第383話 卒業試合 その3
大きな拍手に送られ、冴子、瑠月、沙月の三人が、誇らしげに、どこか名残惜しそうに、射位から退場していった。
七中。
それはブランクを感じさせない見事な数字だ。そして現役生たちにとっては、いきなり目の前に突きつけられた、高く、そして美しい壁だった。
次は、杏子、真映、まゆのチームだ。
このチーム編成が決まるまでには、実は、杏子と一華の間で珍しく激しい意見の対立があった。
卒業生チームに、一つでも確実に勝てるように組み合わせるべきだ。
一華はそう主張した。全てのチームで勝ちに行く、という杏子の理想論は美しい。だが、データ上、それは極めて難しい。下手をすれば、全チームがあの避けるべき「罰ゲーム」の対象になりかねない。それよりは、一つでも勝てる可能性が高い組み合わせを作るべきだ、と。
杏子には伝えなかったが、一チームでも勝てば、それを強行に主張し、負けたチームが受けるべき罰ゲームをうやむやにする自信が一華にはあった。どんな屁理屈でも練り上げて、部長を守ってみせる。だが、一チームも勝てなかったら、もう言い訳のしようもない。
二人の意見が異なるのは、これが初めてではない。けれど、いつもはお互いが穏やかに歩み寄り、その互いの距離をまゆと栞代がそっと調整する。それが今までのパターンだった。
だが、今回は、二人とも一歩も譲ろうとしなかったのだ。
一華の主張は合理的だった。だが、杏子がここまで自分の意見を押し通そうとすることは、極めて珍しい。
どこまでも平行線。最後は栞代が、「……一華。気持ちは分かる。だが、この部のリーダーであり、最終的な責任者は部長の杏子だ。ここは、部長の決断を支えよう」と割って入り、ようやく一華は矛を収めた。その時、「……分かりました。では、勝手にやってください」と、珍しく感情的な捨て台詞を吐いていたが。
だが、いざ本当に組み合わせと射順を決めようとすると、一華はさらに詳細なデータを抽出し、全力で杏子の意向を支えた。練習時の的中率、試合形式でのプレッシャー下での的中率の変動、天候や時間帯による影響、そしてメンバー同士の相性。ありとあらゆる膨大なデータを瞬時に提示し、杏子が望む「全チーム勝利」という結果に最も近づけるための、最適な組み合わせを冷静に導き出そうとしていた。
そもそも、一華があれほどまでに強硬に杏子の案に反対したのも、杏子のチームを勝たせたい「花を持たせたい」という、彼女なりの不器用な優しさが無かったとは言えない。杏子が引くチームに、最も勝率の高いメンバーを集めれば、卒業生チームに勝てるという確信があった。
しかし、最も一華を強く動かしていたのは、杏子を守りたい、という意識だった。杏子部長の主張するメンバーで挑んだ場合、杏子のチームが最下位になる可能性がある。そして、どのチームも勝てる保障はない。一つも勝てないかも。それが弓道だ。
そうなると、最悪の場合、罰ゲームは杏子部長とまゆさんが試合をするかもしれない。もちろん、分け隔てなく部長は部員全員に接している。だが、やはりまゆさんは特別な存在だ。どこまで杏子部長は杏子部長であり続けることができるのか。そんな負担を杏子部長に絶対に背負わせたくはない。
杏子はそれでも「勝利は、全員で掴み取らなければ意味がない」と、頑として譲らなかった。それは”姿勢”の問題だったのだ。
最後まで一華は自分なりのやり方で、杏子を守ろうとしていた。それがわかっていたからこそ、本来、杏子へのどんな些細な否定的な言動にも敏感に反応するはずの栞代が、あの一華の捨て台詞を黙認したのだろう。
そうして決まった、この組み合わせ。
杏子組の射が始まろうとしていた。
抽選の結果とはいえ、杏子が現役生として一番最初に弓を引く。これもまた、彼女のその不思議なまでの引力が引き寄せた、運命なのかもしれない。
杏子はすっと的前に立った。
その瞬間。道場の空気が変わる。
まるで世界中の全ての視線を、今、この一点に集めるかのように。彼女はいつも通りの完璧な姿を、いつも通りに、そこに披露した。
放たれた矢は、吸い込まれるように的の中心へ。的中。
観客席から、大きな拍手と、ため息にも似た感嘆の声が漏れる。
大丈夫。いつも通りで、練習通りでいいんだよ。
その、声にならない声は、道場にいる弓道部の全員の胸に、確かに届いた。
その佇まい。その雰囲気。その圧倒的なまでの存在感。オーラという言葉では到底表現し尽くせない、何か。まさに、その場の空気を一瞬にして支配し、並ぶもののない絶対的な輝きを放っていた。風格とも貫禄とも違う。ただ、ひたすらに杏子という唯一無二の姿が、そこにはあった。
続く、真映。
彼女は完全に、杏子のその神々しいまでの空気に飲まれたかのようだった。いや、むしろその存在に導かれるように、彼女自身の持てる力の全てを出し切った完璧な姿で矢を放ち──的中。
そして三人目、まゆ。
栞代とあかねがその両脇に控え、介添えとして彼女を支える。
その射型の美しさは、まさに杏子の直系と言えるもの。椅子に座って弓を引く姿は、日本一の美しさといっても良かった。しかし、身体に障害を抱える彼女にとって、絶対的な筋力の不足という弱点は、あまりにも大きなハンデとなっていた。放たれた矢は、惜しくも的を逸れた。
二射目、三射目、そして四射目。
杏子は、寸分違わぬ、まるで正確にプログラムされた精密機械のように、全く同じ呼吸で、同じリズムで矢を放ち続ける。的中、的中、そして的中。
いとも当然のように、皆中とい結果を残す。
杏子 〇〇〇〇
真映 〇××
まゆ ×××
杏子チームのここまでの的中数は五本。卒業生チームの七中を超えることは、もう不可能になった。だが、同中に並ぶ可能性はまだ残されている。
そのためには、残る二人、真映とまゆの最後の四射目を、どちらも的中させることが絶対条件だった。
周りは、関係ない。自分のことだけ。いや、部長のオーラだけ頂く。最高の自分の姿を見せるんだ。
真映は一瞬目を閉じた。
親分。音、ちゃんと聞いててくださいよ。
杏子部長と同じチームで弓を引くこと。それは、真映にとっていつしか夢となっていた。その幸せを、今、確かに噛みしめている。もう二度とないかもしれないこの瞬間。絶対に後悔だけはしたくない。親分の指導通りに。練習してきた通りに。
そんな様々な想いが頭の中を駆け巡り──そして、全てを削ぎ落とした。
的を見る。ただ、それだけ。
弓を引く。ただ、練習通りに。それだけ。
矢は真っ直ぐに的へと向かう──。
カッ!
的中。
おやぶんっっ!
そして最後は、まゆ。
彼女は最後の一射だけはと、栞代とあかねに支えられ、椅子から立ち上がった。この方が、若干ではあるが力が入る。最後の力を振り絞る。
足が震える。けれど、心は揺るがない。
自分に与えられた、この身体で出せる全ての力を出し切れば、それでいい。もう、終わってしまった三射のことは終わったこと。
ここで的中しなければ、チームは負ける。その重い、重いプレッシャー。その中で、まゆは驚くほど落ち着いて弓を引いた。杏子が寄り添って築いてきた姿を、見せるんだ。
放たれた矢は、美しい軌跡を描き──。
トンッ。
的に確かに届いた。的中。
その瞬間、隣で支えていたあかねが、思わずまゆの身体を強く抱きしめていた。
割れんばかりの拍手が、まゆに降り注いだ。
結果、七射的中。卒業生組と同中。
観客席からの大きな拍手に送られ、三人は射位から退場した。控室となっている部室に戻った、その瞬間だった。
真映が杏子に飛びつき、大声で泣きじゃくった。
「お、お、おやぶ〜〜〜ん! おやぶ〜〜ん! や、やりましたっ! わたし、ちゃんと、やりましたっ!」
四射中、二射的中。それは彼女にとって、これ以上ない立派な成績だった。
「うん。すごかったよ、真映。本当に立派だった。すごい音してた」
杏子がその背中を優しくさする。そして二人は、まゆに向き直り、抱きしめた。あの最後の一射を心から讃えた。まゆの目も潤んでいた。
その様子を、少し離れたモニタースペースで見ていた一華は、そっと胸を撫で下ろしていた。
よかった。一番心配していたこのチームが、なんとか最高の結果を出してくれた。
真映やまゆさんを相手に、部長があの無限競射をする、という最悪の展開だけは、これでなんとか阻止できた。
杏子部長とまゆさんが戦う姿なんて見たくない。だからこそ、自分は最後までこのチーム編成に反対したのだ。
でも、ほんとうに、よかった。
まゆさんの力からいけば、四射のうち一射は、特別な結果じゃない。それだけの力はまゆさんにはある。だけど、まゆさんの、あの最後の一射。あのプレッシャーのなかでのあの一射。あれはわたしのデータ分析では辿り着ない場所だ。この弓道部全員の想いが後押しした結果だったに違いない。
部長、まゆさん。本当に、よかったですね。
冷静沈着、冷酷なまでの分析の言葉で人を刺す一華。まゆの通訳がなければ、死人が出るとまで部員たちに恐れられている、あの一華の目が、ほんの少し、潤んで霞んでいた。
さあ、次の二組なら、十分に七射的中は可能だ。いや、少しでも上振れすれば、卒業生チームに勝つこともできる
頑張って!
そう願いながら、一華はきっちりと今日の成績を、データに取り入れていた。




