第36話 ブロック大会団体戦の夜
団体戦の激闘を終えた夜、宿舎に戻り、すぐに夕食のため食堂に光田高校弓道部のメンバーが集まった。テーブルの上には、それぞれの前に食事とともに、食事には似つかわしくないオレンジジュースの入ったコップが並ぶ。
「みんな、お疲れさま!」
笑顔で声を上げたのは、三年生の花音部長だ。普段は冷静で落ち着いた彼女も、この日は少し興奮しているようだった。
「今日は、本当におめでとう。伝統ある光田高校弓道部の見事な復活です。光田高校として、団体戦でこの大舞台で優勝を掴むなんて、私たちの誇りだよ。杏子、つぐみ、瑠月、冴子、沙月……みんなの一矢一矢に、私は心から感動しました。」
一瞬の静寂の後、彼女は少し声を震わせながら続けた。
「三年生のお願いを聞いてもらったこともあって、私は今回の試合には出場しませんでしたが、みんなの射を間近で見ていて、本当に誇らしかった。一年生のつぐみさん、杏子さん、お二人の活躍は本当に素晴らしかったです。同時に、冴子さん、沙月さん、そして瑠月さん、これまで積み重ねてきたものが、見事に発揮されていました。だれが欠けても優勝は無理だったと思います。ここまで築きあげてきた絆が、今日という日に、最高の形で実を結んだと思います」
花音の真摯な言葉に、全員が静かに頷く。
「それでは」拓哉コーチが立ち上がった。「まずは、今日の勝利を祝して」
全員がコップを掲げる。
「乾杯!」
「かんぱーい!」
顧問の滝本先生も、本当に嬉しそうだ。
歓声と共にコップが掲げられ、明るい空気が広がる。しかし、コーチはまだ話を続けた。
「まず、団体戦の優勝、おめでとう。今日の試合は、本当に見応えがあったよ。全員がプレッシャーの中でよく自分たちの力を出し切った。杏子さんの全く動じない、逆に心配になるほどの落ち着き、その流れを丁寧に繋げた冴子さん、そしてチームのピンチの時に常に冷静に支えた瑠月さん、ここぞという時にはきっちり決めた沙月さん、そして、杏子さんとは全く違うアプローチで見事に結果を出したつぐみさん。今日の団体戦での素晴らしい成果を、明日の個人戦にも繋げてください。一次予選での的中数が個人戦の予選を兼ねているので、みなさん全員にチャンスがあります」
「個人戦は、団体戦とは違って、完全に自分自身との戦いになります。これまでの練習を信じて、一射一射、正しい姿勢で臨んでください。勝ち負けは関係ない。大事なのは、射るたびに自分が誇れる矢を放つことです。」
拓哉コーチの言葉には、重みがあった。誰もが静かに聞き入り、その心に刻んでいた。
「あの、私からも一言」
突然、瑠月が立ち上がった。
「今日の団体戦での勝利は、私たち全員の心をひとつにした結果だと思います。明日は個人戦。それぞれが自分の射と向き合うことになりますが、この絆を忘れずに、戦いたいと思います」
その言葉に、全員が温かな拍手を送った。
「さて。」
拓哉コーチが少し声のトーンを変え、笑顔を浮かべる。「最後に、みんなへのプレゼントがある。」
部員たちは一瞬驚いた表情を浮かべ、ざわめき始める。
「優勝した記念に、この後、みんなにケーキをプレゼントしたい。!」
「ケーキ!?」
その瞬間、どっと歓声が上がった。
拓哉コーチは続けて「「Patisserie Etoileさんに頼んで作って貰った特製だ。」
「Patisserie Etoile? 」あかねが素っ頓狂な声をあげた。
「知る人ぞ知る、この地元のケーキの名店じゃんっっ。わたし、明日帰る前に買おうと思ってたんだよ~」
「え~、そうなの?」
沙月が隣の冴子に「やったー!」と喜びを伝え、つぐみが「コーチがいい男に見えるわ」と目を輝かせる。
杏子も思わず笑顔になり、微笑んだ。瑠月は静かに笑いながらも、真面目て顔で「甘いものは疲労回復にもいいからね」と落ち着いた口調で応じる。
栞代が肩をすくめながら、「まぁ、コーチの粋な計らいってことでありがたくいただこう!明日の試合にも、絶対にいいよっ。な、紬。」と言うと、紬がポツリと呟いた。
「……それはわたしの課題ではありません。でも、ケーキは食べます。」
その一言にまた場が和み、笑い声が広がった。
杏子は静かにケーキを口に運んでいた。甘さ控えめなクリームの味が疲れた身体に心地よく、どこかぼんやりとした気持ちでスプーンを動かしている。
そんな杏子の隣に栞代がやってきて、ひょいと椅子に腰を下ろした。
「なあ、杏子。明日は大丈夫か?」
杏子はスプーンを止め、きょとんとした顔で振り向く。
「なにが?」
栞代は少し首を傾けながら、言いにくそうに続けた。
「明日はさ、同門対決になる可能性があるだろ?」
その言葉に、杏子の動きが完全に止まった。
「……あっ。」
今さら気づいたように驚く杏子に、栞代は心配そうな目を向ける。
杏子は考え込むように視線を落とし、ぽつりと呟いた。
「……私、辞退しようかな。個人戦のメダルって、そんなに拘ってるわけじゃないし。」
そう呟いた途端、後ろから鋭い声が飛んできた。
「おい、杏子。またそんな傲慢なこと言ってんのか。」
振り返ると、つぐみが険しい表情で立っていた。栞代が慌てて間に入る。
「いやいや、杏子は優しすぎるんだよ!」
だが、つぐみは一歩も引かず、強い口調で言い返した。
「だから、その余裕が傲慢だって言うんだよ。みんな何も考えず、必死にやってんだ。なんだよ、それ」」
杏子は言葉を失い、スプーンを握ったまま俯いた。それは分かってはいるのだ。だが自分が弓を引くことで、誰かが悲しい思いをする。その葛藤は、練習試合時の、瑠月さんのことの後から、ずっと抱えていた。
自分の心に巣食う葛藤をつぐみに見透かされた気がして、反論できなかった。
団体戦はまだ、みんなが味方に居てくれて、自分のため、そしてみんなのために引く、という側面があった。団体戦ではチームのために戦えるが、個人戦ではそれができない。
団体戦の結果はみんなのものだ。だが、個人戦は違う。辞退しても誰も傷つけない――杏子はそう考え始めていた。辞退したところで誰にも迷惑は掛からない。繰り返しその考えが、浮かんでは消えた。
「杏子が決めていいんだよ。焦らなくても、まだ明日の試合まで時間はあるよ。」
栞代が改めて杏子を庇い、その背中に手を回し、優しく言った。
だが、つぐみはさらに続けた。
「じゃあ、杏子。約束してよ。」
つぐみの声は少し震えていた。だが、その目には強い意志が宿っている。
「わたしが残ってる間は、わたしに、最高の杏子を見せて。県大会みたいに、誰がどうなっても、絶対に動揺しないで。わたしだけを見てて」
杏子は言葉を失い、その場でじっと俯いたままだった。そんな中、気がついた瑠月がそっとやってきた。
「杏子ちゃん、私も県大会の時は本当にびっくりしたわよ。つぐみさんなんて、びっくりしすぎて固まっちゃってたもんね。たまたまわたしの方が早く落ち着いたけど、それは、つぐみさんがどれだけ杏子ちゃんとの戦いを楽しみにしていたかってことだもんね」
「いや、それは、わたしより瑠月さんの方が強かっただけです」
つぐみは勝ち気ではあるが、結果に対しては一切言い訳をしない。それが通じないことをよく知っているからだ。
「でも、対戦を楽しみにしていたのは事実です。杏子、いつもの杏子のように、ただ、正しい姿勢で引くことだけ、を考えて」
つぐみは杏子の肩を軽く叩いてさらに続けた。
「杏子、お願いだから、いつもの杏子でいて。『正しい姿勢で引くだけ』でしょ?」
俯いたまま動かない杏子を見て、栞代が「話は分かったから、少し一人にしてあげよう」と言った時、宿の人が杏子に電話が掛かっていると告げにきた。
「あ、おばあちゃんかな?おじいちゃんかな?」
栞代が明るく言って、杏子を電話のところまで連れていく。
栞代は少し離れて杏子を待っていた。ほんの5分ほどで杏子は戻ってきた。
二人で食堂に戻りながら話した。
「どうだった?」
「うん、おじいちゃんが最初で、おばあちゃんとも少しだけ話したよ。直接行こうかとも思ったけど、まだ明日があるからって」
「そっか」
「ちょっとおばあちゃんに会いたかったな」
「携帯だろ?かけ直してみたら? 向うは気をつかって旅館にかけたんだと思うけど、こっちからはいいだろ」
「ううん。おばあちゃんが、わたし何も言ってないのに、『正しい姿勢だけ。ね』って」
「そっか」
その言葉に栞代は頷いた。
「そうだよね。正しい姿勢で引くだけ。一番最初の基本に戻ってそれでいいんじゃない?」
席についた杏子は小さく微笑み、ケーキの残りを一口だけ食べた。そして、静かに言った。
「とにかく、もしつぐみと二人で残ったら、その時に考える。あたるかどうかはただ結果なだけだし、そもそもわたし、最初に外すかもしれないし」
「ああ、そうだよ。残ることを考えるのは、それこそ傲慢だよな。まずはいつも通り、正しい姿勢で引くことだけ考えよう」
その言葉に栞代は安心したように笑い、つぐみのところへと戻っていき、何かを伝えていた。杏子は残りのケーキに手をつけることなく、静かに部屋へ戻っていった。途中でもいいから、と欲しがっていたあかねに目で合図する。
杏子は、優しさ故の迷いと、それに真摯に向き合おうとする強さが、不思議な調和を保っていた。
背中の方で、残ったケーキをどっちが取るかで、あかねとまゆが争っているようだった。あかねが騒いでる。あの二人は大の仲良しだから、たぶん最後には半分にするだろうな。
ぼんやり杏子は思った。そいえば、あゆは、声帯にトラブルを抱えていることもあって、もともとあまり話はしなかったけど、自己主張もしない子だった。それが、今や、仲良しのあかねとケーキの取り合いでやり合うなんて。仲のいい証拠ではあるけど、それでも、なにか杏子の胸に残るものがあった。
団体優勝記念のケーキ
光田高校弓道部が団体戦で優勝した夜、夕食後に突然登場したサプライズのケーキ。その甘い祝福には、地元のみなさんの大きな協力があった。
ケーキ屋さん「Patisserie Etoile」
会場近くの商店街にある「Patisserie Etoile」は、地元でも評判のケーキ店だ。その名はフランス語で「星」を意味し、繊細で美しいケーキが並ぶ店内には、いつも甘い香りが漂っている。小さな町にありながら、人気店ゆえに遠方からも客が訪れることが多い。
この日も通常通り営業していたが、午後遅くにふとした出来事が起きた。
団体戦が終わり、光田高校の優勝が決まった瞬間、コーチの拓哉は感動とともに、「何か部員たちにご褒美を」と考えていた。だが、大会の会場では豪華な祝賀会をする余裕はない。明日の個人戦を控えた部員たちの体力や集中力を考えると、軽いサプライズがちょうど良い。
拓哉は地元に詳しい会場スタッフに相談した。
「この辺りで、ちょっと特別なケーキを買える場所、知りませんか?」
スタッフはすぐに答えた。「Patisserie Etoileがおすすめです。でも、あそこは人気だから、今からだとどうでしょう……。」
それでも拓哉はその足でケーキ屋に向かい、店主に直接頼み込んだ。
「実は、うちの弓道部が今日の団体戦で優勝したんです。ぜひ、部員たちにお祝いとしてケーキを振る舞いたいんですが、どうにかなりませんか?」
Patisserie Etoileの店主の小嶋さんは、初めは少し困った顔をしていた。
「申し訳ありません。今日はもうすぐ閉店ですし、作り置きもほとんど残っていなくて……。」
だが、話を聞くうちに拓哉の熱意に心を動かされる。
「優勝なんて、すごいですね。それなら、何とかします。ちょうど明日の準備のためにスポンジが焼き上がったところですし、急いでデコレーションすればお出しできるかもしれません。」
店主はすぐに奥の作業場に戻り、スタッフたちに声をかけた。
「皆さん、手を貸してください。優勝した弓道部のお祝いケーキです。」
店内は一気に活気づき、普段は翌日用に仕込むスポンジやクリームを急遽使って、20人分のケーキを作り始めた。小嶋さんはデコレーションの合間に、店の名前入りの特製チョコプレートを急ぎ用意し、完成品に添えた。
完成したのは、Patisserie Etoile自慢の「ミルクレーム・フレーズ」。ふんわりしたスポンジに、甘さ控えめの生クリームとイチゴがたっぷり使われている。この店の看板商品であり、地元の人々にも愛される一品だ。
「これなら、弓道部の子たちも喜んでくれるはずです。」
店主の言葉に、拓哉は何度も頭を下げた。
「本当にありがとうございます。このご恩は忘れません。」
こうして、優勝の夜にふさわしいケーキが用意されたのだった。
夕食後、突然運ばれてきたケーキ。ひとりひとりの分が綺麗にケースに入れられ、特製のチョコプレートまで添えられている。それを見た部員たちは大歓声を上げた。
「すごい! これが、あの有名なPatisserie Etoileのケーキなんだ」
沙月が目を輝かせて言うと、つぐみも「こんな立派なの、いつ用意したの?」と驚きを隠せない。
拓哉が笑いながら答える。
「試合が終わってすぐにお願いしてきたんだ。店主の小嶋さんも、みんなの優勝を祝福したいって、急いで作ってくれたんだよ。」
「それなら絶対おいしいに決まってる!」
栞代が嬉しそうにケースを開け、クリームの甘い香りが広がった。
杏子もゆっくりスプーンを手に取り、柔らかいケーキを口に運ぶ。そのふんわりとした甘さに、疲れ切った身体と心がじんわりと癒されるのを感じた。
「これ、本当に特別だね……。」
杏子がぽつりと呟くと、全員が一斉に笑顔で頷いた。
優勝の喜びを共有するケーキは、仲間たちにとって何よりのご褒美となった。そして、それを用意してくれたコーチやケーキ屋の心遣いが、明日の個人戦へ向けた新たな力となったのだった。




