第41話 合宿所での練習開始
朝日が差し込む道場。清々しい空気の中、光田高校弓道部のメンバーが整列していた。普段より少し硬い雰囲気が漂うのは、夏合宿の練習が始まった初日だからだ。道場の正面には、インターハイに出場する国広花音、奈流芳瑠月らが凛と立ち、後方には新入部員たちが期待と緊張を胸に控えていた。
「今年はインターハイ組を中心に、全員でレベルアップを目指します。この合宿をその足掛かりとします。」
顧問の滝本先生が静かに言った。。
拓哉コーチの横には、見慣れない顔ぶれが並ぶ。
「では、合宿の体制について説明します」
コーチの声が、静かな道場に響く。
「まず、特別コーチとして、私の大学時代の同級生である稲垣勝行先生と神矢正広先生。そして滝本先生の弓道仲間の水上恵子先生、白石未唯先生をお招きしています」
四名のコーチが、順に一礼する。その佇まいからも、長年弓道に携わってきた風格が感じられた。いずれも実力派として名を馳せた経験者たちであり、そのオーラだけで緊張が高まる。
「みなさんが力を貸してくださいます。しっかり学んでいきましょう。」
滝本先生の言葉に続き、拓哉コーチの説明が続く。
「練習は、インターハイ出場組と、それ以外のメンバーで分かれて行います」
言葉通り、国広花音、咲宮さくら、榊原夏美、西門理子、堂本海の三年生、そして奈流芳瑠月、小鳥遊つぐみの七名が、一歩前に出る。彼女たちは特別メニューで、より多くの矢数をこなすことになる。
「それ以外は、基本的には、午前は基礎と体力作り。午後は射込練習が中心です。今年もこの合宿から一年生にも的前に立ってもらいます。始めが肝心なので、緊張感を持って取り組むように」
「男子は滝本先生が、女子は私が担当します。四名の特別コーチには、男女二名ずつペアを組んでいただき、日替わりで男女の練習を補佐していただきます」
マネージャーの雲雨まゆも熱心にスケジュールを確認しながら、特にインターハイ組のデータ管理に余念がない。矢数、的中率など細かく記録し、練習内容に反映させるという。
男子部員たちも、普段は目立たないながら、確かな存在感を放っている。滝本先生の指導の下、着実に力をつけてきた証だった。
「それでは、始めましょう」
拓哉コーチの声を合図に、部員たちが動き出す。インターハイ組は既に独特の緊張感を漂わせていた。特に花音は、部長として、より一層引き締まった表情を見せている。
走り込みが始まると、道場の周囲には部員たちの足音が響き渡った。息を切らしながらも、全員が真剣だ。紬とあかねは時折顔を見合わせ、互いを励まし合いながら走る。杏子も少し汗ばんだ顔で息を整え、自然な笑顔を浮かべていた。
つぐみの横顔には、全国の舞台への強い決意が刻まれていた。そして瑠月は、いつもの落ち着きを保ちながら、準備に取り掛かる。
杏子は、先輩たちの姿を静かに見つめていた。自分は出場できないインターハイ。しかし、この合宿でもう一度初めから、丁寧に弓道に取り組みたい。その意欲はだれにも負けなかった。
夏の日差しがまぶしく差し込む道場で、杏子たちの基礎練習が始まった。拓哉コーチは、特にフォームの基礎を重視していた。
「足踏みから、ゆっくりと」
水上恵子コーチの静かな声に合わせ、杏子は基本の動作を繰り返す。おばあちゃんから教わった射形を思い出しながら、一つ一つの動きを丁寧に確認していく。
「杏子さんのフォームは、本当に美しいわね」
白石コーチが感心したように見つめる。しかし、杏子自身は周囲の評価に気を取られることなく、ただ動作の正確さだけを追い求めていた。
栞代、紬、あかねも、それぞれのコーチについて基礎練習に励む。特に足踏みの練習は、弓を引く以前の大切な基礎として、何度も繰り返された。
「栞代さん、肩の力を抜いて」
「紬さん、もう少しゆっくりと」
「あかねさん、呼吸を整えて」
コーチたちの的確な指導が、次々と飛ぶ。
午前の後半は巻藁練習。杏子は、これまでの経験を活かしながら、弓を引く感覚を確認していく。その姿は、まるで水面に映る月のように、静かで美しかった。
拓哉コーチが満足げに頷く。
「栞代さん、その感覚!」
神矢コーチも声をかける。栞代の動きには、何か特別な才能を感じさせるものがあった。
紬は黙々と、無駄のない動きで練習を重ねる。あかねは時折苦戦しながらも、持ち前の明るさで周囲を和ませていた。
「杏子さん、少し来てくれるかな?」
拓哉コーチが呼ぶ。
「一年生たちに、君の射形を見せてあげてほしい」
杏子は静かに頷き、巻藁の前に立つ。その一連の動作は、まるで舞のように美しく、見る者の心を奪った。
「あんな風に引けるようになりたいな」
栞代が小さくつぶやく。紬とあかねも、無言で頷いた。
今さらながらその美しさに感心していた。
あかねが真剣な顔で呟く。「どれだけ努力したら、ああなれるんだろうね。」
昼食の時間が近づいても、誰一人として辞めようとしない。それぞれが、これから始まる午後の実践に向けて、期待と緊張を胸に秘めていた。
「午前の練習は、ここまで」
拓哉コーチの声に、全員が正座する。
「午後は、いよいよ実際の射込み練習だ」
その言葉に、一年生たちの背筋が、より一層伸びた。
道場には、新たな挑戦への期待と緊張が、静かに満ちていった。
昼食休憩を終え、午後の練習が始まろうとしていた。一年生たちの目は、これから初めて放つ矢への期待と不安で揺れている。
「では、記念すべき最初の一矢は、一人ずつ射ってもらいます」
拓哉コーチの声に、道場全体が静まり返る。
「紬さんから始めましょうか」
紬は静かに立ち上がり、的前へ。これまでの練習で身につけた所作で、丁寧に弓を構える。震える手で、矢を引き絞る。放たれた矢は、惜しくも的を外れた。
「いい射形でした。初めてにしてはいいよ」水上コーチが優しく声をかける。紬は無表情のまま、深々と一礼して戻る。
次はあかね。いつもの明るい性格からは想像できないほど真剣な面持ちで、的前に向かう。彼女の矢も的を捉えることはできなかったが、その射形は基礎練習の成果を感じさせるものだった。悔しそうな彼女に
「大丈夫だよ。最初はみんなそうよ。」
とコーチが声をかける。あかねはその言葉に力づけられたように笑顔を見せる。
「栞代さん、次はあなたよ」
栞代が的前に立つ。杏子は、いつもの栞代の明るさが、緊張で硬くなっているのを感じた。しかしながらも、堂々とした動きだった。中学の時、違うスポーツとはいえ、全国の舞台を経験しているだけはあった。。弓を構えた瞬間、その表情が変わる。放たれた矢が的に吸い込まれる。
一瞬の静寂の後、的中を告げる音が響いた。
「よし!」
道場がどよめく。
「す、すごい!」
杏子が思わず声を上げた。普段の穏やかさを忘れ、両手を振り上げて駆け寄る。
「栞代、すごいよ!さすが!」
栞代は、自分でも信じられないという表情で、的を見つめている。
「あ、ありがとう...」
照れくさそうに頭を掻く栞代に、杏子は満面の笑みを向けた。
拓哉コーチは、この予想外の展開に満足げな表情を浮かべている。そして、臨時コーチたちも、栞代の才能を見出したように、互いに目配せを交わしていた。
「よし、では各コーチについて、本格的な練習を始めましょう」
それぞれが担当のコーチと組んで、練習が再開される。栞代の的中は、他の一年生たちの心にも、新たな可能性の光を灯したようだった。
杏子は自分の練習に戻りながらも、時折栞代の方を見やっては、嬉しそうに微笑んでいた。その表情には、親しい友の成長を心から喜ぶ純粋な気持ちが溢れていた。
栞代の予想外の的中から、午後の練習は活気を帯びていた。各コーチがつきっきりで指導する中、一年生たちは真剣な面持ちで矢を放ち続ける。
栞代も、最初の的中以降は中てることができずにいたが、その表情には焦りの色は見えない。むしろ、初めての的中の感覚を大切に思い出しながら、一射一射を丁寧に重ねていく。
「あかねさん、その角度のままで」
白石コーチが、あかねの射形を細かく修正していく。
「肩の力を抜いて...そう、その感じ」
夕暮れが近づく頃、あかねの放った矢が的を捉えた。
「あたった!」
あかねの弾けるような声が道場に響く。思わず跳び上がって喜ぶ彼女に、周囲から温かな拍手が送られる。
「おめでとう!」
杏子が駆け寄り、あかねと抱き合う。
「見てた?杏子、見てた?」
「うん、完璧な射形だったよ」
その喜びが覚めやらぬうちに、道場の反対側から小さな歓声が上がる。
紬が、初めての的中を決めていた。
いつもの無表情は崩さないものの、その目には確かな喜びの光が宿っている。神矢コーチが静かに頷き、「素晴らしい射でした」と告げる。
「紬!」
栞代が駆け寄ろうとするが、紬は小さく手を上げて制する。
「まだ練習中です」
その言葉に、道場全体が笑みに包まれた。
拓哉コーチは、一年生それぞれの成長を見つめながら、特別コーチたちと言葉を交わす。
「みなさんの指導のおかげです」
「いえ」神矢コーチが首を振る。「彼女たちには確かな素質がある。特に...」
その視線は、静かに練習を続ける杏子に向けられる。
「杏子さんの存在が、良い影響を与えているのでしょう」
白石コーチも同意するように頷く。
「正しい射形の美しさを、自然と教えてくれていますね」
日が傾きはじめ、外の蝉の声が弱まってきた頃、この日の練習が終わりを告げる。一年生たちの表情には、達成感と共に、まだ見ぬ高みへの期待が浮かんでいた。
杏子は道場を見渡しながら、静かに微笑む。今日という日が、みんなの心に特別な一日として刻まれることを、確かに感じていた。
夕暮れ時の道場で、杏子たちは片付けを終えていた。栞代とあかねは、今日一日の興奮が冷めやらぬ様子で、的前の掃除をしながら話し込んでいる。
「杏子、ちょっといい?」
栞代が声をかける。
「どうしたの?」
「今日のさ、的に当たった時の感覚が忘れられないんだ」栞代の目が輝いている。「めちゃくちゃ気持ちよかった。でも、そのあと全然当たらなくて」
「私も!」あかねが掃除用具を持ったまま割り込んでくる「当たった時はすっごく嬉しかったけど、その分、外すのが怖くなっちゃって」
杏子は二人の言葉に、静かに頷く。
「それでさ」栞代が続ける。「杏子の凄さが、本当によく分かった。的中のことなんて考えずに、ただ正しい姿勢だけを考えるなんて。今まで簡単に言ってたけど、実際に矢を放ってみて、その難しさが分かったよ」
「私もそう!」あかねが熱心に同意する。「当たる喜びを知っちゃうと、そこから逃れるのってすっごく難しい。杏子は、どうやってそんな風に...」
「まあ、大好きなおばあちゃんの教えだってのは分かるけどさ」栞代が続けた。杏子は優しく微笑む。「うん。その通りなんだけど。でも、今日の二人の射は、本当に素晴らしかったよ」
栞代はふと思い出したように、道場の隅で黙々と弓具の手入れをしている紬に声をかける。
「なあ紬、紬はどう思う?的中の感覚とか」
紬は手を止め、いつもの無表情で振り返る。
「それは、わたしの課題です」
一瞬の静寂の後、道場に笑い声が響き渡る。
「もう、紬ってば!」あかねが吹き出す。
「相変わらずだなー」栞代も目を細める。
杏子は、この仲間たちと過ごす時間の大切さを、しみじみと感じていた。窓の外では、夏の夕暮れが静かに深まっていく。
道場を後にする頃、杏子は振り返って仲間たちの姿を目に焼き付けた。弓道への思いを共有し、仲間たちと一緒に成長できる喜びが胸を満たしていた。
明日からも続く合宿。それぞれの胸に、新たな目標が芽生えた一日だった。