第406話 四月馬鹿(エイプリルフール)前日譚~カルテットの密議~ その4
安全規定は厳格に定められた。
ニスは食品衛生法適合のものを使用し完全乾燥させる。口に直接触れるのは内側の透明なインナーカップだけ。重さは決して無理をしない。床は絶対に濡らさない。飲み物は火傷を避けるため常温に近いものから試す。万が一破損した際の撤収動線は二本確保する。
そしてそれぞれの祖母には許可は取得済み。(ただし「ちょっとお茶目で楽しいお茶会をします」と内容は最大限にぼかしてある)。
「……いいか。これは『可愛い嘘』から一歩も出ない。このラインから少しでも逸脱したらその場で即中止だ」
栞代のその低い声に全員がこくりと頷く。
ここは彼女の領域だ。弓道でも遊びでも最後の超えてはならない一線を引くのはいつだって栞代の役目だ。彼女の目は真剣だ。遊びだからこそ安全に。楽しさだからこそ誠実に。その信念が全員に伝わる。
美術部の部員たちは、ちょうど三年生の卒業製作への協力が終わり、ぽっかりと時間が空いていたのも幸いした。彼女たちはこの奇妙な挑戦に全面的に協力してくれた。
卒業製作で培った技術を、遊び心のある企画に注ぎ込む。それは彼女たちにとって最高の息抜きでもあり、新たな挑戦でもあった。
それからの数週間。
美術室は彼女たちの静かな熱気に包まれていた。刷毛の乾いた音だけが時刻を刻む時計のようだった。
放課後の美術室は独特の静寂に満ちる。誰も喋らない。だが全員が同じ目標に向かって動いている。その一体感が空気を震わせる。
透花は空気の匂いを嗅ぎ分けるかのように、ふっと顔を上げ一瞬の迷いもなくカップの縁にハイライトを一本引いた。
嘘の光は真実の光よりも慎ましくなければいけない。強く、しかしどこまでも馴染んでいること。
透花の筆先が止まる瞬間、空気が凍る。そして筆が離れた瞬間世界が動き出す。その一瞬の緊張感が作品に宿る。
るなはカップの底に薄い鉛のテープを寸分違わず巻き付け音響ワッシャーを仕込む。
コトンと机に置いた時だけ人間の耳が「ああこれは陶器だ」と信じ込んでしまう、あの細く硬い音を鳴らすため。
何度も試作を重ねる。紙コップを置く。陶器を置く。音を録音し比較する。わずかな響きの違いがリアリティを生む。
ねむはレジンを極限まで薄く引き伸ばしヘアドライヤーの温風を遠くから当てる。
表面に細かな細かなひび模様──貫入──がうっすらと生まれそして決して消えない本物の「景色」になる。
ねむの手は魔法使いのようだ。透明な液体が熱によって変化し陶器の歴史が刻まれていく。数百年の時間を数分で再現する技術。
完成手前の紙コップを見て「……いけるね」と紬がぽつりと言った。
ソフィアが親指を立てる。
"Grandpa Eric will fall for it. And he'll laugh first."
(グランパ・エリックはこれに確実に引っかかる。……そしてきっといちばんに笑い出すのも彼だわ)
ソフィアの英語が美術室に響く。その言葉には祖父への愛情と確信が込められている。
当日の段取りは何度となく確認された。
A卓(杏子宅)には、真映、つばめ、楓、一華、そして栞代。
B卓(エリック宅)には、あかね、まゆ、紬、ソフィア。
ルールはシンプル。紅茶あるいはコーヒーは同じ銘柄同じ温度で淹れる。前もって本人に淹れてもらい、ポットに入れておくよう、祖母への依頼も完璧。
器はランダムに配膳。音、重さ、口当たり、香り──五感の全てを使って見抜いてもOK。
そして罰ゲーム。これは後日開催。
勝者が敗者に最高のおもてなしをする。
敗者にはあの
"World's Second-Best Grandpa"
マグが贈呈される。
杏子部長には「おばあちゃんに『緊急の買い物』で連れ出してもらう。二人が戻ってくるそのタイミングで開戦する」。
栞代の段取りはいつだって最短距離を通る。無駄な動きは一切ない。
「……たぶん杏子はおじいちゃんの応援に回るだろうな。あいつの目の前でこの『可愛い嘘』を完璧に完成させること。それが今日のわたしたちの本当の勝負だ」
栞代の言葉に全員が頷く。杏子を笑顔にすること。それが全ての目的だ。
四月一日が徐々に近づいてくる。
嘘はどこまでも可愛く丁寧に、そして誠実に仕込まれていった。
彼らの前に置かれる茶器は紙でできている。いくつかは本物の土でできている。
けれど、どちらも人の手で持てる確かな重さがあり、どちらも人の笑い声を支える十分な強さがある。
美術部の作業台には完成した偽装カップが並んでいる。陶器と紙コップ。その境界線が曖昧になった奇跡の作品たち。
その頃杏子は祖父の隣で湯気の立つポットを見ていた。
「おじいちゃん今日はなんの記念の紅茶?」
「うむ。いよいよ四月じゃ。ぱみゅ子も高校三年生。それを記念して特別にとっておきをな」
杏子の前に置かれたのは、普段滅多に出てこない、祖母が若い頃に手作りしたというあの特別なカップ。形はすこし歪だが、それがいい。
温かみのある白色。手に馴染む重さ。縁の金彩が柔らかく光を反射する。
「……うん。美味しい。おじいちゃんの淹れてくれた紅茶を、おばあちゃんの作ったカップで飲む。……本当に最高だねっ」
杏子の笑顔が祖父の心を満たす。
「そうじゃろ、そうじゃろ。わしの紅茶をこれほどまでに引き立ててくれる相棒は他にはおらん。紅茶もこうして相応しい相棒に恵まれて、初めてその真価を発揮するのじゃ」
祖父の声には誇りと愛情が満ちている。紅茶への情熱。器への敬意。そして孫への想い。
杏子はそのカップの縁を愛おしそうに指でなぞる。
その横で同じように特製のカップで紅茶を飲んでいた栞代は、そのやり取りを聞きながら心の中で一人呟いていた。
こりゃヤバいな。おじいちゃん意外と陶器にも慣れてるぞ。
飲めば当然ばれるだろし、こりゃ見るだけで判断してもらうことにするかな。
月見里 、頼むぞっ。
栞代の予感は的中していた。祖父の目も舌も鋭い。だからこそこの挑戦は面白い。
春の夜風が窓を撫でていく。明日はエイプリルフール。嘘と真実が入り交じる一日が始まる。




