第386話 卒弓鍋~始まりの宴~
卒業記念試合のあの熱い拍手の余韻が、道場の梁にかすかに残っている。後片付けが一段落し、道場の床に残っていたたくさんの足跡が、ようやく静けさへと還っていった。
ちょうどその頃だった。
弓道部の公式グループLINEに、短い心を躍らせる案内が走った。公式、とはつまり、拓哉コーチも顧問の滝本先生も入っているグループのことだ。
『18時、予定通り、親分宅にて集合。鍋。以上』
──差出人は、もちろん真映だった。
『……お前ら、今日はもう休めと言っただろ』
拓哉コーチからの返信は、呆れ半分、そして笑い半分。だが、常々練習しかしようとしない部員たちに、もっと遊べと言っているコーチは頰を弛めた。
『お酒は残念ながらありませんが。コーチも、ぜひご参加お願いします』
続けざまに、栞代からの丁寧な、しかし有無を言わせぬ追い打ち。
滝本顧問には、なぜかすでに直接連絡済みだった。『了解』とだけ返信があった。男子部員の面倒を見るのが彼女の担当ではある。だが、部全体の統括を担当している彼女にとって、「締め」の宴に無関係でいられるはずがなかった。
夕景が、ゆっくりと夜の帳へと切り替わっていく。
杏子の家の玄関の引き戸が勢いよく開かれ、祖父と祖母が満面の笑みで並んで立っていた。
「おかえり! みんな、よう来てくれたなあ!」
祖父が嬉しそうに迎える。
「スリッパはこっちに並べてね。ささ、手を拭いていってちょうだい」
祖母が熱いおしぼりを、一人ひとりの掌にそっと乗せていく。その細やかな心遣いが既に温かい。
家の中は、すぐに活気に満ちていく。
一華が短い号令でリビングの家具を動かし、即席の宴会場のレイアウトを決めていく。カセットコンロがコの字に三台配置される。
「基本的な導線は、ここを確保します。火元から半径三十センチ以内には、絶対に可燃物を置かないでください!」
栞代が白いガムテープを取り出し、床にくっきりと「火の用心・境界線」を引いていく。
「はい、鍋は三種類ね! 定番の寄せ鍋と、女子に人気の白菜と豚バラのミルフィーユ鍋、それから身体があったまるキムチ鍋! 今からだしパック入れるよ!」
あかねがキッチンを完全に仕切り、紬とソフィアがその指示に従って、野菜を崩れないように美しく大皿に盛り付けていく。
和室側の壁には、「祝・卒業!」と書かれた手作りのガーランド。そこには、チェキで撮ったたくさんの写真が小さな洗濯バサミで止められている。さらにその隣には、一華が撮った高画質の印刷写真や、杏子の祖父が古いデジカメで撮った、画素数の粗い写真までが、時系列も何もかもごちゃ混ぜになって並んでいる。年季の違う写真の粒子が一つの壁に混在して収まっている。それを見ているだけで、胸の温度がじんわりと上がってくるようだった。
「荷物は二階の物置へどうぞ。通路の右側ね。トイレはその手前。……あ、それから、杏子の部屋と栞代ちゃんの部屋とおじいちゃんの書斎は立ち入り禁止ですからね」
祖母が笑いながら指差す。それぞれの部屋の扉には、「施錠済」という赤い文字の貼り紙。分かりやすい。
午後五時半。玄関前には受付用の小さな机が設置され、その上に小袋がいくつか並べられた。
「会費は、卒業生はもちろん無料です。もし余剰が出た場合は、そのまま部費に回させていただきますね」
会計係のまゆが小さな声で、しかし丁寧にそう説明する。その横には、支払い用のQRコードもそっと立てかけられていた。
「よし。安全第一、青春第二、写真撮影は第三目標! これで完璧やな!」
栞代が最終確認をして、火元の近くに濡れタオル、消火スプレー、そしてカセットボンベの予備を所定の位置に置いた。
午後六時、ぴたり。
「──では、皆さま、ご唱和ください!」
真映が胸いっぱいに空気を吸い込み、まるでスポットライトを浴びているかのように、マイクのないマイクを握りしめた。
「これより、『卒弓鍋』、開宴いたします! 泣くなら最初に! 最後は必ず笑顔で締めくくりましょう!」
紙コップにオレンジジュースが注がれていく。
「「「かんぱーい!」」」
ジュースの入った紙コップがあちこちで軽くぶつかり合い、三つの鍋が同時にぐつぐつと沸き始めた。鰹出汁の芳醇な湯気。白菜の甘い匂い。春菊の少しだけ青い香り。そして誰かの弾けるような笑い声と、誰かの安堵のため息の余韻。
杏子は、やはり輪の真ん中にはいない。彼女の定位置はいつも"ちょっと端っこ"。真ん中が苦手だからだが、全体の空気が一番よく見える、ともいえる。
鍋、第一ターン。
寄せ鍋のふわふわの鶏つみれが湯気と共にふわりと浮き上がり、ミルフィーユ鍋の白菜が美しい飴色に透けてくる。キムチ鍋は、ニラの香りがまさにピークを迎え、その食欲をそそる辛さの奥で、確かな甘みが顔を出した。
「取り皿、回しますね」
紬が静かに声を落とす。ソフィアは"いただきます"をまずフィンランド語で恭しく言ってから、例によって自分でそれを英語に訳し、そして最後に日本語へと戻す。
"Kiitos ruoasta… Thank you for the food… いただきます"
その丁寧すぎる言葉の三段活用に、真映が早速「ソフィア先輩! 長いです!」とツッコミを入れ、つばめが笑い、楓は"鍋奉行心得"と書かれた手作りの札を首から下げて、すっくと立ち上がった。
壁際に寄せられた使い古しの的紙に、黒のマジックで参加者たちのサインが増えていく。日付、『卒弓記念』。滝本顧問の書く文字は相変わらず端正で、その余白の使い方に一切の隙がない。
「はい、皆さん、写真撮りますよー!」
一華が声をかけると、すぐに誰かが誰かの背中を押し、あっという間に集合写真のための空間が開いた。
フラッシュ。たくさんの笑顔。立ち上る鍋の湯気。
この夜は、聞こえてくる全ての音が、どこまでも柔らかかった。
午後六時四十五分。栞代がパンパンと手を叩き、ミニスピーチの時間の始まりを告げた。
「えー、これより卒業生の先輩方から、有り難いお言葉を頂戴します。持ち時間は一人一分厳守。もしはみ出したら、真映がその肩を優しく(?)叩きます」
最初に立ったのは沙月だった。
「……えっと。弓道ってすごく地味でしょ? 正確さっていうのは結局、退屈なことの積み重ねでしかない。でも、その退屈な練習を毎日毎日続けられたみんなのことを、わたしは心から誇りに思います」
言葉は短かった。けれど、部屋の温度が確かに一段上がったのが分かった。
次に冴子。
「困ったら部長を見て。悩んだら部長に聞いて。……これから杏子の集大成が始まる。……みんな、頼んだぞ」
その声にはわずかに震えが混じっていた。去年の高校総体。もしあの時、杏子が加わっていたら。そうずっと思っていた。だが、杏子を擁した選抜大会でも、鳳城には届かない現実も突き付けられた。当たり前だが、団体戦は杏子一人じゃ勝てない。
わたしたちではできなかった。だが、みんなならできる。
鳳城との距離を埋めてくれ。
そして最後に瑠月が立った。
「……十人の話を同時に聞けるのが聖徳太子だとしたら。十人の射手の姿勢を同時に完璧にチェックできるのが──杏子ちゃん」
その的確な例えに、どっと笑いが弾けた。
「……だから、みんな、安心して頼ってね」
杏子が顔を真っ赤にして俯く。
「そういえば、昔、つぐみが杏子のチェックは『ピクセル単位』って言ってたなあ」
栞代がその言葉で、さらに場を盛り上げる。




