第414話 『ルイボスティーと、継承される強さ』
「いやあ、ほんっとに楽しかったなあ」
栞代が食卓で杏子に話しかける。
「うん。真映が音頭取って、一年生のみんなが考えてくれたんだね。あっ、ソフィアと紬も美術部に繋げてくれたんだ。みんなすごいなあ。わたしなんにも知らなかった」」
杏子も、普段と違う一日を楽しんだようだ。
「まあ、杏子は完全に抜きで相談したからな。おじいちゃんをひっかけようってところがスタートだったからな。杏子は絶対におじいちゃんを助けると思ってさ」
「え? だって、ソフィアはエリックさんを試す側に居たじゃない」
「いや、ソフィアはユーモアが分かるからさ」
「えーっ。ひどーいっ。まるでわたしが分らないみたいじゃない」
頬を膨らませる杏子。
「分かる?」
「たって、ほんの数年前まではおじいちゃんをひっかけてたんだよっ」ドヤ顔で反論する杏子。
「靴隠したんだったっけ?」
「そうだよ」
ドヤ顔の杏子に笑いを堪えきれない栞代。
「えらい楽しそうじゃのう」
祖父が話に割って入る。
その後で、「今夜はルイボスティーにしましたよ。いつもより時間が遅いし」
そう言いながら、祖母はトレーに小箱を置く。中にはカカオ70%のチョコが、正方形のまま三枚と、祖父の分だけ二枚――「これで終われれば上出来よ」と祖母が祖父をちらりと見る。
食事のあとに必ずある、いつもながらの風景。簡単に一日の出来事を報告し、笑いに変える。今日は報告の必要は無かったが。
「おばあちゃんいつもありがとう」杏子が優しく微笑む。
「わたしがやるのに」
「食後のおやつを用意するの、結構楽しいのよ」祖母が笑う。
杏子が「いただきます」と軽く頭を下げ、栞代も続く。ふたりの前に置かれたチョコの角が、指先の体温でゆっくり鈍っていく。
「もう三年生やな。早いなあ。勉強に弓道に、悔いのないようにな」祖父がチェコを口に運びながら言った。
「家事の手伝いはほどほどにして勉強の時間に当てた方がいいんじゃないか?」
「おじいちゃんが頑張って手伝うから?」
栞代がきちんと突っ込む。祖父はそんな栞代を見て
「男子厨房に入らず、じゃ」
「それ、わざと誤用してるだろ」
そんなやりとりに祖母が割ってはいる。
「栞代ちゃん、少し意味はかすってるのよ。だって、おじいちゃん、お魚触れないもんね」
「う、ぬぬ。そやけど、肉は切れるで」
祖父は図星を突かれたのか、バツが悪そうだ。
必要以上に追いこまないように、それでもほんのりとしてやったりの表情を見せる祖母。
(正しい元義は『孟子』の
「君子遠庖厨(くんし は ほうちゅう を とおざく)」。
意味は 「立派な人(君子)は、屠殺・調理の“殺生の場”から距離を置く」 という倫理・情の話で、
“男は台所に入るな”という性別役割の教えではない。
正:残酷な場面に自ら近づかない、権力者は“血の匂い”から距離を取るべき…の比喩。
誤:家事は女性の仕事だから男は台所に立つな、の意味づけ。)
祖母のこんなときの表情は、ほんとに杏子にそっくりだ。ちょっとしたイタズラが成功した時と同じ顔。
そんなことをぼんやり思いながら、栞代は黙って、チョコを一片、指で立たせてから倒す。薄い破片が舌の上で溶け、香りがルイボスの甘さに重なる。
杏子は残りのチョコを舌に預ける。甘さは節度を守り、歯の奥に静かに沁みる。
「二人とも、歯を磨いてから、上がりなさい」
祖母が二人を促す。そして、
「おじいちゃんも、二つ目のチョコ終わったら、ちゃんと磨くんやで」
もうすっかりいつもの優しい表情に戻ってる。
祖父が一瞬むせて、三人が同時に吹き出す。笑いの余韻がほどけ、湯気がそれに呼応するみたいにゆらいだ。
「そのままでいいからね」祖母はそう言ったが、杏子と栞代は、湯飲みを台所の流し台に置いて洗面所に向った。
食卓には祖父母が残った。台所の灯りは一段落ち、音が薄くなる。祖母がルイボスティーのおかわりを入れようとすると、祖父は棚の奥から、ふだん使いの小さなカップを出した。わずかに口縁が歪んで、指に触れるところだけ釉薬が薄い。祖母が若いころに自分で焼いたものだ。
「どんだけ立派な器でも、これには敵わんなあ」
「なにか欲しいものでもあるの?」
祖父が褒めると、自動的に祖母は警戒モードに入るらしい。
歯磨きを終えて戻ろうとした杏子と栞代が、食卓の開き戸の外で目を合わせる。
ふと耳に入った二人の会話。
このまま上にいこっ。
二人は目で会話を交わし、戸を開けるのをやめて、階段に向った。
二人、目が合う。
杏子が、にこっと笑う。
栞代も、にこっと笑い返す。
廊下の先、部屋の扉が二つ、同じ音で閉じた。家は静けさを受け取り、夜を深くしていく。食卓のテーブルでは、歪みのあるカップが湯気を細く立て、祖父が口に口に運び、それを穏やかに祖母が見つめていた。
家の重心がほんの少し、二人の中心と重なった。




