第375話 光と、影と、初めての涙 城塚あまつ
夕空は、まだ冬の色をその縁に、わずかに残していた。
春と呼ぶには風はまだ冷たく、冬と名乗るにはその陽射しはどこか柔らかい。季節の狭間で、世界が静かに息をひそめているような、そんな午後のことだった。
城塚あまつは、母と共に駅前の簡素なビジネスホテルにいた。
明日は、光田高校の入学試験。その前日入りだった。
エレベーターを降り長い廊下を歩く。その時、母がふと、娘の横顔を覗き込むようにして尋ねた。
「……あまつ。緊張、してる?」
「ううん。大丈夫だに」
返事は即答だった。その表情に揺らぎはない。
それでも──。
部屋に入り窓のカーテンを開け、遠くに光田高校の白い校舎が見えた、その瞬間。
あまつの視線は、磁石に引かれるかのように釘付けになった。そして、彼女はゆっくりと、強く、自分の拳を握りしめた。
「……あれが光田高校ね。思ったよりも綺麗な、立派な高校だこと」
母が感心したように呟いた。
あまつの小さな手のひらの中には、今朝、長野を発つ時、父に半ば強引に押しつけられるようにして渡された、「合格祈願」の小さなお守りが握られていた。普段なら、「そんなものいらない」と突き返してしまうところだ。だが、今日は、それを鞄の奥にそっとしまい込んだ。
そして、もう一度、自分に言い聞かせるように小さく、呟いた。
「……大丈夫」
──道場を、見たい。
あまつには、どうしてもその場所をこの目で確かめておきたい、という強い想いがあった。
自分が、これから三年間、全てを懸けるであろうその場所を。杏子さんが、今、弓を引いている、その聖域を。
ホテルに荷物を置くと、すぐ、あまつは母に頼んで光田高校まで足を運んだ。
その日、光田高校は午前授業。弓道部は、午後一番から練習に入っていた。
あまつが訪れたとき、練習はちょうど休憩時間に入っていた。
道場の前では、女の子たちが笑い転げていた。
「だから〜! いざとなったら、親分の名誉を守るためなんですから! 手段なんて選んでられないって話ですよ!」
「ちょ、真映、あんた、それ、本気で言ってるん!」
「だってさあ! 親分の顔に、万が一にでも泥を塗るようなことになったらよ!? あの、若頭が絶対に黙ってるわけないよ!? ……ああ、風前の灯火と化した、この、わたしの命……!」
「そもそも、その親分が正しい道以外、認めないってば」
ひときわ大きな声で騒いでいる少女。その隣で、小柄な眼鏡をかけた少女が、呆れたような、拗ねたような複雑な表情で腕を組んでいる。
緩みきった光景。
端でその様子を見ていたあまつは、思わず眉をひそめた。
──なんなのこれ? ここが、あの光田高校弓道部?
彼女がこれまで所属してきた中学の弓道部は、休憩中であろうと私語は厳禁だった。それは、自分の部だけではない。これまで対戦してきた、全ての強豪校がそうだった。道場では、息をひそめるように動き、座る場所さえも厳格に決められている。指導者の声以外、ほとんど物音一つしないような、静謐さが、支配していた。
なのに。
これが、全国レベルのチーム? 本気で全国優勝を狙っている、チームの姿なの?
失望に似た感情が、あまつの胸の内に、静かに、冷たく降り積もっていく。
……杏子さんは、どこに、いるんだろう……
だが。
休憩が終わり、練習が再開された瞬間。空気は一変した。
先ほどまで大声で騒いでいた少女──真映が、すっと笑いを収め、その背筋を伸ばす。不機嫌そうだった眼鏡の少女──一華が、きりりと、眉を寄せそれぞれの立ち位置を、的確に指示している。
部員たちの呼吸の音さえもが聞こえてくるほどの、澄み切った静寂。
それもそのはずだ。今の光田高校弓道部は、引退した三年生たちとの「卒業記念試合」に向けて、その全ての神経を研ぎ澄ませている、真っ最中なのだ。
それぞれの射型をチェックして回っている、あの人が……杏子さんだ。
一人ひとり、丁寧に声をかけ、何かを指摘している。皆、驚くほど綺麗な射型をしている。そして、その的中率も、あまつが知る中学生のレベルとは段違いだ。
(……危なかった。見誤るところだった。……やっぱり、すごい)
矢を番え、弓を引くその一連の動作。それは、一人ひとりが静かでありながら、凛々しく、どこまでも澄んでいて、そして強い。まるで、彼女たちが、呼吸をするたびに、この道場という空間そのものが清められ、整えられていくかのようだった。
ところが。
それは、まだ、序章に、過ぎなかった。
部員たちの練習が一段落した、その時。
杏子が、すっと的前に立った。
弓道場の空気が一瞬にして変わる。今までの静謐な空気とは、また違う。それだけではない。オーラが滲む。惹きつけられ目が離せなくなる。それはあまつにとって、圧倒的な存在として襲いかかってきた。
道場という閉ざされた空間に、天から一筋の強い光が差し込んできたかのように感じられた。
胸の奥が、じんと、熱くなる。
あまつの目に、いつの間にか、熱い涙が溢れていた。
(……すごい。……すごすぎる)
言葉にならない、感動。
(ここだ。……わたしがいるべき場所は、絶対に、ここなんだ)
どれくらいの時間、そうしていたのだろう。
放心状態のあまつを、心配した母親が、そっと肩を抱き、ホテルへと連れ帰った。
「あまつ、明日のテスト、本当に大丈夫なの?」
「うん。大丈夫。……わたし、絶対にここに来るから。……お母さん、今日お父さんにも、見せてあげたかったなあ。……わたし間違ってなかった。……杏子さんの弓は、本当に、素晴らしかったんだ……」
「……あなたの目、きらっきらに輝いていたもんねえ」
その言葉は、春を待つまだ冷たい風、一緒に、母の心にも、深くそして温かく沁み込んでいった。




