第370話 導く月と、二つの腕時計
瑠月の入学試験当日、いつものように、朝の散歩に行く、杏子と祖父と栞代。
ここ最近は、コースを変更して、神社に立ち寄ることになっている。
この日も、三人で試験の無事を祈ってお参りする三人。
「瑠月さん、離れててもいつも一緒です。団体戦と同じ」
杏子は心の中で呟いた。
「杏子さあ、すっかり忘れてるみたいだけど、期末テスト、一週間前だってこと、覚えてる?」
瑠月のことで頭がいっぱいだった杏子は、図星を突かれたのだが、慌てて、
「お、お、覚えてるもん」
と視線が彷徨った。
栞代は笑いながら
「杏子にウソは似合わないって」
「忘れてました・・・・」
元気を少しなくしながらも、少し安堵したように息を吐いた。
「今度のテストは結構大事だぞ。最後の高校総体の出場が掛かってくるからな。さすがに三年で最後の大会だから、補習や再テストしてくれるとは思うけど、そもそもそれが負担になるからなあ」
「そ、そうだね」
「でも、我が弓道部には強い味方が返って来るぞ」
「瑠月さんっ」
杏子が嬉しそうに応える。
「ああ。瑠月さん、教えるのもほんとに上手だからなあ」
二人のその会話を聞きながら、祖父は
「わしも、まだ、数学と国語なら教えられるぞっ」
と割って入る。
「なんといってもわしはなあ」
「全国3位だもんね」
栞代が、すかさずつっこむ。
「腕時計忘れた事件、真映が聞いたら、絶対に大笑い間違いなしだな」
朝。
まだ空の色は、夜の気配を残した薄暗い藍色。冬の厳しいまでの静寂が、街全体を、支配している時間だった。
カーテンの隙間から、白く細く差し込む光が、机の上にきちんと畳んで置かれた筆箱を、照らしている。
瑠月は、ベッドの上で、ゆっくりと息を吸い、そして、吐いた。
──いよいよ、今日。
机の端に置いた、スマートフォンの画面が、ふと目に入る。昨夜、眠りにつく前に、杏子から届いた、メッセージの光がそこに残っていた。
『瑠月さん。明日、絶対に、時計を両方の腕に、二つして行ってくださいっ!』
『え? 何かのおまじない? 笑』
『はいっ! 必ず、お願いしますっ!』
『りょうかい。笑』
読んだ瞬間、思わず笑ってしまった。でも、本当に杏子らしいな、と思った。
そして、可愛い後輩との約束を、きちんと果たす。
右の手首には、今の母が高校入学のお祝いに贈ってくれた、薄い金色の腕時計。
左の手首には、杏子が文化祭の日に「おそろいっ!」と、嬉しそうに言って一緒に買った、安物の、小さな銀色のバンドウォッチ。
どちらも、今日の自分を確かに導いてくれる、大切なお守りのような気がしていた。
鏡に映る、自分の姿を見つめる。制服の襟を、指先で丁寧に整えながら、ふと、二年という遠回りをして、ようやく、ここまで辿り着いた自分の道のりを思う。
──遅れても、止まっても、道は決してなくなりはしない。
そう心から思えるようになったのは、弓道部に入ってからだった。
そのほんの、数年前。高校への入学そのものを諦めた。
家庭の事情もあった。何もかもが嫌になって、全てを投げ出してしまいそうになった、あの日々。
今の母が、血の繋がらない、この自分のために、必死に尽力してくれたから。その想いに応えなくっちゃ、と、思った。
そして友達が欲しくて。ただ、それだけの理由で弓道部の門を叩いた。
そこで、冴子と沙月が、何の分け隔てもなく、仲間として付き合ってくれた。
そして、去年、杏子という、吸引力の固まりのような後輩とも出会えた。本当に、弓道部に入って良かった。
でも、今は思う。
あの二年があったから、
今の自分があるって、思える。
階下から、母の優しい声がした。
「瑠月ー、朝ごはん、冷めちゃうわよー」
その声の主は、わたしにとって二度目の母。
実の母が病気で亡くなってから、父が再婚して我が家にやってきた人だ。
最初は、どうしても距離を取っていた。けれど、彼女のその底抜けの愛情が、いつしか、わたしの固く閉ざした心を、ゆっくりと溶かしてくれた。
今では、もう本当の母としか思えない。
台所に行くと、母がにこっと笑った。
「緊張、してるの?」
「……うん。少しだけ」
「大丈夫よ。あなたはいつものあなたのままでいれば、それで、いいの」
食卓には、湯気の立つ温かい味噌汁。懐かしい出汁の香り。
湯気の向こうに、もう二度と会うことのできない、わたしを産んでくれた母の笑顔が、ふっと重なった気がした。
──“瑠月”という名前はね。
暗い夜道を、そっと明るく照らす月のように。
人に優しく寄り添って、困っている人を導いてあげられる、そんな温かい人になってほしい。
そんな願いをこめたのよ。
まだ幼かった自分の髪を優し、撫でながら。
病室のベッドの上で、母がそう言っていたのを、今でもはっきりと覚えている。
あの言葉が、いつもわたしの背中を押してくれる。励ましてくれる。
「母さん、行ってくるね」
「ええ、しっかりね。……あら、時計、二つもしてるの?」
「うん。大切なおまじない」
母は、くすっと笑った。
「ふふっ。杏子さん?」
「うん」
玄関で靴を履きながら。
瑠月は小さな声で呟いた。
「……杏子、ありがとう。みんな、ありがとう。行ってくるね」
そのとき、杏子の声が聞こえた気がした。
「瑠月さん、離れててもいつも一緒です。団体戦と同じ」
「そうだね。一人じゃない」
小さく瑠月が応える。
外は、薄曇り。冷たい風が、きゅっと頬を撫で、髪を揺らした。
電車に揺られながら、窓の外を見つめる。
遠くの山並みの上に、ぼんやりと朝日が浮かんでいた。
その頼りない光の中で、右の金の時計と、左の銀の時計、どちらもが全く同じ時刻を、指し示していた。
「ふふっ。ちゃんと時間合ってる」
それだけのことが、なぜか、心を軽くしてくれた。
胸ポケットのスマートフォンを開くと、弓道部のグループLINEには、すでに朝早くからたくさんのメッセージが溢れていた。
『瑠月先輩! 祈ってます!』
『瑠月さんなら、絶対に大丈夫!』
『今朝、縁起担ぎでカレー食いました!』
『真映、朝からカレーかよ』
『わたしは朝からゲン担ぎでステーキです!』
その、全くいつも通りの変わらない賑やかなやり取りに、思わず笑みがこぼれた。
みんなの顔が浮かぶ。
試験会場に近づくにつれて、手のひらが少し汗ばんできた。
だが不思議と怖くはない。
“みんなが一緒にいる”という、確かな実感があるから。
深呼吸をして、門をくぐる。
曇り空の、その向こう。雲の切れ間から、うっすらと光が滲んでいた。
まるで、昨日杏子たちが祈ってくれた、あの神社の光が、ここまで届いているみたいだった。
席に着き、両腕の時計をそっと確かめる。
右も、左も、止まってはいない。
どちらも、しっかりと今のこの一秒を刻んでいる。
「よし──行こう」
瑠月は、小さく呟き、ペンを握った。
その瞬間。
ふと、心の奥で、また、あの杏子の声が聞こえた気がした。
『金メダルを取って、おばあちゃんに、プレゼントしたいです』
まっすぐな眼を思い出す。
(……わたしも、同じだよ、杏子)
(わたしも、合格通知を、天国にいるお母さん、そして、今わたしを支えてくれている母さん、二人に見せたいんだ)
唇に小さな笑みが浮かぶ。
目を閉じて、もう一度深く深呼吸。
──“導く月”になれますように。
静かに、そう、祈ってから。
瑠月は、解答用紙の最初の一文字を、静かに、そして、力強く書き始めた。




