第360話 吉報と、没収されたスマートフォン
今日、前部長である冴子と、沙月の大学合格発表がある。
発表時間は、午前十時。光田高校では、ちょうど二時間目の授業の真っ只中だ。
二時間目は現代文。担当は杏子のクラスの副担任でもある、三宅佳乃先生。若くて、とても優しくて、杏子にとっては大好きな先生の一人だ。
(……先生、すごく優しいから、お願いしたら、こっそりスマホ見せてもらえないかなあ……?)
杏子は、そんな淡い期待を抱きながらも、緊張で乾いていく唇を何度も舐めた。
その、運命の二時間目が始まる前の休み時間。
「今日の十時やろ?」
栞代が、もう一度杏子に確認する。弓道部の面々は、もう今日の授業どころではなかった。
(……だけど、きっと、紬なら、『それは、わたしの課題ではありません』って、淡々としてるんだろうなあ)
そう思うと、杏子は、少し笑顔を取り戻せた。
やっぱり、三宅先生にお願いしてみようかな。杏子がそう思い立った、まさにその瞬間。栞代から声が掛かった。
「杏子。お前、自分じゃ結果、見れんやろ? 小心者やし、悪いことできん、正直もんやからなあ」
栞代は、にやりと笑った。
「オレが、こっそり見たる。スマホの画面。左が冴子先輩、右が沙月先輩な。合格してたら、親指立てる。ダメなら……まあ、人差し指下向けるわ」
その提案に、杏子は、こくこく、と、何度も真剣に頷いた。
「う、うん……! お願い……!」
やがて、チャイムが鳴り、二時間目が始まった。
柔らかな日差しが大きな窓から差し込み、教室の埃をきらきらと照らし出している。黒板の前で、三宅先生が、淡々と今日の課題を板書していく、その声が、杏子の耳には、まるで遠い国の言葉のように聞こえていた。
杏子のシャーペンは、ノートの上で、ただ「10:00」という数字を、何度も何度も、なぞっている。
やがて、その行間に、今度は“おねがいします”と、小さな、小さな、祈りの文字を書き込んだ。
「──はい、それでは、この一文に込められた、作者の心情について。……杏子さん」
突然、名前を呼ばれ、杏子はビクリと肩を震わせて立ち上がった。
「えっ!? あ、えっと……、それは……『主人公の喜びと安堵の現れだと思います』……!」
とっさに、口から出た言葉は、全く、とんちんかんな答えだった。
教室が、どっと、笑いに包まれた。
「ふふっ。杏子さん、落ち着いてね」
先生は苦笑している。杏子の現代文の成績は、抜群だ。だからこそ、三宅先生は、いつも、一番、難しい問題を彼女に当てる。
(……でも、なんだか、今日の杏子さんは様子がおかしいわね)
そう思いながら、三宅先生は、次の問題へと、移っていった。
斜め後ろの席の栞代が、小声で「おい、杏子。バレるで」と囁いた。
壁の時計の長い針が、真上を指した。
午前十時。
杏子は、もう、教科書の文字など、一つも目に入らない。ちらり、ちらりと、何度も後ろを振り返る。
そして──。
栞代が、両手の親指を、ぐっと力強く立てた。
その瞬間。
杏子は、胸の前で、両手の拳を固く握りしめた。
「……よしっっ!」
その、心の底から漏れた、小さな、しかし、確かな、歓喜の声。
「──杏子さん。一体、何が、『よし』、なんですか?」
再び、三宅先生からの、優しいツッコミ。しかし、その声は、もう全てを理解しているかのようだった。杏子の満面の、花が咲いたような笑顔を見て、三宅先生もまた、嬉しそうに、微笑んでいた。
教室には、またもや、大きな笑いが起きて、杏子は、顔を真っ赤にしながら、椅子に、深く座り込んだ。
授業が終わった時、三宅先生が杏子の机の横を通り過ぎながら、小さな声で「よかったわね」と言ってくれた。
休み時間。
スマートフォンを取り出した杏子は、急いでグループLINEを開く。
そこには、冴子部長と、沙月先輩からの、桜の花びらが舞う画像と共に、合格を報告する、喜びのメッセージが届いていた。
その、すぐ後には、見慣れた真映の、アイコン。
【おめでとうござ】
……そこで、メッセージは唐突に途切れていた。
「ん? どういうこと?」
杏子が、首をかしげたその瞬間。グループLINEに、次の通知が入った。
一華:
【業務連絡】さきほどの授業中、朔晦真映さんが、授業中にスマートフォンを操作していることが担当教諭に発覚。現行犯で、スマートフォンを没収されました。以上。
「「ええぇぇぇ〜〜〜〜っ!?」」
栞代とあかねの声がハモった。
「おい、あいつ、一体、何やってんだよ……」
栞代が、呆れたように笑う。
「真映……」
杏子は、頭を抱えた。
でも、すぐに、そのLINEには、ソフィア、紬、つばめ、一華、そして、隣にいる、栞代、あかね、まゆからの、「おめでとうございます!!!」の文字と、ありとあらゆる、祝福のスタンプが、爆発した。
冴子部長と、沙月先輩の、合格。
真映の、どうしようもないアホさも、大き、喜びの中では、最高の笑いのスパイスに変わっていった。
昼休み。
「お、おやぶぅぅぅ〜〜〜〜んっっ!! スマホ、没収、ざれまじだぁぁぁ〜〜〜!!」
杏子のいる、二年生の教室の扉が勢いよく開かれたかと思うと、真映が、涙ながらに、飛び込んできた。
「ちょ、ちょっと、真映! 教室で、その呼び方は辞めろって──」栞代が慌てる。
「え、杏子って、クラブで『親分』って、呼ばれてんの?」
周囲の、クラスメイトたちが、一斉に笑う。
だが、その笑い声が、ぴたっと一瞬で止まった。
栞代、あかね、そして、テニス部の遥が、三方向から同時に、その声の主たちを射抜くような、鋭い視線で睨みつけたからだ。
大人しい杏子に不釣り合いな言葉と周囲の用心棒。題材はいろいろだが、お決まりの結論。お馴染みの茶番、でもあった。
杏子は、苦笑しながら、まだ、しくしくと泣いている(ふりをしている)、真映を立たせる。
「……とりあえず、職員室に、謝りに行こっか」
「ず、ずびばぜんっ……!」
「おい、昼飯、どうすんだよ」
「後で食べるから、大丈夫」
ため息混じりの栞代が、その後を追う。
まゆも小声で「わたしたちも、行こ」と、言い、あかねと共に続いた。
職員室。
静まり返る空気の中で、弓道部の五人の少女が、ずらりと並んで頭を下げた。
真映の担任である北澤先生が、眼鏡の奥で大きなため息をつく。
「朔晦さん。先輩の合格が嬉しかった、その気持ちはよく分かります。しかし、校則は、校則です。授業中のスマートフォンの使用は、禁止されています」
「は、はい……!」
「明日までに反省文を提出してください。それと引き換えに、スマートフォンを返却します。提出が遅れれば遅れるほど、返却も遅れます。……分かりましたね」
真映は両手で顔を覆って天を仰ぐ。
「部長の合格祝いLINEをリアルタイムで見たかっただけなのに~~っ!!」
「ウソつけ、お前、返信しようとしてたやんけ」栞代が突っ込む。
「しかも最後、送信ボタンまで押しとる」あかねも呆れながら突っ込む。
先生は苦笑しながら首を振る。
「気持ちはわかりますけどね。ルールはルールです。見るだけなら気がつかなかったかもですけどねえ」
なぜか、先生も少し残念そうだ。
職員室を出たその瞬間。真映が杏子にすがりついた。
「おやぶ〜ん! 反省文、代筆してください〜!」
「だめだよっ!」
「でも、わたし、何を反省すればいいのか、これっぽっちも分かりませ〜〜ん!」
開き直った言葉に、四人が盛大なため息をついたのは、言うまでもない。
だが、それでも。
「……うーん。おじいちゃん、そういうの得意だから、ちょっと頼んでみよっか?」と、どこまでも優しく、真剣に寄り添おうとするのが、杏子なのだった。
「甘すぎるっての」
笑いながら、五人が廊下を歩く。
真映の情けない嘆き声と、それを包み込む仲間たちの温かい笑い声が、昼下がりの陽光あふれる校舎に、いつまでも反響していた。




