第402話 第二幕
朝の弓道場。
ぼんやりと全員が揃い始めたその時。
分かりやすく真映の目がきらきらと輝いているのを、誰もが「またイランこと考えてるな」と察したそのタイミングで。
拓哉コーチが道場に入ってきた。
「今日から四月だな。新しい学年も始まる。そして自分がこの光田高校にコーチとして来てから丁度三年が終わったことになる」
いつもの通り淡々と彼は話し始めた。
「そこでだ。顧問の滝本先生とも相談したんだが。少し体制を変えようと思う。……今日から滝本顧問が女子の担当になる」
「「「「「…………えっ?」」」」」
驚きの声が道場に響く。
「コ、コーチ! そ、それってどういう……! わ、わたしたちのこと、見捨てるんですか!?」
真映が悲鳴に近い声を上げた。
「そんなことあるはずないだろ。すぐ隣の男子の方にはいるんだから。何かあればいつでも話は聞ける。滝本顧問は実績も経験も俺より遥かに上だ。必ず君たちの実力をさらに伸ばしてくれる」
そう一方的に言うと、拓哉コーチはさっさと男子部員たちの方へと向かってしまった。
「そ、そんな……! わたし、コーチがイケメンだからこの弓道部を選んだのに……!」
真映がその場に崩れ落ちる。
「……おい。お前そんな不純な理由だったのか?」
栞代が呆れてツッコむ。
「あ、いや、そ、その! それだけじゃないですけど! でも大きい理由だったのは確かです! ……だって、楓だって最初はそうだったんですよっ!」
突然話を振られた楓。全員の視線が彼女に注がれる。
「い、いやっ、それは、もう、完全に若気の至りでしたっ! 今はもう、完全に杏子部長一筋ですっ! 信じてください、ぶちょおおおおおっ!」
……もう、どこからが本当で、何が嘘なのか、まるで分からない。
杏子が、自分にすがりついてきた楓の頭を、優しく、よしよしと撫でていると、そこへ噂の滝本顧問がやってきた。
満面の笑み。
(((……出た。これが噂の『閻魔の笑顔』……!)))
女子部員全員の緊張が高まる。
「はーい、皆さん、おはようございます。まあ、練習は今まで通りのメニューで進めてくださいね」
準備運動、基礎体力トレーニングを終える。
部員たちは、いつもとは明らかに違う緊張した面持ちで矢を番えた。いつもなら射場全体を見渡せる、あの定位置から「能面軍曹」こと拓哉コーチの、クールな視線が飛んでくる。それはそれで厳しい。だがもうすっかり慣れた緊張感だった。
だが今日は違う。
「笑顔の閻魔」こと滝本顧問は、ニコニコと両手を後ろで組みながら、射位のすぐ後ろをゆっくりと歩いている。
しかしその目が一切笑っていない。
「うん、いい姿勢だねぇ、真映さん」
背中にその柔らかな声がかかった瞬間。真映の肩がビクッと大きく震えた。
「でも、今の引分け。ちょっと力んでなかったかなぁ? もっと肩の力すーっと抜けるはずよねぇ?」
「は、は、はひっ!」
指摘は的確だ。だが拓哉コーチの淡々とした厳しさとは全く異質。ジワジワと内側からプレッシャーをかけられるような息苦しさがある。
やがて滝本顧問は杏子の後ろでぴたりと足を止めた。
杏子の矢が寸分の狂いもなく的の中心を射抜く。
「……すごいねぇ杏子さん」
「でもねえ。弓道は一人でやるものじゃないでしょう? あんまり完璧に当てすぎると周りがプレッシャーに感じてしまって、かえってチーム全体の的中率が下がることもあるんじゃないかなぁ? たまには、わざと外してみたらどうかしら? 」
さすが中田先生直系の滝本先生。先生と同じようなこと言ってる。
杏子は思わず可笑しくなってしまった。
だが、杏子以外の部員たちはそれどころではない。
「うわ。笑顔なのに目が全然笑ってない……!」
「拓哉コーチと圧の種類が全然違う……!」
いつもとは違う緊張感で余計な汗をかいていた。
拓哉コーチの練習が、基礎体力とデータで外側からガチガチに固めていく厳しさだとしたら、滝本顧問の練習は、笑顔と優しい問いかけで内面をじわじわと揺さぶってくる「無風の圧迫感」だった。
午前中の練習が終わり昼食タイム。
「「「お疲れ様でしたー……(ぐったり)」」」
部室に戻った女子部員たちは、椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。いつもとは全く違う精神的な疲労感。
「……滝本先生ヤバいな」
栞代がため息混じりにお茶を飲んだ。「拓哉コーチとは別種のヤバさだ」
「わ、わかります……!」
まゆがまだ緊張が取れない顔で頷く。「ずっとあの笑顔で見られてる方が、どこを直されるか分からなくて余計に緊張します……!」
杏子はすでに、もぐもぐと唐揚げを頬張りながらキョトンとしていた。「いつも通りでいいんだよ」
「「「あんたは特別!!!」」」
栞代とあかねの声がハモった。
「……でも新鮮だったな」と栞代。「メンタルのことも結構突いてきたし。拓哉コーチは割とその辺、深澤コーチに任せてるって感じだったけど。滝本顧問はやり方がやっぱり違うね」
「データ分析の観点からも非常に面白かったです」
一華がタブレットを見返しながら言う。「拓哉コーチはあくまで『個』の射型の完成度を重視しますけど。滝本先生は『団体としての流れ』とか『チーム全体の空気』を見ている感じがしました」
「……だけどやっぱりわたしは拓哉コーチがいいです……!」
真映が半泣きになっている。
「滝本顧問がイヤってわけじゃないんですけど……!」
「はいはい。滝本顧問は女性でイケメンじゃないからなあ」
あかねがツッコむと真映はさらに声を上げた。
「い、いや! それだけじゃなくて! なんていうかこう、やっぱり空気が合わないっていうか……!」
その言葉に皆が顔を見合わせる。
「……まあ確かにな」
栞代は少し考えると杏子に声をかけた。「なあ杏子。ちょっとコーチのところに話聞きに行かないか? どうもしっくりとこない。担当変わるにしても」
誰もが、まさか、これが拓哉コーチと滝本顧問が仕掛けたエイプリルフールのネタだとは。この時の彼女たちはまだ知る由もなかったのである。




