第379話 卒業式の涙と、繋がれた手の温もり
栞代から、まるで大切な宝物を預かるかのように、杏子の手を文字通り手渡された遥。彼女は、その冷たくなってる手を優しく包み込みながら、体育館の指定された席へと、杏子を案内する。そして、その隣にそっと腰を下ろした。
修学旅行の時に見た、弓を引いてる姿もオーラもどこへやら。栞代と離された途端、杏子は、不安げにきょろきょろと落ち着きなく、視線を彷徨わせている。その姿は、まるで、母親とはぐれてしまった迷子の園児そのものだった。
遥は、思わず吹き出しそうになるのをぐっと堪え、杏子の手を、もう一度そっと握りしめた。
ほんまに、聞きしに勝る幼稚園児やん、これ。
「大丈夫、大丈夫やから。わたしがちゃんと隣におるからな」
そう耳元で囁くと、杏子のその小さな手に、ほんの少しだけ力が入ったような気がした。
やがて、司会の先生がマイクの前に立ち、厳かに開式の辞を告げる。
その第一声に、杏子の手が、ぴくっと小さく、反応した。
卒業生が拍手の中、一人また一人と入場してくる。その厳粛な、そして誇らしげな行進。杏子の手がまた、ぴくっと動く。
杏子はちゃんと前を向き、先輩たちの晴れやかな姿を見守っていた。何度か、その手がぴくっと反応する。きっとその瞬間、その瞬間、杏子にとって特別な卒業生の姿を、その瞳で捉えたのだろうな、と遥は思った。
うちのテニス部の先輩は……あ、いたいた。……うーん、別に手は動かんな。
遥は、心の中でそう苦笑いした。
国歌斉唱。
杏子の手が、ぴくっ。
卒業証書授与。
杏子の手が、ぴくっ。
式次第が一つ進むたびに、まるで合図を送られているかのように、杏子の手に力が入る。
そして。
担任が卒業生の名前を、一人ずつ呼び上げていく。
その中に、あの名前が響いた。
「──松島 沙月さん」
「はいっ!」
いつも通りの元気な返事。
その瞬間、杏子の手の力は、もはや「ぴくっ」などという、可愛らしいものではなかった。
ぎゅううううううっ、という、擬音が聞こえてきそうなほどの力。
……いっっった! 杏子! 弓道ってこんなに握力が必要な競技なんか!?
だとしたら、テニス部でも勝負できるぞ、杏子!
そんなことを呑気に考える余裕がまだこのときにはあった。
沙月が壇上で証書を受け取り、自分の席へと戻る。そのルートは、ちょうど杏子の席のすぐ前を通る。
杏子は真っ直ぐに、先輩の姿を見つめていた。その瞳が潤んでいる。
本番に弱いって、ずっと悩んでた沙月さん。でも、最後の高校総体では、あんなにすごかった。もともと左利きだからこその有利な点がいっぱいあるんですよって話したっけ。『弱点ばっかり見るんじゃなくて、有利な点をもっと伸ばしましょう』って。
一緒にいっぱい練習したなあ。
込み上げてくる、涙。
沙月も、緊張した面持ちで前を向いて歩いていた。だが、杏子の潤んだ瞳に気づいた、その瞬間。彼女の顔が、これ以上ないほど優しい笑顔に変わった。そして、すれ違いざま、まるで、それがごく自然なことであるかのように、杏子の頭を、ぽん、と優しく撫でて通り過ぎていった。
「──三納 冴子さん」
その名前が呼ばれた途端。
杏子の手の力は、もはや「ぎゅうううう」というレベルではなかった。
いっっっっっったたたたた! 折れる! わたしの大事な、テニスプレイヤーの指が折れるっ!
これは、あとで絶対に栞代に文句を言わなければ。遥はそう決意しつつ、なんとかその手をそっと離すと、握っていた手を入れ換え、もう一度優しく握り直し、空いた方の手で杏子の震える背中をそっと撫でた。
冴子が杏子の前に来た。
その瞬間、杏子のかろうじて保たれていた涙腺は、崩壊した。
ひっく、ひっく、と、小さな嗚咽が漏れ始める。
部長……。わたし、ちゃんと部長の期待に応えられてますか……? 部長が必死で立て直してくれた、この弓道部を、壊したりしてませんか……? 部長……部長……。
その声にならない心の叫び。
冴子は、その全てを受け止めるように、杏子の前でぴたりと立ち止まった。彼女の目にも光るものが滲んでいる。冴子は、そっと屈むと、杏子の耳元でただ一言だけ囁いた。
「……ありがとう、部長」
その優しい一言が、最後の引き金となった。杏子の、嗚咽はもう隠しようのない、鳴き声へと変わった。
遥は隣で、声を殺そうとして泣く杏子の姿を見ながら、逆に、少し冷静になれていた。
だが、同時に、こんなにも素直に自分の感情を、全て曝け出すことのできる不器用な少女のことを、羨ましくも思っていた。
誰に、どう思われるかなんて、全く考えていない。ただ悲しいから泣く。嬉しいから笑う。
なるほどな。これが、幼稚園児、か。そりゃ栞代も、放っておけなくなるわけだわ)
そして──。
「──奈流芳 瑠月さん」
その名前が体育館に響き渡った時。杏子の身体は、まるで電気に打たれたかのように、びくりと大きく震えた。
瑠月が、証書を手に杏子の目の前に来た。
その、瞬間だった。
杏子は、まるで何かに突き動かされたかのように、すっくと立ち上がり、そしてそのまま瑠月の胸に飛び込んだ。
ちょっ……! 杏子!?
握っていた手を遥は、驚いて離す。
瑠月もまた、驚きながらも、その小さな身体を力いっぱい抱きしめ返した。
二人の肩が、小刻みに震えている。
杏子の頬を、一筋、また一筋と熱い涙が伝い落ちていく。声を殺そうとしているのか、それとも、もう声さえも出ないのか。その肩は激しく上下している。
入部してから、ずっと、ずっと、姉のように寄り添い、守り、導いてくれた、その全てが、この瞬間に凝縮されている。
瑠月の目からも、涙が溢れていた。もう、目を開けているのか閉じているのかも、判然としないほどに。瑠月の、杏子を抱きしめるその腕の力が、強くなる。そこには、言葉では到底表現しきれない、多くの想いが詰まっていた。
「ありがとう……」
瑠月の声は震えていた。「ありがとう、杏子ちゃん……」
周囲の視線など、もう二人の世界には存在しない。涙まみれの、ぐしゃぐしゃの顔。鼻をすする音。嗚咽に近い呼吸の音。
やがて、先に落ち着きを取り戻した瑠月が、杏子に話しかけた。
「……杏子ちゃん。これで最後じゃないんだよ。……泣きすぎだよ。……大丈夫。私たちは、まだまだずっと一緒にいるんだから」
そう言って、その背中を優しくさすり、そして、遥に杏子を預けるように、そっと椅子に、座らせた。
遥に向けられたその潤んだ瞳には、「ありがとう」と、「この子をお願いね」という、二つの言葉が、確かに浮かんでいた。
遥は、ただ、黙って力強く頷き返した。




