第408話 『四月一日の狂詩曲(ラプソディ)~嘘と、真実と、紅茶の香り~』 その2
買い物隊が家を出たその直後──。
真映、楓、一華、つばめ。一年生カルテットがまるで息を合わせたかのように杏子宅に到着した。迎え入れる栞代。
四人の動きは軍隊のように正確だ。事前にイメージトレーニングを重ねた成果がここに出ている。
やがて祖父母と杏子が帰宅する。
祖母はもちろん「あらいらっしゃい」と当然の顔。祖父と杏子には、その思いがけない、来客に目を丸くして、それでも、すぐに歓迎した。
「……ああ。だからあんなにたくさんお買い物したんじゃな。確かにおはあちゃんには早めに言っておかないと、食べるもの無いからなあ」
祖父と杏子が同時に納得する。
杏子が、今日の道場でのエイプリルフール合戦の顛末を祖父に夢中になって語り始める。
その楽しそうな声を背中に聞きながら、台所では栞代たちによる今夜のメインイベント「芸術的詐術」の最終セッティングが静かに進められていた。
テーブルに並べられる4つの茶器。見事に「陶器にしか見えない」ように偽装された紙コップ。
当初の計画では、二つ本物を混ぜる予定だった。
だが、昨夜の最終会議で計画は変更された。全て紙コップにする。その方が誰も傷つかないという判断だ。正解がないから絶対に間違う。間違う可能性があるなら、絶対に間違える方が、笑いに繋がる。栞代のアイデアだった。正解を用意しない心配りだった。
一華は記録用に小型カメラを回し、楓とつばめがお茶を運ぶ動線を最終確認する。真映は司会席(?)で興奮を握りしめた。
真映だけには計画変更を伝えていない。彼女の「ガチの顔」が必要だったから。
真映が声を整えた。
「──ではご隠居。これより第一回『世界一のグランパはどっちだ!? 』を開催します!これは、ソフィアさんの祖父、エリックさんも今、同じチャンレンジをしています。どちらが先に正解するのでしょうか?」
顔がにやけきっている。
「おじいちゃん。紅茶の用意してくれる? 普段飲む用でいいよ」
栞代のその言葉に、祖父はまだ訳が分からぬまま、しかし嬉しそうに立ち上がり、手際よく紅茶を用意し始めた。
祖父の手つきは完璧だ。湯の温度、茶葉の量、蒸らし時間。全てが長年の経験に裏打ちされている。
栞代がその熱いポットを受け取り4つの器へと等しく注いでいく。
「おじいちゃん。いつも『紙コップで紅茶なんて飲めるか』って言ってるでしょ? ……じゃあこの4つのうちから本物の陶器で紅茶を飲んでみてよ。紙コップでは飲まないようにね……当ててみてよ」
「えー? 何これ?」
杏子が目を丸くする。
「部長。これが今日のエイプリルフールを締めるいたずらです」
楓が得意満面にそう言った。
「すごい……。全然分からない。どれも本物の陶器にしか見えない……」
杏子はその器の縁をそっと指で撫でた。
美術部の技術の結晶。数週間の努力の成果。それが今杏子の指先に触れている。
祖父は席につき、まず一つ目の器の香りを嗅ぐ。
ふふん。いつもこのおじいちゃんにはやられっぱなしだ。さって。お手並み拝見っと。
真映はにやりと笑う。
名高い光田高校美術部が、その全知全能を傾けて作り上げたこの完璧な「紙コップ」。……今日こそは少しやり返させてもらいますよ。
光田高校美術部は県内でも屈指の実力を誇る。全国高等学校総合文化祭には過去5年で3回出展。昨年度は芸術文化祭で最優秀賞を受賞し、地元の美術館では毎年卒業制作展が開催されている。
特に質感再現技術においては県内随一と評価され、今回の『陶器風紙コップ』制作も
その技術力の結晶だった。
そう思ったその瞬間。
祖父が静かに口を開いた。
「……ふむ。よくできておる。……だが残念じゃったな。これは全部紙コップじゃ」
「「「「…………えっ?」」」」
栞代、楓、一華、つばめ。仕掛け人全員の顔が凍りつく。
なぜ。どうして。完璧だったはずなのに。
「ご、ご隠居! わからないんですねっ! この中にはちゃんと本物が混ざってますよ!」
真映が「してやったり」の声でそう追撃したその時──。
他の仕掛け人たちの顔に、声にならない驚愕の表情が浮かんでいることに気がついた。
「え? な、な、なに? どういうことですか?」
真映が不安げに仲間たちを見る。
一華が申し訳なさそうに話し始めた。
「……真映。ごめんなさい。真映には言ってなかったんだけど……。昨夜、栞代先輩たちと相談して計画を変更したんです。……本物を混ぜない方が誰も傷つかないんじゃないかって。……だからそれ、全部紙コップです」
「ななな、なんでわたしにそれを先に言わなかったんだよぉぉぉ!」
「……ごめん。真映のあの迫真の『ガチの顔』がどうしても欲しかったから……」
楓、つばめ、一華、そして栞代までもが目で謝る。
が、全員それ以上に結果に驚いていた。
4つ全て紙コップ。それを祖父は見抜いた。
「……おじいちゃん。どうして分かったの?」
栞代は悔しそうに、しかし、どこか誇らしげにそう問うた。
「……うむ。見た目には、その重量感も、質感も、色も、紅茶を注いだ時の音も完璧じゃった。よくここまで工夫がしてある。……だからわしは手に取らなんだ」
「え?」
祖父は静かに微笑む。
「……光の縁の反射の仕方とテーブルに置いた時の『待ち』の無さじゃ。……ほんのわずかじゃが、本物の『土』が持つ気まぐれな癖がこれには出とらん。紙はどこまでも正直じゃが土は気まぐれでのう。……そこだけはどうにも化けんのじゃ」
祖父の言葉に全員が息を呑む。
光の反射。置いた時の「待ち」。それは物理的な重さや音では再現できない陶器の本質だった。
「……おじいちゃんっ! すごい! すごいよっ!」
杏子が本当に嬉しそうに祖父に駆け寄る。
「わたし、ぜんっぜん分かんなかったよお!」
杏子の笑顔が全てを物語っている。祖父への尊敬、祖父の慧眼への驚き。そしてこの時間の幸せ。
真映は握りしめていた拳を開くと、ふっと笑った。
負けた。でもなんてきれいに負けたんだろう。
完璧な敗北。それは完璧な成功と同義だった。
一華はすでにカメラを止めタブレットに「祖父:縁光/置き音/『待ち』の有無」と猛烈な勢いでメモを取っている。
データは裏切らない。この失敗から学ぶことは無限にある。
「……作戦成功」
栞代がしゃんと立ち上がりそう宣言した。
「過程はまるで想定とちがったけど、結論は変わらなかった」
台所から祖母が顔を出す。
「じゃあ、これで。みんなで頂きましょう」
その時祖母が食器棚の最上段から静かに何かを取り出し始めた。
一客また一客。
テーブルに並べられていくそれは、祖母が大切に守り続けてきた大倉陶園のブルーローズだった。
「……おばあちゃん、それ!」
杏子が息を呑む。
透き通るような白磁。その表面にしなやかに伸びる蔓と生命力溢れる青い薔薇。1928年のデザイン誕生から90年以上愛され続けてきた大倉陶園の代名詞。
「岡染め」と呼ばれる独自の技法で生み出される深い紺青は「オークラブルー」と称され世界中の目利きたちを魅了してきた。1460度の高温で焼成することで絵具が釉薬の中に沈み込み独特の深みを生む。その表面は艶やかで滑らか。指で撫でても絵付けの凹凸は感じられない。
自然に青いバラを咲かせることは不可能だと言われていた時代。その奇跡をデザインに変えたのがこの「ブルーローズ」だった。
「あら。今日はこんなに素敵なお客様がいらしてるんですもの。これくらいしないとね」
祖母は微笑みながら人数分、全てをテーブルに並べ終えた。
カップが並ぶ。ソーサーが光を反射する。
白磁の白さと紺青の深さ。その対比が部屋全体を格調高い空間に変えていく。
「……すごい。」
栞代が小さく呟いた。これほど完璧に保存された揃いは稀だ。通常なら長い年月の間に一客二客と欠けていくものだ。
祖父がポットを手に取りそれぞれのカップへと紅茶を注いでいく。
琥珀色の液体がオークラホワイトの白磁を照らす。青い薔薇が紅茶の湯気の中で揺れているように見える。
「……さあどうぞ。本物の陶器で淹れた紅茶というのはこういうものだよ」
祖父の声には誇りと愛情が込められている。
一同はそれぞれのカップを手に取った。
重さがある。しかし持ちやすい。取っ手の曲線が手に馴染む。カップの縁に唇を当てる。滑らかな質感。紅茶の香りが立ち上る。
「……美味しい」
杏子が最初に声を上げた。
「……うん。すごく美味しい」
真映も頷く。
同じ紅茶のはずなのに。香りの広がり方も口当たりも余韻も全てが違う。
「器が変わると紅茶も変わる。それが本当の意味でのティータイムなんだよ」
祖父が静かに言った。
「君たちが作った紙コップはとても良くできていた。でも本物にはやはり本物の理由がある。それは重さでも音でもなく……」
祖父はカップを光にかざした。
「……この白磁に宿る時間と職人の魂だ」
ブルーローズが光を受けて輝く。90年以上前から愛され続けてきたデザイン。無数の人々の手を経て磨かれてきた技術。それが今この瞬間ここにある。
一華がタブレットをそっと閉じた。データでは測れない何かがここにはある。
「ご隠居。素晴らしいお茶会をありがとうございます」
真映が深々と頭を下げた。
全員がそれに続く。
春の夜。大倉陶園ブルーローズが囲むテーブル。嘘と真実が入り交じったこの日の最後に、本物だけが持つ重みと美しさが静かに輝いていた。
「わしの紅茶は世界一だからな」
祖父がそう笑い皆がそれに続いた。
笑い声が部屋に響く。ほんとうは、紙コップも陶器も関係ない。大切なのは、一緒に笑えること。




