第377話 運命のラーメン屋と、まだ名もない交差点
光田高校の入学試験当日。
校舎はしんと静まり返り、受験生たちの緊張した空気だけが、廊下に張り詰めている。在校生は、もちろん登校禁止。
こういう時のお決まりのように、光田高校弓道部の面々は、中田先生の個人道場に集まる予定になっていた。
そして、その前日の夜もまた、お決まりの賑やかなルーティーンが、グループLINE上で繰り広げられていた。
真映:ねえ、皆さん! 明日は、せっかくのお休みですよ!? 連休ですよっ!? それなのに朝から練習だなんて! これは、日本国女子高校生憲法第十三条『幸福追求権』の、重大な侵害に当たります! 下手をすれば逮捕されますよ!
あかね: ……真映。その、微妙にほんまのことと嘘を混ぜて抵触させるの、やめーや。ややこしなるやろ。
栞代:いや、だから、真映。お前は別に休んでもええんやぞ。ほんまに、ぜんっぜん、怒らんし、さぼりとも思わんから、安心しろって。たまには気晴らしも必要やろ。
真映:なんですかっ、若頭! そんなにわたくしが練習に出ることが、おイヤなんですかっ! ひどい!
栞代: ……ああ言えば、こう言う。ったく、ほんまに、めんどくせーやつやな……。
真映:一華はどう? 明日練習出る?
一華: 当然です。杏子部長の完全なる解析には、まだまだ圧倒的にデータが不足していますので。
真映:ちぇっ。……どうせ楓は親分Loveで、一秒たりとも離れたがらないだろうし……。つばめは?
つばめ: ……うん。お姉ちゃんも明日練習だって言ってたから、わたしも行くよ。
真映:うわっ! 出た、このシスコンめっ! ……仕方ない。気は進まないけど、先輩方はどうかなあー? ソフィアさんは?
ソフィア: もし練習しないなら、わたしは一日中アニメを見ます。
真映:ですよねー! …若頭とあかねアネキは問題外だし、まゆさんもきっと親分Loveだし……。じゃあ、紬アネキは、どうっすか!?
紬:それは、わたしの課題では、ありません。
真映:ですよねー! 分かってました! でも、それを聞かないと、なんだか落ち着かなくて! ……って、今は読むだけですけど、ちゃんと頭の中で完璧に再生してますから! ……しかしっっ!
あかね:しかし??
楓:しかし??
栞代:しかし??
真映:わたしには、まだ一発大逆転の奥の手が残されているんですよっ! ……親分! 明日、一緒に遊びに行きましょうよっ! 親分が行くって言ってくだされば、みーんな、練習なんかやめて、一緒に遊んでくれますよっ!
………………。
しばしの、沈黙。
その時、杏子の部屋で一緒にLINEを見ていた栞代が、杏子の脇腹をこつん、と小突いた。
「おい、杏子。呼んでるぞ」
杏子は、苦笑しながら、スマートフォンにメッセージを打ち込んだ。
杏子:あのね、真映。明日は光田高校の入試でしょ? だからさ、練習が終わったら、みんなでまた神社に行かない? 受験生のみんながちゃんと力を出せますように、って。
………………。
再びの、沈黙。
そして。
栞代:……って、ことだからさ。真映、それで我慢しよか。もちろん休んでもええけど。……もし来るなら、神社に寄った帰りに、行けるメンバーだけでラーメンでも行くか?
真映:若頭ぁぁぁ〜〜〜〜〜っっ!!!
(嬉し涙のスタンプが、滝のように、連打される)
この入学試験期間が終われば、すぐに卒業式がやってくる。それはつまり、引退した三年生たちとの特別な、「卒業記念試合」の日が近づいているということ。
今、この時期に、本気で練習を休む気のある部員など一人もいなかった。
だが、真映は真映で、いつもの賑やかな「儀式」が必要だったのだ。そして、それはおそらく、弓道部の全員にとっても、同じことだったのだろう。
冴子:おまえら、ほんっとに楽しそうだな。ま、試合が楽しみだ。
試験初日。
城塚あまつと仙洞寺菓の二人は、それぞれの胸に特別な想いを抱いて、この日を迎えていた。
それは、単なる合格への緊張感ではない。むしろ、憧れのあの人のいる場所へと続く、最初の扉。その扉を、自分の力でこじ開けるのだという、強い衝動。
二人は、それを、「乗り越えたい壁」と前向きに認識していた。前向きな挑戦。恐れよりも、期待。
その日の筆記試験を終えた時、二人の心には確かな手応えと、明日への期待だけが、残っていた。
そして。
杏子の提案で、光田高校弓道部の面々は、再びあの神社へと足を運んでいた。
(どうか、今日、試験を受けた全ての受験生が、自分の力を出し切れていますように)
杏子は静かにそう祈った。この霊験あらたかな神社は、すでに冴子、沙月、瑠月の、三人の先輩たちの合格を見届けてくれている。
その後は、真映が心待ちにしていた、全員揃ってのラーメンタイムだ。さすがに全員で行こうとすると、近所の名店、というわけにはいかない。少し歩いて、駅前の大きな中華料理屋へと向かった。
特別な味、というわけではない。けれど、仲間たちと一緒にテーブルを囲んで、笑いながら食べるラーメンは、どんな高級料理よりも美味しいものだ。
さて、一方。
試験を終えた、菓とあまつ。初日の緊張が解け、二人の間には同志のような連帯感が生まれていた。明日は面接試験。弓道での圧倒的な実績を持つ二人にとって、それは決して高い壁ではないはずだ。
二人は、ホテルに戻る前に一緒に夕食を取ることにした。
「……何、食べたい?」
「うーん……。ま、なんでもいーけど」
「じゃあ、ラーメンとか?」
「うん、いいね」
二人は、特に店を決めるでもなく、駅前の商店街を歩いていた。そして、ふと目に留まった、一軒の大きな中華料理屋の暖簾をくぐった──。
「「「「「「「いらっしゃいませーっ!」」」」」」」
店内に響き渡る、威勢のいい声。
そして、二人の目に飛び込んできたのは。
固まるあまつ。驚く菓。
そこにいたのは光田高校弓道部の面々だったのだ。
驚きと混乱。どうすればいいのか分からずにいるあまつの隣で、先に動いたのは菓だった。彼女はすっと背筋を伸ばすと、杏子たちのテーブルへと歩み寄った。
「あの、すみません。……もしかして、光田高校弓道部の皆さん、ですか?」
その丁寧な、しかし凛とした声に、杏子たちが顔を上げる。
菓は続けた。
「私たち、今日光田高校の入学試験を受けさせていただきました。もし、合格できたら、弓道部に入部したいと思っています」
「「「おおーっ!」」」
思わぬ来訪者に、弓道部のテーブルから歓声が上がる。
「え、ほんまに!? すごい! 嬉しい!」
あかねが目を輝かせる。
「どうぞ、どうぞ! ここ、座って!」
真映が、自分の隣の席をバンバンと叩く。席を詰め、皿を足し、ジュースのコップを一つずつ並べる。
かくして、予期せぬ形で、現役部員と未来の後輩候補たちの、最初の交流会が始まった。
「……なんで、また、うちの弓道部に?」
栞代が単刀直入に尋ねた。その問いに、二人はちらりと杏子の方を見て、そして声を揃えた。
「「あの、杏子さんの試合を見て、憧れて」」
「「「おおおおおーっ!!」」」
再び歓声が上がる。杏子は、ただ顔を真っ赤にして俯いている。
「ははっ。大丈夫だ、二人とも」
栞代が笑う。「安心しろ。うちには杏子に憧れて、弓道をゼロから始めた、っていう奴が、半分以上いる。……ただ、そういうタイプには、一つ共通点があってな」
「「共通点、ですか?」」
「ま、それは、入部してからのお楽しみ、やな」
「心配することじゃないから安心してね」
まゆが優しく、そう付け加えた。
弓道部の温かい空気と、杏子という存在に触れただけで、二人はもう十分に満たされていた。
明日の面接も、きっと上手くいく。そんな確信があった。
短い、ファーストコンタクト。
弓道部員たちは、礼儀正しく芯の強そうな二人の少女が、まさか来年度の自分たちのチームを、根幹から揺るがすほどの圧倒的な実力を持っていることなど、まだ知る由もなかった。
スカウトに関する情報は、拓哉コーチの方針で、現役部員には一切伝えられていなかったし、目の前の目標に必死で、他のことに気持ちが向く余裕も無かった。
ただ、二人はそうでは無かった。どこかで見たことがあるような──と思っていた、入れ違いに卒業する三年生の二人が、高校総体準優勝メンバー、さらに瑠月が選抜大会全国3位でありながら、国立大に現役合格している、まさに文武両道の体現者だと知ると、自然と握手の手が伸びた。
短い、けれど濃密な“邂逅”。
ラーメンを食べ終わり、しばらくは全員で歩いた。
駅へと向う交差点で、杏子が声をかける。
「ホテルまでの道は、分かりますか?」
「ええ、大丈夫です」
心配する弓道部のメンバーたちに、丁寧にお礼を言って、二人は歩き出した。
「……みんな、すごく、いい人たちだったね」
「うん。……なんだか、すごく明るいんだね、あの部活」
「……ねえ。明日、面接が終わったらすぐに帰る予定だったけど……。明後日の卒業試合、どうしても見たくなっちゃったな」
「……わたしも」
二人は、顔を見合わせて、笑った。
同じ思いを抱いていた。
この一歩一歩が、自分たちの確かな未来に続いている。
その先で待つ誰かと、また矢を並べて立つことができる。
——ここが、始まりの場所になる。




