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ぱみゅ子だよ~っ 弓道部編  作者: takashi
高校3年生
415/419

第415話 明日は始業式

春の湿り気を孕んだ匂いが鼻腔をくすぐる。

道場に差し込む午前の光は低く、使い込まれた巻藁の藁束へ薄い金色の粒子を差している。無数の矢が空気を切り裂いた余韻だけが、静謐な空間に漂っている。


春休み最後の一日。

午前中の公式練習を終えた弓道部員たちは、昼の穏やかな弛緩に身を任せていた。


「明日は始業式だね」

杏子が、膝の上で弁当箱の包みをほどきながら言った。

口調はいつも通り柔らかく、張り詰めた弦が緩んだときのような安らぎと、日向の匂いがある。

その声に誘われるように、部員たちの脳裏へ春休みの記憶が蘇る。特に四月一日のことだ。

エイプリルフールと、その後の“Best Grandpas”授与式。

丁寧に作られたオリジナルのカップと、それを手に取り相好を崩す祖父たちの姿は、今も静かに部室の隅で笑っている気がした。


「練習開始が遅れる分の調整は、すでに済ませてあります。今、予定表をお送りします」

一華が感情の起伏を削ぎ落とした声で返す。

手元のタブレットにはすでに今日のメモ欄が展開され、光る画面が彼女の瞳を冷たく照らす。

練習の分刻みのスケジュールに、個別の目標数値、注意事項。気象条件も入っている。日々更新され蓄積されていく膨大なデータは、さながらこの部の経典だ。


「はぁ……。貴重なJK(女子高生)の春休みが、また練習だけで終わっちまっいました……」

真映が、この世の終わりのような声を出し、ゴム弓を肩に回して大げさに天を仰いだ。

「春って、世間一般では『恋の季節』らしいですよ。なんでわたしの周りには、弦音(つるね)と、汗と、筋肉痛しかないんでしょうか?」


「真映に言わせたら、年中恋の季節になるな。エイプリルフール楽しかったやん。真映のおかげからさ。感謝してるで。十分やん」

あかねが、冷めた焼き魚をつつきながら、淡々と後輩の嘆きを刈り込む。

「それはそれ、これはこれですぅ……」

真映の恨めしそうな視線が突き刺さるが、あかねは涼しい顔でお茶を啜るばかり。


あかねは少し考えてから、ぽつりと言った。

「軽くお花見でもする?」


真映が顔を上げた。

その言葉に、杏子が珍しく反応した。おにぎりを頬張る手を止め、目を輝かせる。

「ねえ一華。午後からの練習開始、少し遅らせても大丈夫?」


「えっ」

一華が指を止める。

「それはまあ、調節可能ですけど」


あの~。

その場にいた全員の心の声が重なる。

午後からは、あくまで自主参加の自由練習という建前さえ、もはや機能していないのか。もうとっくに知ってたけど、建前は建前で守ってほしい。一華に練習計画立てさせるの辞めて。

その場の全員が心の中でツッコミを入れたが、口に出す勇気のあるものはいない。

部長を基準にするのはヤだ。


真映の瞳に宿る恨めしさの度合いが、深海のように一層深まる。


「じゃ、行こっか。いつもの神社に」

今日の杏子の決定は早い。ニュー杏子か? その割にはもうお弁当に手をつけてるけど。

「えっ。お花見実現っすか? でも、いつもの神社?」 真映の目の表情が、恨みから期待へ、そして野望へとくるくると変わる。 「親分。どうせやるなら、盛大に一日使ってやりましょうよ。もっと遠くへ行って、いろんな人を呼んで!」


「おじいちゃんとおばあちゃんも呼ぶの? おじいちゃんは張り切ると思うけど」

杏子が真顔で返す。「おばあちゃん来るの、大変かも」


「え? いや、親分、そうじゃなくてですね、その……例えば、他校の知り合いの男子とか、あるいはその辺に落ちているイケメンに声をかけるとか……その、とにかく、異性の、その・・・・・・・」 最後の方はごにょごにょと口の中で溶けて、春の風に溶けて消えて聞き取れない。


栞代が横でゲラゲラと笑いながら、真映の肩を叩いた。 「はい、真映の負け~。不純な動機は却下だ。……ちょっとコーチに聞いてくるわ。みんな、弁当食べるの、そこでストップな」 そう言って、栞代は身軽に姿を消した。


「たまにはいいだろう。付き合うよ」 意外にもコーチは賛成し、付き添いとして同行することになった。 いつものお弁当を食べる場所が、部室の横から、少し遠くの神社の境内へと変わる。 


神社の境内は、満開を少し過ぎ、風が吹くたびに薄紅色の花びらが雪のように舞い散っていた。 「いや、綺麗やなあ……」 あかねが眩しそうに呟く。「せっかくゆっくり時間あるから、何日か、ここで弁当食べても良かったな」


神社の端にある巨木の下へレジャーシートを敷き、車座(くるまざ)になる。 即席の簡易な宴が始まった。水筒のお茶で乾杯し、いつも通り多めに詰められた杏子の卵焼きや煮物、ソフィアが持ち込んだ極彩色の北欧のお菓子をシャッフルする。即興のフルコースが出来上がる。場所が変わるだけで、卵焼きの甘さも、クッキーのサクサク感も、なんだか特別に感じられた。


口に含めば出汁の優しい味と、強烈な甘さが交互にやってくる奇妙な調和。それでも彼女たちの輪に笑いは絶えない。なんといっても、お箸が転んだだけでも笑う年頃だ。


「去年とはまるで風景が違うな」

笑いの波が落ち着いた時、栞代が茶を飲み干し、ふと漏らす。

「え、若頭。桜の木、増えました?」

真映が口の端にご飯粒をつけたまま問う。


「いや、そうじゃなくてさ」

栞代は苦笑し、視線を遠くへ投げた。

「去年はおじいちゃん体調崩してさ。オレ、正直、杏子が弓道部に戻るかどうかまで心配したからな」


一瞬、その場の空気が少し湿り気を帯びる。

「今はめっちゃ元気ですけどね」

真映がおにぎりを頬張り、空気を攪拌する。

「この前も、ピーナッツ投げて食べる早食い競争で、王者のわたしを追い詰めてましたからねえ」

杏子がその時のことを思い出したのか、嬉しそうに吹き出した。


「倒れる前は、車に隠れてお菓子食べまくってたらしいんだよなあ」

栞代が呆れたように肩をすくめる。

「糖尿のくせに。後で空き箱やらビニール袋やら発見して、さすがのおばあちゃんも呆れてたわ。まあ、ちゃんと隠さないところがおじいちゃんなんだけどなあ。でも、あれからは杏子が毎日のように散歩に連れて行くわ、食事管理はおばあちゃんが徹底してるわで、10歳は軽く若返ってるよ。測定数値もめちゃくちゃいい」



「へえ~。あのご隠居が、そこまで素直に従うなんて、意外ですね。『わしは好き勝手に生きて、好き勝手に死ぬんじゃ~』とか言いそうなタイプですけど」 真映の言葉に、栞代はちらりと、まゆの方を見た。


「……まゆが、その辺りは上手かったんだよ」 栞代の視線が、静かに微笑むまゆへ注がれる。 「『杏子の夢を一緒に見ましょう』……そう言ったんだって」

まゆの顔が、桜の色よりも赤くなる。


まゆの白い頬が、桜の色を映したように赤く染まる。

「えっ? そんなことあったの?」

杏子が箸を止め、きょとんと目を丸くする。

「なんか、散歩もあまり嫌がらないし、意外と素直だなとはずっと思ってたんだけど」

朝早く起きるのは、自分の遺伝だからちゃんと起きるんやって、ずっとおじいちゃん言ってたのに。そんなことがあったんだ。

後半は言葉を飲み込んだ。


入院当時、祖父が「わしなんて、もうどうなってもええんじゃ」と自虐的なことを言うたびに、杏子は黙って親指と人指し指を立てて見せ(ほっぺたをひねる合図だ)、祖父を封じてきた。けれど、根本的な心変わりには、別の理由があったのだ。


「……そのあと、おじいちゃんと病室で二人になった時、まゆがそっと呟いたんだってよ」 栞代が懐かしそうに言う。 「後で、おじいちゃんが愚痴ってた。『まゆさんが、わしの弱いツボを的確に突いてきおった』って」


栞代の言葉に、穏やかに笑い声が広がり、桜の枝を揺らす。

杏子には初めて聞く話だ。そっとまゆに、自慢の卵焼きを差し出す。

「おばあちゃんと一緒に作ったんだよ。おばあちゃんにも、今日話して良い?」

「杏子のおばあちゃんの玉子焼き、好きなんだ」まゆが玉子焼きに箸を伸ばす。

「今度、焼きたてを御馳走するから。絶対に」

ありがとう。確かにまゆは、その気持ちを受け取っていた。


静寂を破ったのは、一華だった。

「もう部長の夢は、部長だけの夢じゃありませんから」

タブレットを閉じ、強い視線を向ける。

「だから、お祖父様が頑張ってる以上に、わたしたちも頑張らないと」


「そうだっ。でないと、おばあさまの美味しい玉子焼きが食べられないっ」

真映の言葉に、改めて笑い声が広がる。

やっぱり、こいつは絶対にうちのクラブに必要だな。栞代が真映の頭をなでなでした。

「わ、若頭っっ。どーしたんですかっ。優しくされるのに、慣れていないんですっ」

「おい、オレがいつも苛めてるみたいに言うなっっ」


杏子が少し困ったように眉を下げた。

「で、でも、みんな無理はしないでよ。わたし、無理は続かないと思ってるんだよ」


その発言に、あかねが呆れたように息を吐く。

「ほー。わたし、杏子は無理が趣味なんだと思ってたよ」

茶化すような口調だが、その瞳には敬意が滲む。

「動作自体はゆっくりだけど、杏子ほど練習してるやつ絶対いないぞ。誰か止めないと永遠にやるやん。体力だけの問題じゃないよな。普通なら、どっか痛くなったり、精神的に参ったりしてくるもん。あんたみたいに弓引いてたら」


「杏子の姿勢の美しさって、そこが原点じゃないかって思う」

栞代が真剣な声音で継ぐ。

「できるだけ長く、一本でも多く、弓に触れていたい。だからこそ、身体に負担のかかる無駄な動きを削ぎ落としていく。……効率とか理論はきっと後からついてきたんだよ、ただ『好き』だからこその、究極の合理性っていうかさ」


全員、納得せざるをえない話だった。 杏子の弓は、努力の結晶というより、祖母を慕う気持ちの結晶なのだ。祖母に褒められたい。喜んでほしい。そんな幼い時の気持ちが、そのまま弓に宿っている。それを中田先生が丁寧に育み、祖母が支えている。

確かに環境に恵まれていたとはいえる。でも、その環境を引き寄せたのも、また杏子の力なのだ。


杏子の射には、まるで力みがない。ただ骨格と筋肉の理に叶った、水の流れのような自然さがあるだけだ。だからこそ、どれだけ引いても壊れない。


「あれ? 玉子焼き無くなってる」そう言いながら、さして残念でもない勢いで、残った唐揚げを飲み込み、マジメな空気を一変させるように真映が言った。 「力に頼らないで、弓を引かないと。……愛の力、ですかねえ」


「真映には、伸びしろ、しかないですね」

一華の声色が珍しく柔らかく響く。

……のかと思いきや。


「はい! 私、伸びしろがドラム缶三つ分くらいあるんで!」

真映が胸を張る。

(から)やけどな」

すかさず一華が突っ込む。

「一華ぁ……いや、そうです、空だから入れ放題!知識も技術も、愛も詰め放題!」

真映は負けてない。


どっと、笑いが走る。

花びらが震え、鳥たちが驚いて飛び立つほどの笑い声。

本当にこの弓道部は良く笑う。

笑う量に関しても日本一を狙えるかもな。拓哉コーチが満足そうに頷き、茶を啜る。


「よし、そろそろ帰るか。お茶、奢ってやる」

コーチの一声に歓声が上がり、一同は学校への帰路へつく。

一華のタブレットの中では、午後からの時間割がすでに組み換えられていた。 花見でリフレッシュした分、密度は濃く、ハードになるだろう。だが、誰の足取りも重くはない。


明日は始業式。

名実ともに杏子は高校三年生になる。

高校生活、最後の一年が始まる。


道場に戻り、練習が再開される。

じわじわと空気が引き締まる感覚。

弦音(つるね)が揃い、空気を震わせる共鳴。


“明日”は、未来にあるのではない。すでにここに来ている。

張り詰めた弦の感触、板の目の間、的紙の白、手の内の汗の温度。

春は外の景色にあるんじゃない。

杏子が放った矢が的を射抜く音を聞きながら、栞代は静かに弓を構えた。

最後の季節が、弦の響きと共に、今、幕を開ける。

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