第368話 積み重なった想いと、もう一つの矢
杏子に心惹かれた天才・城塚あまつが光田高校への出願を決めた、奇跡のような偶然。その、裏側にはもう一つの物語が存在していた。
それは──拓哉コーチの、大学時代の仲間たちによる、過去への贖罪にも似た、固い誓いの物語だった。
彼らは、かつて同じ大学の弓道部で汗を流した無二の同志だった。
だが、大学二年の冬。拓哉は、突如として弓を捨てた。
実家の神社で、幼い頃から神事として叩き込まれてきた弓の世界。そして、勝敗を競う競技としての弓道の世界。その大きな価値観の狭間で、彼はもがき、苦しんでいた。真実をどこまでも追い求めてしまう、その不器用なまでの彼の性格が、妥協を許さなかったのだ。
その時になって、初めて彼らは、拓哉が、深く孤立していたかを知った。。
誰一人として、彼の中にある苦悩に気が付かなかった。
「拓哉は強いと、勝手に思い込んでいた」
「でも、あの時あいつは、一番、誰かの支えを必要としていたんだ」
その、どうしようもない、後悔の痛みは、今も、彼らの胸の奥に、鈍く、残っていた。
拓哉が、人一倍、心を砕き、バラバラだった、自分たちを、一つのチームとして、まとめてくれていたのに。自分たちは、彼の、その、魂の叫びに、気づくことさえ、できなかった。
その後、拓哉がどのような経緯で、弓道の世界に戻ってきたのか。その間のことを彼らは詳しく知らない。ただ、彼が再び弓を手にし、どれほど救われたか。
だからこそ、拓哉が光田高校に赴任したと聞いた時、彼らは迷わなかった。
もう二度と、彼を孤独にはしない。
もちろん、自分たちにできる範囲で構わない。ただ同じ場所を見て、立っていようと。
拓哉が本気で指導する、この光田高校弓道部の力になりたい。
だが、どうすれば? と思っていたとき、拓哉の方から声がかかった。
まず、深澤剛。メンタルトレーニングの指導者の道を歩んでいたが、光田高校弓道部のメンタルコーチを引き受けてくれないか、という依頼があった。
二つ返事で引き受けた。
そして残りのメンバーにも、合宿で指導をしてくれないか、という依頼があった。これも二つ返事で引き受けた。
そのときに、もっと深く関わりたい。その思いを伝えて、緩やかな役割分担を決めた。
深澤 剛は、メンタルコーチとして。
稲垣 勝行は、戦術・記録分析の、アナリストとして。後に一華を支えることになる。
神矢 正広は、チームリーダーとして、精神的な支柱を。
草林 吾朗は、フィジカルトレーナーとして。
そして大和 慎吾は、全員が手分けして見つけた逸材との交渉窓口担当に。
拓哉は光田高校のコーチに就任するにあたって、何よりも、「継続性」を重視していた。それは、究極的には、自分がいつかこの場所を去っても、揺らぐことのない強固な体制の構築。そして、そのためには当然、プレイヤーたる生徒の確保が不可欠だった。
だが、光田高校は公立だ。いわゆる“特待制度”や全国から選手を集めるための“推薦枠”は存在しない。
高い学力の壁。そして県外からの進学であれば、生活環境の確保という、さらに高い、壁。その全てを、生徒本人の力だけで、越えるのは不可能だ。
しかし、何もしないところからは何も、生まれない。
拓哉自身は、生徒たちの指導だけで手一杯だ。状況を理解した仲間たちが動き出した。
全員で手分けをし、全国の中学生の試合を地道に回りながら、ただひたすらに「努力と真心」を持つ、選手を探し、話をした。
そして、出会う。
仙洞寺 菓──。
鎌倉の小さな道場で黙々と弓を引くその少女。
全国ベスト4という実績。しかし、それ以上に彼女の、ひとつひとつに込められた、ひたむきさが大和の心を捉えた。
突き抜けた天才ではない。だが、努力で夢を掴み取ろうとする、その姿こそ、これからの光田高校が示すべき理想の姿だ、と。
だが、彼女を光田高校へと導く道は、決して簡単ではなかった。
県外の公立高校。しかも地元ではトップクラスの学力水準。
ご家族からの理解と、そして何よりも、彼女が一人で安心して暮らせる生活環境の、確保。
大和と拓哉は、すぐに光田弓矢会の高階会長と連携を取った。
話を聞いた高階会長は即座に動く。生活面での全面的な支援体制を弓矢会として約束してくれた。
そして、第一の課題であった学業面。これには、深澤たち全員が名乗りを上げた。オンラインでの徹底した学習サポート。彼らは大学時代、弓道だけでなく学業も決して疎かにしなかった、秀才集団でもあった。
そして──その最後の、そして何よりも大きなピースを埋めてくれたのは、菓の実の、姉・榧の、存在だった。
彼女は、最初猛反対していた両親を説得し、妹を支えるために自分も共に光田の地へ行くと決意してくれたのだ。
「わたしが一緒に行けば、この子は安心して自分の夢に挑戦できるから」
姉の覚悟。それを現実のものとしたのが、高階会長の商工会議所としての力だった。彼は姉のために、光田の地での新しい就職先まで、斡旋してくれた。
伝統ある名門進学校である光田高校の、その「名前」も、もちろん大きかった。
こうして一つの「モデルケース」が整った。
それは、“偶然に導かれた、奇跡”などではない。
“人と人の想いが幾重にも積み重なった必然”として、その道は拓かれたのだ。
今日そのゴングが鳴った。
【仙洞寺菓】
(……終わった)
鎌倉の自宅の静かな部屋。
出願を終えた。それだけなのに指先がまだ少し震えていた。
たぶん、今まででいちばん重たい「決断」だったと思う。
光田高校。
公立で県外。普通なら考えもしない選択肢。
でも、わたしにはどうしても、そこが良かった。どうしても譲れなかった。
去年、全国大会の会場で見た。
光田高校の、あの、杏子さん、という人。
最初は信じられなかった。
技でもなく理屈でもない。
あの人の放つ矢には、ただひたすらに「弓を愛する心」がそのまま、形になっているように見えた。
選抜大会で負けたとき。負けたのに、どうしてあんなに穏やかな、優しい笑顔で立っていられるんだろう。
勝ちたくて勝ちたくて、自分の全てを賭けてきたわたしには分からなかった。
でも、分からないからこそ、どうしようもなく惹かれた。
あの人の隣で弓を引きたい。
そして、その秘密を知りたい。
鳴弦館高校からは推薦のお話もいただいた。
鳳城高校も声をかけてくれた。
たぶん、普通のわたしなら、そっちへ行っていたと思う。
でも、わたしの胸のどこかが静かに、でもはっきりと言っていた。
──“そこには、杏子さんが居ない”って。
あの人の弓に出会ってから。
わたしの中の何かが少しだけ変わった。
ただ、がむしゃらな努力だけじゃ、決して届かない場所があることを初めて知った。
でも、だからこそ、その努力をやめたくなかった。
大和コーチと話した。
「簡単な道じゃない」と、何度も、何度も言われた。
それでも「行きたいです」と、頭を下げ続けた。
お姉ちゃんが「わたしも、一緒に行く」って言ってくれた時。
正直、泣きそうになった。
あれほど反対していた、お父さんもお母さんも、最後には、わたしの背中を押してくれた。兄と妹も。
杏子さんの隣に立つために。
まずは、この最初の一歩を、自分の力で踏み出さないと。
あの人に、「本気」が伝わるように。
一つだけ、心配だったことを大和さんに聞いた。
弓道部のメンバーと馴染めますか?
意外と地方差ってあるって聞くし。
そしたら、大和さん。笑いながら、自信満々に言ったっけ。
もちろん、全力でサポートするし、いつでも相談にも乗る。
でも、大丈夫。みんな杏子さんに惹かれてる、変人仲間だからって。
そいえば、あまつもそうだな。
あつい、頭いいから、余裕そうだな。
くそう。
まってろ、あまつ。




