第380話 集結する想い、始まりの矢
卒業式が終わった。万感の想いを込めた拍手の中、卒業生たちが静かに、そして誇らしげに体育館を後にしていく。
式典のあの張り詰めた空気から一転、それぞれのクラスの教室へと戻っての最後のホームルームは、別れを惜しむ涙と新しい門出を祝う笑い声とが入り混じっていた。
その頃、来賓や保護者の賑やかな列の中からそっと抜け出し、杏子は遥の肩に寄りかかるようにしながら体育館を後にしていた。まだ目元は赤く腫れている。
その少しだけ頼りなげな姿を見つけるや否や、出口で待ち構えていた真映の甲高い声が、春のまだ浅い空気を切り裂いた。
「親分っっ!!」
駆け寄ってきた真映は、今日という特別な日にふさわしい、これ以上ないほど深く、そして芝居がかったお辞儀を決めてみせる。
「遥姐さん! この度はうちの親分がひとかたならぬお世話になりましたっ! 杏子組、若衆筆頭、朔晦真映、またの名を"疾風の真映"でございますっ! このご恩義、わたくしめ真映、この身が朽ち果てようとも一生忘れまへんっ!」
「……おい、栞代。また変なのが出てきたぞ。ほれ」
遥は苦笑しながら親指で指し示す。そして杏子にも軽く肩をすくめて見せた。その表情はどこか名残惜しく、そして温かい。
「お預かりしとった大事な親分、確かにお連れしました。これにて守衛任務は完了です。後は頼んますわ」
「おい、遥! お前もかよ!」
栞代が笑いながらそうツッコミを入れながらも、遥に静かに頭を下げた。
「いや、でもほんと、楽しかったよ。いっぱい泣いてたかと思ったら、来賓の挨拶の時なんて、杏子、じゃないな、親分寝てたぜ。わたしも寝たかったよ」
栞代が杏子に目を向けると
「ね、寝てないよっ。注意深く聞こうと思って、目をつむっただけだもん」
とほっぺたを膨らませる。
栞代は、そんな杏子の頭をくしゃっとしながら遥に言った。
「……いや、ほんまにありがとうな、遥。杏子、ここ最近ずっと寝不足やったから」
「ね、寝てないってば!」
杏子はさらにぷくっとほっぺを膨らませ言い返す。
「ちゃんと式の間も聞こうと思って、ちょっとだけ目を閉じてただけだもん……」
繰り返す言い訳を聞きながら遥は、そんな杏子の頭をわしゃわしゃと優しく撫で、そして笑った。
「ははっ! 今度ラーメン奢ってくれよな、栞代! じゃ、わたしはテニス部の方に戻るから! ……あ、杏子、おじいちゃんのあの紅茶、マジで美味かったから! また絶対に飲みに行くって伝えといて!」
「うん! いつでもいいよ!」
今泣いた、の言葉通り、満面の笑顔で遥を見送る杏子だった。
遥が手を振って去っていく。その颯爽とした後ろ姿を見送りながら、弓道部の面々が杏子の周りに集まってくる。
「さあ、杏子。準備しよか。卒業試合」
あかねがそう言った。杏子はこくりと頷くと、弓道場の方を真っ直ぐに見つめた。
今日、この日のためにずっと練習してきた。冴子さんたちに恥ずかしい姿は見せられない。
弓道場の部室には、控えめながらも在校生たちの手による温かい飾り付けが施されていた。
的も新しいものに交換し、的紙も丁寧に張り替えられていた。床も丁寧に拭き清め、的中を確認するための板をセットアップする。在校生たちはその一つ一つの作業を、まるで神聖な儀式を執り行うかのように丁寧に、そして心を込めて整えていく。
華やかな花や紙テープこそない。けれどそれ以上に、たくさんのかけがえのない思い出が詰まったこの空間が、少しずつ特別な「卒業試合」の舞台へとその姿を変えていった。
試合の形式がさきほど、拓哉コーチから伝えられた。三人一組の団体戦。一人四射。一回勝負。的中数が並べば、各チームの代表者一名による競射で決着をつける。
そして──卒業生に負けたら待ち受ける、あのペナルティー。
「……うう。もしわたしたちのチームが負けたら、親分と勝つまで競射させられるって……。それ、どんな罰ゲームだよ……帰れねえよ」
真映が本気で青ざめてそうぼやく。いつもは笑う部員たちも、真剣に受け止めていた。
その時だった。道場の入り口に、まだどこか幼い空気を纏った二人の少女が、その保護者らしき人々と共に立っていた。
城塚あまつと、仙洞寺菓だった。
すぐに栞代がその対応に向かう。先日部内試合があることを知り、どうしても見学したい、ということだった。ついさきほど決まった開始時間まではまだ少し間がある。真映たち一年生カルテットに、栞代は、学食へ案内するように言った。若干の不安はあったが。
ところが──。その学食がとんでもない光景になっていた。
なんと、拓哉コーチの大学時代の同期である大和コーチ、深澤メンタルコーチ、稲垣アナリスト、草林コーチ、神矢リーダーが全員そこに集結していたのだ。さらに、顧問の滝本先生の古くからの友人たちである、水上、白石、榊原、徳永、江原といった、夏の合宿でお世話になった錚々たる指導者たちの顔まで見える。
そして極めつけは──。
「あ、花音先輩! 海先輩まで!」
前々部長の国広花音と、彼女と同学年だった堂本海の姿まであったのだ。
一年生はただただ驚いた。あまり馴染みがないが、すでに一種の伝説となっている。一華は慌てて杏子に連絡を入れる。聞いた杏子は、栞代と慌てて学食へと飛んでいく。
「花音さん! 海さん!」
杏子が小走りで駆け寄り、丁寧に頭を下げる。
「来てくださって本当にありがとうございますっ!」
花音は穏やかに微笑みながら杏子の肩をそっと叩いた。
「ふふっ。こんな面白そうな試合、絶対に見逃せないわ」
その隣で堂本海が目を細めて感慨深げに場を見渡す。
「……しかし、すごいな。わたしたちの時なんて、こんな豪快な卒業試合なかったなあ」
「ふふっ。寂しい?」
花音がそう問うと、海は豪快に笑った。
「いや。もしあったとしても、まるで勝負にはならんかっただろうしなあ。……それより何より、やっぱりこんなに弓道部がちゃんとしていて、杏子の力ってほんとにすごいって思うよ」
杏子は戸惑いながらも照れくさそうに頭をかいた。その時、まゆから連絡が入る。
『杏子、大変! 今、おばあちゃんとおじいちゃんが、中田先生を連れてこっちに来ちゃった!』
「うわっ……!」
杏子と栞代は、コーチ、そして後輩になるだろう二人とその家族への挨拶を慌てて済ませ、再び今来た道を駆け戻る。
弓道場の前には祖父と祖母、そしてその後ろに穏やかな笑みを浮かべた中田先生。三人が静かに立っていた。
「……これで役者が全員揃ったってわけだな……」
栞代がぽつりとそう呟いた。
祖母の前で園児に戻って嬉しそうにする杏子の顔。
今日はなかなか厳しい戦いになる。在校生は全組、卒業生チームに勝つべく配置したメンバーだから、栞代は杏子とは組まない。
だから、余計に祖母の存在は、杏子にとっては心強いだろう。
そう思った栞代は、慌てて、ま、祖父も居れば居るで居ないよりはな、といつもの癖で皮肉まじりに祖父のことも見た。
祖母が持ってきたおにぎりを、二年生が全員で少し摘む。
力を貰った気がする。
どの一射も取り戻すことはできない、唯一無二の一射だ。だが、こと今日の一射は、やはり特別なものになる。その一射は単なる「勝敗のため」のものではない。これまで繋いできた全ての想いと、そしてこれから繋いでいく全ての未来を結ぶ、そのための特別な矢、なのだ。
光田高校弓道部の卒業記念試合は、静かにその幕を上げようとしていた。




