第369話 瑠月の受験前日。
反省文騒動がようやく本当に一段落した。弓道部の日常が、ゆっくりとその穏やかなリズムを取り戻していく。
一華のデータ分析、射型の解析、大学の研究室からのフィードバックもおぼろげながら形が見えてきた。そして、真映がなぜか、毎日勝手に貼り出す「本日の目標ポスター」。
そんな、いかにも「光田流」らしい、賑やかでカオスな空気の中、彼女たちの練習は、順調にその熱を帯びていた。
神社への参拝も、今やすっかり練習後の日課になった。
その日も練習を終えた全員で、冷たい水で手を清め静かに手を合わせた。
「明日、瑠月さんが、最高の矢を放てますように」
杏子の小さな凛とした一言で、みんなの背筋が自然とすっと伸びる。
夜風が冷たい。帰り道、杏子は栞代と並んで歩いていた。吐く息が、街灯の光に白く、浮かび上がる。
「……瑠月さん。いよいよ、明日なんだね」
杏子が呟いた。栞代は、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、からりと笑った。
「自分の受験でもないのに、なんでそんなに緊張してんだよ」
「だ、だって……」
「まるで、自分が明日受けるみたいな顔してるで」
栞代は少し笑って肩をすくめる。
「大丈夫だって。成績学年トップ。おまけに全国選抜で三位だぞ。人当たりは、めちゃくちゃ柔らかいけど、精神力もハンパじゃねえよ」
杏子は、こくりと頷いた。けれど、その表情はまだどこか落ち着かない。
家に戻ると、祖父母がいつものように、玄関で二人を迎えてくれた。温かい湯気と、鰹出汁の優しい香りが、冷え切った二人の身体を、ふわりと包み込む。
「おかえりなさい。早く、着替えていらっしゃい」
祖母が用意してくれていたのは、具沢山の、熱々、煮込みうどんだった。
祖母が用意してくれた煮込みうどんが、食卓に並んでいた。
「寒かったでしょう」」
「ありがとう、おばあちゃん」
杏子と栞代が声を揃える。続けて「いただきます」の声が響く。
祖父は、新聞をぱたんと畳みながら言った。
「明日、瑠月さんは受験なんやろ?」
「うん、そうなの、おじいちゃん。……なんだか、わたしまですごく緊張しちゃって」
「自分の受験でも、ないのにな」
栞代は、そう言いながら、大きな海老の天ぷらを口の中に入れる。
祖父は、うんうんと頷いて、湯気の向こうで目を細めた。
「わしの大学受験の時にはなあ。この、わしの偉大さが、既存の大学ごときには、なかなか理解されなくて、それはもう苦労したもんじゃ」
「そ、それって、どういうことなの、おじいちゃん?」
「要は、受からなかった、ということですよ」
祖母が、いつも通りニコニコとしながら、静かに付け加えた。
その的確な通訳。栞代は、口に含んだぷりぷりの海老を噴き出しそうになった。
「ちょ、おじいちゃん! 笑わせないでよっ! せっかくの美味しい海老が……!」
「そやけど、ほんまのことなんやで。当時、わし、全国模試で三位になったことがあるんやからな。……まあ、数学と国語の、二教科ペアでの話やけどな」
「「ええええええっ!?」」
杏子と栞代の声がハモった。「そ、それ、ほんとなの!?」
「ほんまや。今でも、成績表ちゃんと取ってあるから、今度見せたるわ」
「……そこが、おばあちゃんと違うところだよなあ」
「ど、どこがじゃ!」
栞代は、今度は鍋の中のカニの爪を、慎重に口に運び、ゆっくりと落ち着いてから、続けた。
「過去の栄光に、いつまでもしがみついてるところが」
「むぐぐぐぐ……っ!」
杏子は、くくくっと笑った後、はっと、何かに気がついたように、慌てて尋ねた。
「じゃ、じゃあ、瑠月さんは!? 瑠月さん、学年でトップなんだよ!? それで落ちたり、しないよねっ!?」
急に不安がる孫娘。その姿に祖父は慌てて言葉を付け足した。
「……時計を忘れたんじゃっ!」
「はあっ!?」
栞代は、今度は口に入れたばかりの牡蠣を噴き出しそうになり、
「おじいちゃん! ちょっと、本当に笑わせないでよっ!」
と、再度抗議した。
「いや、教室にも時計はなくてな。それで完全に時間配分を間違えてのう。やっぱり、時計は必要じゃな、と。がっはっはっは! という訳で、滑り止めの大学になんとか合格したんじゃよ。がはははは〜!」
「……当時から、相当、抜けてたんやなあ」
栞代は、出汁の染みた、鱈の白子を、大事そうに口に入れた。
「でも、そうやって自分の目標のために努力するのは、本当に素晴らしいことだわ」
祖母は、いつも通り、にこにことそう言った。
「おばあちゃんは、どうだったんですか?」
栞代は、はまぐりを落ち着いて口に運んだ。
「わたしはね、歯科衛生士になりたくて専門学校に行ったの。地元にはその学校がなくてね。家を出て一人暮らしをしながら通ったのよ。結局、そのままそこで就職して。……そして、おじいちゃんと出会ってしまったのよねえ」
「……なるほど。絶対に、地元からは離れちゃいけない、っていう、人生の教訓ですね、それは。そうしたら、おじいちゃんと知り合うこともなく、おばあちゃんは、もっと幸せな人生を……。ん? ……いや、ちょっと、待てよ。そしたら、杏子もこの世に産まれてなかったって、ことか。……じゃあ、しょーがないんだな。おばあちゃんの人生は、修行の連続で大変そうだけど、その分、おじいちゃんの人生は、超ラッキー。極楽人生、だな」
最後の椎茸を運びながら、栞代はそう、締めくくった。
「それにしても、おばあちゃん。今日のこのお鍋、めっちゃ豪華だね」
「ええ。明日の瑠月さんが上手くいくように、って願掛けよ」
その言葉に、栞代と杏子は、莞爾として微笑んだ。
「そりゃ逆じゃ、栞代!」
祖父は、不貞腐れたように、鍋に残っていた春菊を摘んでいた。
その夜杏子は、布団の中で静かに手を組んだ。
祈るように、目を閉じながら──。
(どうか、瑠月さんの、これまでの努力の矢が、まっすぐに、的に届きますように)
そして、そっとスマートフォンを手に取った。
瑠月さんとの、LINEのトーク画面。
今日のやりとりが残ってた。
『瑠月さん。
明日、絶対に、時計を両方の腕に、二つして行ってくださいっ!』
『え? 何かのおまじない? 笑』
『はいっ! 必ず、お願いしますっ!』
『りょうかい。笑』
その短いやり取り。
杏子は、その画面をお守りのようにしばらく見つめ、そして静かに目を閉じた




