人のコーチがそれぞれ4射中3本を的中させ、最後の滝本先生が見事な皆中を決める。16本という男子コーチチームと並ぶ成績に、場内から歓声が上がる。
あかね一人、しょんぼりしていたのは言うまでもない。
「プレゼントが無くなった・・・・・・」
そして、いよいよ最後の女子部員チーム。
ブロック大会のメンバーそのままだったが、つぐみがインターハイの個人戦に出るために、いつもの落ち(5番目)から、大前(1番)に、つまり杏子と順番が入れ代わっていた。これは、拓哉コーチからきちんと説明があり、個人戦に向けての配慮、ということでつぐみも納得していた。今回は、もちろん、つぐみはチームのエースであると自負しており、落ちに拘っていたから、きちんと説明したのだが、そもそも拓哉コーチは、自らの意図を一つ一つ説明するタイプのコーチでもあった。
女子部員チームは気合が入っていた。自分たちの結果で勝負が決まる。公式ではなく、花相撲、ならぬ花試合ではあったが、試合は試合た。さらにはブロック大会優勝という自負もある。気持ちが高揚し、頰が赤く染まっていた。ただ一人、いつもと変わらぬ杏子を除いて。
先頭のつぐみは、その場に相応しい射を見せる。
冴子、瑠月、沙月と続く。そして杏子は、いつもの通り、別世界に居るかのごとく、いつも通りの落ち着きで的を射抜いていた。
つぐみが皆中、冴子、瑠月、沙月がそれぞれ一本ずつ外し、3本、そしてここまで杏子は全てを的中させていて、ここまでき合計が16本。
コーチ陣チーム対部員チームも、また、個別のチーム対抗でも、男女、それぞれのコーチチームと、16本ずつで並んでいた。杏子の最後の一矢で、決まる。ここで杏子が外せば、引き分けになる。
「これはかなりプレッシャーの懸かる一射になるな。落ち着いては打てないだろう。杏子さんの射型は美しいが、少し繊細すぎる気がする。このプレッシャーには耐えられないだろう。でもまあ、外して引き分けなら、お互いいい想い出にはなるし、まあ、コーチ陣のメンツも保たれるな」
今日来たばかりで、まだ今日始めて杏子の射に触れた、草林コーチが拓哉コーチに言った。プレゼントも全員で分ければいい。だが、拓哉コーチは、
「ま、そんなことにはならないよ。」
と自信たっぷりにいい、杏子を知っているコーチや、滝本先生は黙って頷いていた。
場内の空気が静まり返った最後の一射。
杏子の射は、いつもと何も変わらない。ただ、正しい射形だけを意識した美しい射。
放たれた矢は、迷うことなく的の中心へと吸い込まれていった。
「的中!」
場内が大きな拍手で沸き上がる。17本という最高得点で、部員女子チームの勝利と、部員チームの勝ちが決まった瞬間だった。
「やったー!」
「杏子~~、みんな~~、ありがと~~~」とあかねが杏子に飛びつく。
そんな中、つぐみが静かに杏子の肩を叩いた。
「さすが」
その一言に、これまでの全てが込められていた。
「で、プレゼントは?」
興奮冷めやらぬ中、栞代が声を上げる。
拓哉コーチが満面の笑みで告げる。
「今日の夕食は、エビフライ食べ放題です」
一瞬の静寂の後、歓声が上がる。
「あ、それと優勝チームには」コーチが付け加える。「デザートにプリンが付きます」
「え、それだけ?」沙月が思わず声を上げる。
しかし、その「それだけ」なプレゼントが、かえって場の空気を和ませた。
「じゃあ、わしとのデート券も付けるかのう?」
おじいちゃんが割り込んできて言うと、呆れ顔の栞代が早速
「だれが欲しいんだよ、そんなもの」
と笑いを誘ったら、杏子がすぐに
「も~、わたしがもらうから~」と庇う。栞代がまた、「杏子の場合は、おじいちゃんの方が喜ぶだろっ」と混ぜ返した。
勝敗を超えた、温かな一体感が道場全体を包んでいた。




