第409話 『嘘の器が繋いだ、本物たちの茶会』
エイプリルフールは、ほんとうに楽しくて、素敵で、そして祖父の完璧で見事な一言によって幕を閉じた。
その後祖父はすぐに、今回の橋渡し役となったソフィアと紬を通して、美術部へ正式な「招待状」を届けた。
「ぜひ一度ゆっくりとお礼を言わせてほしい」
「あの素晴らしい器を作った皆さんの話を聞きたい」
そんな心のこもった手書きの言葉に背中を押され、休日の午後、美術室は小さな出発準備でわいわいと沸き立っていた。
『杏子の祖父邸にて ~紅茶会・解説つき~』
杏子の家の和室。その床の間の前にしつらえられた座卓の上。
そこには大倉陶園が誇る「ブルーローズ」の高貴なティーセットが静かに置かれている。そしてそのすぐ横に、あの日の主役であった「紙の湯呑み」が一つ並べられていた。
祖父はまるで茶道のお点前でも披露するかのように、静かな動きで道具を並べていく。
その一連の流れるような所作。美術部員たちは息を呑んだ。久遠寺柚子葉が思わず小さく「あ……」と息を漏らす。
ダメだ。こうして本物と並べられてしまうと、違いがはっきりと分かってしまう……!
美術部部長の月見里透花は、その紙製の湯呑みのハイライト(光が一番強く当たって見える部分)をそっと指先でなぞった。
「……最初は絶対に無理だと思いました。でも、だからこそやってみたいとも。……やっぱり通じませんでしたね、ごまかしは」
「いやいや」
祖父は首を横に振った。
「たまたまじゃ、たまたま。それとわしが見抜けたのは、器が全て素晴らしすぎたからじゃ。一つだけを選ぶことができなかったのが、逆にきっかけになった」
「……?」
「あえて一つだけに全力を注ぎ、ほかはわざと分かりやすいニセモノに見せるという方法もあったはず。じゃが、みんなは、あえてそれをしなかった。全ての作品に同じだけの情熱を注いだ。……振り返ると実に潔いやり方じゃ。わしはそこに感服したんじゃよ」
その思いがけない言葉。美術部のメンバーは全員「あっ」と声を揃えた。
レジン担当の四十万ねむが「……いえその戦略は全然思い浮かびませんでした」と呟き、ギミック担当の石動るなも「……完全に戦略ミスです」とおどける。
「いやいや。その真っ直ぐさこそが、何よりの財産じゃよ。みなさんの目的が、騙すことではなく、本物を創ることだったからじゃ」
祖父は目を細めた。
「戦略なんぞ後からいくらでも身につけられる。なんなら一華くんに頼ればええ。綿密な性格分析による戦略を考えてくれるぞ。そいえば、なんで今回はそれをしなかったんじゃ? この技術力に一華くんの戦略が加われば、わしなんか、赤子だっただろうに。だが、その手から生み出される技術は特別じゃ。本物じゃ。それを信じた。自分たちの技術を信じ切った。……本当に清々しい」
場は穏やかな空気に包まれ、製作の話を祖父は興味深そうに聞いていた。匂坂澪は釉薬の色温度について熱心に語り、物集いとはあの「世界二位」のラベルに込めた冗談を語る。祖父はその一つひとつの言葉をまるで目で聴くかのように深く深く頷いていた。
九谷焼と和菓子
そしてお礼の第一弾は、祖母からの和菓子だった。
祖母が奥の座敷からそっと取り出してきたのは美しい九谷焼の銘々皿。
深い深い緑の地に鮮やかな金彩で吉祥文様が描かれている。石川県の伝統工芸である九谷焼は「五彩」と呼ばれる鮮やかな色彩で有名だが、この皿はその中でも特に気品高い深緑を基調としていた。
一枚一枚が手作業で絵付けされており、同じ文様でありながら、それぞれに微妙な表情の違いがある。
「これはわたくしたちの結婚記念日に父が贈ってくれたものなの」
祖母が静かに微笑む。
「大切なお客様にしかお出ししない、お気に入りのお皿なの」
その言葉に一同はそっと背筋を正した。
祖母の手が一枚ずつ丁寧に皿を配る。光を受けて金彩が控えめに輝く。
そこに置かれたのは、杏子の祖母の手作りの練り切り。
桜の形に仕上げられた薄紅色の和菓子が、深緑の皿の上で春を告げている。
美しい桜の形に仕上げられた淡い薄紅色の和菓子が、まるで冬の大地から芽吹いたかのように鮮やかな春を告げていた。
「……きれい……」
透花が思わず息を呑む。
和菓子のその淡い色彩と、九谷焼のその深い色彩。その完璧なコントラストが互いを引き立て合い、まるで一枚の絵画のような調和を生み出している。
「このお皿に相応しいお菓子を作りたい。それがわたしの目標なのよ。いつも、まだまだって思うんだけど。恥ずかしいわ」
「そ、そんなことないよ」
その謙虚な言葉に杏子が慌てて割って入った。
「高級なお店のお菓子にも絶対に負けないくらい美味しいんだよっ! いや、おばあちゃんのが世界で一番美味しいんだからっ! 引き立てられてるのはお皿の方なんだよっ!」
祖母を庇おうと、必死になって顔を真っ赤にしている。
なるほど。これが噂のおばあちゃんLoveな弓道部の部長さんね。
月見里は心の中で微笑んだ。
低迷していた弓道部を、いきなり全国レベルに引き上げたかと思えば、あの鳳城高校をあと一歩まで追い詰めた風雲児さん。紬が夢中になって、ソフィアをフィンランドから引き寄せたっていうあの……。
幼稚園児の宇宙人さん?……『謙遜』って言葉は宇宙にないのかな?
透花は、そして美術部のメンバーたちは、今初めて杏子の本当の姿を見られた気がして、なんだかとても嬉しかった。
「……あっ。でも、ほんとうに……美味しい」
柚子葉が思わず声を上げた。
「……ええ。お互いがお互いを見事に引き立てあっていますね」
透花は優しくそう微笑んだ。
そしてその和菓子に完璧に寄り添うように出されていた緑茶も終わり。いよいよ杏子の祖父にとってのメインイベントの時間がやってきた。
「では皆さんに、わしからの特別な一杯をお淹れしましょう」
祖父が立ち上がり奥の棚から一つの小さな銀色の缶を取り出した。
「これはダージリンのファーストフラッシュ。春の一番摘みです」
缶が開けられたその瞬間。部屋中に若々しくそして芳醇な香りが広がった。
「『紅茶のシャンパン』とも呼ばれる最高級品。インドのダージリン地方で春に芽吹いた新芽だけを手で摘んで作られる。一年でこの僅かな時期にしか採れない貴重なものです」
祖父のその手つきはどこまでも丁寧でそして確かだった。
沸騰直前95度の湯。
温められたティーポット。
正確に計量された茶葉がポットに落ちる。
そこへ静かに湯が注がれる。茶葉が湯の中でゆっくりと開き踊り出すジャンピング。
「蒸らし時間は三分。ファーストフラッシュは繊細ですから。これ以上は渋みが出てしまう」
祖父は砂時計を静かに傾けた。
三分間。
誰も言葉を発しない。ただかぐわしい香りだけがその空間を満たしていく。
砂が落ちきったその瞬間。
大倉陶園のブルーローズに注がれたその紅茶は薄い美しい金色に輝いていた。光を透かすとまるで宝石のように美しい。
「さあどうぞ」
一同がカップを手に取り香りを楽しんでからゆっくりと口に含む。
「……」
言葉が出ない。
フルーティーな香り。花のような繊細な味わい。そして後味にかすかに残る蜜のような甘み。
「そう。これが本物の紅茶です。ティーバッグとは全く別の飲み物と言っても過言ではない。良い茶葉を適切な温度の湯で正確な時間蒸らし、そして相応しい器で飲む。
そのすべてが揃って初めて、紅茶はその真価を発揮するのです」
祖父の言葉が静かにテーブルに響く。
「おじいさん」
美術部のメンバーがが深々と頭を下げた。
「素晴らしいお茶をありがとうございます」
一連の様子を見ながら、栞代は「ほんとはティーパックの紅茶も大好きで,いつも飲んでるんだよっ」と言いたかったが、ここはさすがに空気を読んだ。
最後に祖父が少し照れながら切り出した。
「……あのう一つお願いがあるんじゃが。……もしよければ、あのみんなの情熱を、一つ分けてはもらえぬか。……あのブルーローズの横に並べて飾りたいんじゃ。本物の嘘と本物を同じ棚にな」
透花はその言葉に顔を上げると最高の笑顔で深く頭を下げた。
「……もちろんです。喜んで。わたくしたちがあの器に投入した情熱もまた、どこにも負けない『本物』ですから」
春の午後。
柔らかな光が窓から差し込み紅茶の湯気を照らしている。
四月一日の嘘は真実へと変わり真実はまた新しい物語を紡ぎ始める。
大倉陶園のブルーローズと紙の湯呑み。その両方が並ぶ棚には本物と嘘の境界を越えた大事なものが宿っていた。




