第401話 4月01日
四月一日。
新しい年度の始まりを告げる朝。まだ空の色はうっすらと白んでおり冬の気配がその冷たさの中にしぶとく残っている。道の端には、つぼみを固く閉じた桜が列をなし、息を吐くたび白い欠片のようなものが口の前でふわりと生まれては消えた。
杏子は祖父と栞代と共に、いつもの朝の散歩道を歩いていた。だが今日の祖父はどこか様子がおかしい。歩くそのテンポもいつもより重たいように感じる。鼻歌も出ない。
「おじいちゃん、どうかしたの? もしかしてどこか調子でも悪いの?」
朝の清浄な光を身体に浴びながら、杏子が少し心配そうに尋ねた。祖父はわざとらしく大きく肩を回してみせる。
「あ、いや、全然問題なしじゃ。元気元気」
そう応える祖父。その横から栞代が杏子に声をかけた。
「オレには分かる。どうせまた何か詰まらない、くだらないウソでもついてやろうと、一人で手ぐすね引いてんだろ?」
「ウソ?」
「だって今日は四月一日。エイプリルフールだからさ」
「あ、そっかあ」
祖父のどこか身体が重たそうに見えた動きの鈍さは、体調不良ではなく、ただひたすらに「どんな面白いウソをついてやろうか」と考えあぐねていた、その副産物だったのだ。元気がないどころか、むしろ有り余るほど元気いっぱいということだ。
「もうおじいちゃん、ほんと変わらないんだから」
杏子がくすくすと笑いながら応える。
「いいや、わしはそんなこと、ちっとも考えとらんよ!」
「ウソつけ」
栞代が即座に被せ、三人の間に小さな笑いの渦ができる。
「まあいいや。今日一日はおじいちゃんの言うことは、一切信用しないって決めたからな」
呆れたような、冷たいような、馬鹿にしたような、それでいてどこまでも温かさが滲むその複雑な表情で、栞代は祖父をちらりと睨む。祖父は「ふん」と鼻を鳴らし、桜並木の先にある神社の鳥居に向かって、子どもみたいに二歩だけ駆け足をしてから何事もなかったかのように歩幅を戻した。
栞代にそう釘を刺されてしまったからか、それからの祖父は、いつもとまるで変わらぬ態度で朝食を摂り、そして練習へと出掛けていく杏子と栞代を見送った。
「うむ〜。せっかくぱみゅ子に楽しいウソをついて笑わせる、年に一度の日じゃったのに。栞代のガードは固そうじゃのう……」
台所で洗い物をしていた祖母が、楽しそうに、にやにやしている。「杏子を頼むって栞代ちゃんにお願いしたのは、どこのどなたでしたかしら。おじいちゃんも例外じゃなかったっていうだけ。むしろ喜ぶべきところじゃない?」
学校に向う道中では、空はもう薄水色になりかけていた。遠くで、通学の自転車のベルが短く鳴る。
「なあ杏子。おじいちゃんって、昔からずっとああだったの?」
道場へと向かう道すがら栞代が尋ねた。二人の吐く白い息が、交互にほどけ、朝日で金色を帯びた。
「うん。そうだよ。わたしもちっちゃい時は、おじいちゃんにいっぱいウソついたなあ」
「へえっ意外。杏子がウソねえ。……どんなウソついてたん?」
「うーん。『おじいちゃんが楽しみにしてた一番高いお菓子、食べちゃったよ』とか、『おじいちゃんの大事にしてる靴が家出したよ』って言って、靴箱のいちばん奥に隠したりとか」
栞代は、あっはっはっと腹を抱えて大笑いした。
「な、な、なんだよぅ」
「い、いや……。強烈なウソ付いてたんだなあって思って」
「うん。でしょ?」
言葉を額面通りにしか受け取らない杏子。
そのまっすぐさは、朝の光と同じだ。それが杏子の魅力なのだが、これで、文面から心情を解釈する必要がある現代文の成績は学年トップクラスなんだから、ほんと世の中って不思議だよな、と栞代は思う。ふと、商店街の角で焼き立てパンの匂いが鼻をくすぐった。四角い窓の奥で、湯気がひと筋、天井に消える。
「じゃあ逆におじいちゃんはどんなウソついてたん?」と尋ねた。
「うーんいろいろあったけど。印象深かったのは」
杏子は懐かしそうに目を細めた。「チョコレートを『半分こしよう』って言って、半分おじいちゃんが食べるでしょ。そしたら、また残った半分を見て『これも半分こしよう』って言うの。わたしが『いいよ』って言うと、そのまた半分をおじいちゃんが半分にしようって。…そしたら、どんどん小さくなるじゃない? そのうち無くなっちゃって。わたし『わたしの分が無くなっちゃった』って大泣きしたの。そしたら、おじいちゃん『半分はどこまで行っても半分だから、ぱみゅ子の分は絶対に無くなってない。どこかにあるはずじゃ。探してごらん』って。……わたしが泣きながら探したら、おじいちゃんが隠してた、最初の何倍も大きいチョコレートを渡してくれたの」
「……それ何歳の時の話?」
「うーん。忘れちゃったけど。まだ小学生の低学年の頃だったと思う」
「……またちっちゃい子相手に、小難しい哲学みたいなこと言って、丸め込んでるなあ。あのおじいちゃんは。ったく」
杏子はくすっと笑った。「あ、そういえば、『なぜ矢は的に届くのか』って、同じ理屈で“半分、半分”をずっと繰り返したら、いつまでも的に届かないって言い出したこともあったよ」
「ゼノン出してくる小学生の祖父、怖いわ」栞代が肩をすくめる。「で、杏子は?」
「高校生になって、微積分で無限級数の和を勉強した時に、これも解けたと考えられてるって。ゼノンは“言葉の理屈”で無限を扱っていたから。数学は“数”として無限列の極限(limit)を定義して、話をきちんと片付けたって教えてもらったよ」
「それおじいちゃんから?」
「うん」
「何年後に回収してんねん」
二人が笑い合うすぐ脇を、ランドセルの列が通り過ぎた。「おはようございます」と透き通る声が続き、杏子も栞代も会釈で返す。小さな足音が遠ざかる方向には、道場の屋根が朝日に薄く光っていた。境内の鈴の音が一度だけ鳴り、風が榊の葉を裏返す。まだ冷たい空気の層の下で、土の匂いが確かに春へと向かっている。
信号が青に変わる。踏切の向こうで、各駅停車が短いブレーキ音を残して止まった。車内から誰かが欠伸をする気配がして、窓ガラスに薄い手のひらが一瞬映った。ふたりは歩調を合わせ、今日という日の輪郭が少しずつ固まっていくのを、同じ気持ちで感じていた。
道場の前に着くと、薄い雲の切れ間から差し込む光が、砂利に細かな銀色の粒をつくっていた。入口の戸は半分だけ開いている。いつもの匂いが冷えた空気に混じって、迎えるように漂ってくる。
「さ、いこっか」杏子が言う。
二人は顔を見合わせて笑った。扉をくぐる直前、杏子は振り返って空を一度だけ見上げる。つぼみの列、その上を渡る光。たしかに春は浅く、けれども、ここから先に続いていく。
このあと起きることが、ウソであれ本当であれ、一本の矢のように正しく前へ飛んでいきますように——そんな願いを、誰にも聞こえない声で、杏子は胸の奥で結んだ。




