第387話 卒弓鍋 ~始まりの宴~ 後半
杏子の家のリビングは、鍋の湯気と少女たちの熱気でむせ返るようだった。
壁に飾られた沢山の思い出の写真たちに見守られながら、尽きることのない思い出話に花が咲いていた。
杏子が自己紹介でいきなり「全国で金メダルを」と宣言した時のこと。当時の三年生に嘲笑され、次の日に絡まれ、初めてみんなの前で弓を引くことになった、あの衝撃的なできごと。
「……あれさあ、わたしの弓、貸したんだよねえ」
冴子が照れくさそうに笑う。「杏子とわたし、背格好も体格もほとんど一緒だったからさあ。……でも、道具は全く同じはずなのに。なんで、こんなに違うだろうって。あの後、実は一人でこっそり落ち込んだんだよ」
「い、いえっ! あれは、冴子部長の道具が素晴らしかったからです!」
杏子が慌ててそう付け加える。
「全く物おじしないって、今や真映の専売特許だけど、つぐみもそうだったなあ」
強気一辺倒で、一年生で入部してすぐに、冴子と共にダブルエンジンのように部を引っ張ってくれた、つぐみのこと。
秋には、瑠月、つぐみ、そして杏子。三人で組んだチームで、王者・鳳城高校に、練習試合とはいえ勝利した、あの日のこと。
「……あん時、つぐみ、大泣きしてたなあ。……本当に嬉しそうだった。中学の時、相当悔しかったんだな」
冴子がぽつりとそう呟いた。
「鳳城のあの不動監督が、試合の後、真っ青な顔してましたよね」
あかねが楽しそうに付け加えた。
「……でも、不動監督が本当に立派だなって思ったのはさ」と沙月。「あの敗戦から短い時間の中で、きっちりとチームを立て直してきたことだよな。麗霞はさておき、主将の圓城、完全に目の色変わってたもんな」
その沙月の言葉に、誰もがつぐみのあの突然の引っ越しのことを思い出す。
「でも、まあ、そのつぐみの引っ越しのおかげ(?)で、一年生全員で学校さぼって、テーマパーク行ったんだよなあ!」
冴子がわざと明るい声で言った。「杏子を元気づけようとして! ……あれ、後で学校にバレて、結構大騒ぎになったよなあ。なんせ、率先して連れて行ったのが、杏子のおじいちゃんだったしさ!」
その破天荒なエピソードに、どっと笑いが起こる。
「あの時、大変だったでしょう、滝本先生」
滝本顧問は黙って頷く。学年トップクラスの瑠月を始め、当時の二年生は全員成績優秀、一年生も、まゆが学年トップクラス。そういったことが有利に働いたのは否めない。
「……だからさ」と沙月が、冴子と目を合わせて笑った。「今、真映が一人で暴走してるって思われてるけど。その暴走の土壌は、そもそもこの弓道部には脈々と受け継がれてたってことだな」
その名指しされた真映は、真映で。
「そんな伝説があったんですねえ、親分! ……ああ、その当時、このわたしが居合わせてさえいれば! 秘伝『一糸纏わぬすっぴん踊り』で、親分のその沈んだ心を、一瞬で元気づけて差し上げられましたのにねえ……!」
と、心底残念そうに呟く。
「……お前は、杏子を殺す気かっ!」
あかねのツッコミが炸裂し、笑い声が響く。
杏子は、そんないつもの、たわいないやり取りを笑いながら聞きつつ、そっとつばめの様子を見ていた。彼女は少しだけ寂しそうに俯いて、姉の話を聞いている。
そうだよね。本当は姉妹で同じ道場で一緒に弓を引きたかったよね。
つぐみの分も、わたしがちゃんとつばめの力になってあげなくちゃ。
杏子は改めてそう強く思った。
硬派な弓の話題から、話はいつしか、夏の合宿での肝試し、バーベキュー、部内試合での珍プレー好プレー、そして果ては拓哉コーチへの日頃の鬱憤大会へとその様相を変え、カオスは混乱を極め、ただひたすらに笑い声だけが大きくなっていった。
鍋の第二ターン。そして「締め」の投入だ。
うどん玉が白い艶やかな線を描きながら、それぞれの鍋を満たしていく。雑炊用の冷や飯が残った出汁をたっぷりと吸い込み、撹拌される。溶き卵がふわふわの黄金色の雲となり、最後に刻み葱が「よし、これでおしまい」の合図みたいに、ぱらぱらと散らされた。
そして──ここでようやく、祖父の出番がやってきた。
「よし! 諸君! 勝利と感謝と未来への祝杯じゃ! 一服差し上げよう!」
先ほど一度は取り出しかけて、祖母にそっと戻された"秘蔵のアンティークカップ"たちが、今度こそ正々堂々とテーブルの上に並べられていく。
「ええか! 紙コップごときで、わしのこの至高の紅茶の味は分からんのやで!」
その偏屈丸出しの、しかし嬉しそうな声。
湯気をそっと吸い込む。
紅茶のその芳醇な香りは、なぜだろう。不思議と、弓の弦を張った時のあの独特の匂いを少しだけ思い出させた。乾いた物と熱い物とが触れ合う時の、あの独特の音と温度。
「……美味しい」
誰からともなく感嘆の声が漏れる。
「おじいちゃん、これ、また新しく開発したの?」
「そや! 今日のこの日のために! 冴子さん、沙月さん、瑠月さんの三人の輝かしい未来のために! 特別限定ブレンド『飲めば二十点アップ効果』の紅茶を開発したんじゃ!」
「……おじいちゃん。入試はもう終わってるんやで」
栞代のツッコミ。いつものやり取り。全員が笑顔になる。
集合写真と、壁に飾られたフォトギャラリーの前でのチェキ撮影タイム。
壁際のあの寄せ書き用の的紙。そのど真ん中には、卒業生三人の名前とそれぞれのイメージカラーの矢痕シール。そしてその周りを埋め尽くすように、在校生たちのたくさんのサインとメッセージ。
冴子、沙月、瑠月。その三つの名前が、その中央で静かに、しかし何よりも強く光っている。
小さなバースデーケーキに立てられた「3→2→1」の数字の形をしたプチキャンドルに火が灯された。声を出さずに目と目で合図し合い、カウントダウン。ふっと灯りが消えたその瞬間。大きな、大きな拍手を送った。
後片付けは早い。驚くほど早い。
「はい、ゴミの分別! 燃えるゴミはこっち! プラスチック類はそっち!」
「テーブル、床、拭き上げ、よし!」
「火元確認! カセットボンベの予備、元の場所に戻します!」
栞代の完璧なチェックリストに合わせて、たくさんの手がまるで一つの生き物のように、流れるように動いていく。
拓哉コーチが腕を組んでその様子を見ていたが、最後に呟いた。
「……道場の普段の整理整頓にも、そのやる気と連携があったらなあ。時間は半分で済むのにな」
その指摘に、全員が一斉に床に視線を落とし、そして笑った。滝本顧問は何も言わずに、テーブルの隅に残っていた拭き残しを無言でさっと一拭きした。
時計の針が少しだけ重く見える時間。
でも、玄関の扉を開けた時、外から吹き込んできた風は、もう確かに「春」の匂いを含んでいた。
外に出ると、国道沿いの夜の街は意外なほどに明るかった。
「並ぼう」
誰かのその声で、自然に玄関の前に一列ができた。卒業生三人が前に立つ。
全員で深く一礼。
その角度の寸分の狂いない揃い方だけで、彼女たちが共に過ごしてきた三年間という時間の重みが見えた。
「「「ありがとうございました!!」」」
何度も何度も頭を下げる。
卒業生に、祖父が言った。
「ええか。これでおしまいなんかやない。みんなとはこれから、形が変わるだけで、道は繋がっとるんやからな」
その言葉に、三人は涙をこらえながら強く頷いた。
それぞれに最後の挨拶を重ね、靴音がばらけて夜の通りへと散っていく。
門のところで、杏子がふと自分の家を、そして玄関の灯りを振り返った。
「卒業しちゃったんだ……」
呟きというには大きくて、叫びというには静かだった。
それに、横から栞代がまるで息を合わせるように答えた。
「……瑠月さん、来週からまた勉強見に来るって言ってたろ。それにもうすぐ新入生も入ってくる。……また忙しくなるな、部長」
杏子はその言葉にふっと笑った。涙で少しだけ視界が霞んで、そのせいで目の前の世界がいつもより柔らかく見えた。
「……うん」
その短い、短い言葉の中に、幾つもの過ぎ去った夜と、これから来るであろう幾つもの朝と、そして彼女がこれから放っていくであろう幾つもの矢の全てが含まれていた。
背後で、祖父が戸棚から出した大切なカップを丁寧に洗う水音がする。
祖母の「あら、珍しい。そんなに大事なカップだったのねえ」という声が廊下越しにこぼれてくる。
光田高校の次の試合は、地区で行われる男女ペアでの親善試合。
去年はおじいちゃんが、頑として杏子の出場に大反対していたけど。
今年こそはどうかなあ。……まあ、どうせきっとまた同じように大反対するんだろうな。
栞代は少しだけ呆れながら、隣に立つ親友の横顔を見る。
どんだけ箱入り娘なんだよ、こいつは。
でも、改めて思うと。自分もまた、その頑丈な「箱」を誰よりも必死で守っている。栞代はその事実に気づき、夜空に向かって静かに笑った。




