第359話 卒業記念の約束と、鬼部長の微笑み
冬の光が改修されたばかりの真新しい道場に、やわらかく射していた。
板の間にくっきりと広がる陽だまりの中、部員たちが、黙々と自分の矢を拭く、布の擦れる音と、的から返ってくる乾いた的中音だけが、心地よいリズムを刻んでいる。
練習が一段落した、その瞬間だった。
道場の入り口の重い引き戸が、がらり、と開く──。
「ひさしぶり!」
その懐かしい声に、道場にいた全員が、弾かれたように顔を上げた。
声の主は、入試が終わったばかり、三年生の三納冴子と、松島沙月だった。二人とも、制服ではなく、少し大人びて見える私服姿。けれど、こちらに手を振って、笑うその顔は、引退したあの夏の日のままだった。
「うわぁっ! 冴子前親分! それに、沙月先輩まで!」
真映が喜びの声を上げ、手にしていた矢を放り出しそうになりながら、駆け寄ろうとする。
「こら、真映! 道場で大声で叫ぶな!」
あかねが、すかさず叱る。しかし、沙月が笑いながら「まあまあ、相変わらず、元気で、ええなあ、真映は」と、手を振ってそれを制した。
駆けることは断念したものの、それでも、競歩のような早足で冴子の元へとやって来た。真映が目を輝かせる。
「冴子前親分! これは、もしやクーデターですか!? 杏子親分に杯を返して、新しい組を創設するための殴り込みですか!? それで、必要になったこのわたしの引き抜きにいらっしゃったのですね!」
まだ続いている真映の任侠ブーム。物騒で意味不明な歓迎の言葉に、冴子は、呆れたように、そして、最高に楽しそうに笑った。
「……杏子。部長として、真映の教育が、全然なっとらんな」
「いえいえ、これでも、相当厳しく指導してるんですよ、真映には」
栞代が、応える。
「絶対,お前だけは、どこにも引き抜かれることはないから安心せえ」
あかねが、それに続いた。
冴子は、改めて、杏子と視線を交わす。
「試験、終わったよ。それで、やっと、こっちに顔出せるようになった」
「……! お疲れさまでした!」
杏子が、心の底から、そう言って深く頭を下げる。
「……ほんとは、ずっと来たかったんだけどね。なかなか気持ちの区切りがつかなくて。……あ、それと、みんな。あの千羽鶴、本当にありがとうね。すごく力になったよ」
まゆが、どこからか温かいお茶の入った湯呑を二つ持ってきて、そっと差し出す。
「……やっぱり、冴子先輩がいらっしゃると、道場の空気がぴりっと変わりますね」
「そりゃ、なんせ“うちの鬼部長”やったからな」
栞代がそう笑った。
しばらく賑やかな談笑が続いた後、杏子がふと、姿勢を正した。
「冴子部長、沙月さん。実は、みんなで相談していたことがあるんです」
その一言で、道場の空気が、すっと静まる。
杏子は、まっすぐに、二人の先輩の瞳を見た。
「あの、卒業記念試合のこと、なんですけど。卒業式の日に、私たち現役部員と、本気で試合をしていただけませんか?」
これまでは、記念のセレモニーとして、卒業生が、何本か思い出の矢を引くのを、後輩たちが見送るだけだった。
「今の、この、わたしたちと、先輩たちの全力で。……ただ、『お疲れさまでした』、って、言うだけじゃなくて、『これが、今の私たちの最高の姿です』という、私たちの姿を見て欲しいんです。そして、胸を張って先輩たちを見送りたいんです」
道場を、冬の乾いた風が、すうっと通り抜けていく。
冴子と沙月は、互いに、目を合わせた。沈黙が二人の返事を待った。
けれど、その沈黙は、温かかった。
やがて、冴子がゆっくりと頷いた。
「……いいね。そういうの、わたしも好きだな。……沙月、どうする?」
沙月も、目を細めて、笑う。
「ま、ええんちゃう? 面白そうやん」
「多分、瑠月さんもイヤとは言わないんじゃないかな?」
「うん。……まあ、正式に、っていうのも変だけど、瑠月さんの受験が終わってから、ちゃんと話してみるわ。今、ほんっとに、最後の直前だから」
冴子は、少し考えてから言った。
「……たださ。もし、それをやるんなら。ちょっとその日まで、ここで練習させてもらってもいいか? さすがに、身体なまりきってるから。わたしたちだって最高の姿を最後に見せたいよ」
杏子は、その言葉に、ぱっと、満開の花のように、笑った。
「はいっ! もちろんですっ!」
その、あまりにも嬉しそうな笑顔。
それを見て、栞代が何かに気がついたように、ぼそっと呟いた。
「……おい、杏子。お前、絶対『こう言えば、また先輩たちと一緒に練習できる』って、計算して、この提案しただろ」
「え、い、いやっ! そんなんじゃないよっ!」
「いや、絶対に、そんなんなんやで」
その、図星を突かれたかのような杏子の慌てぶりに、道場が、どっと笑いに包まれる。
「あ、でも」と、冴子が言った。「瑠月さん、共通テストの結果もすごく良かったみたいだし、多分、前期で問題なく決まると思うけど。今は、本当に大事な時期だからさ。……この、卒業試合の話は、わたしたちから直接伝えるから。杏子たちは、瑠月さんには、ちょっと秘密にしといてもらえるか?」
「はい。もちろんです」
杏子が、そう力強く言った、その瞬間。
一華が、ぴしっと、人差し指を立てた。
「了解しました。これより、本件は、『トップシークレット』ということですねっ」
部員全員の視線が、即座に真映へと注がれた。
「えっ!? な、なんで、そんな目で、わたしを見るんですかぁっ!?」
「……自分の胸に聞いてみな」
あかねが静かに、そう言う。
「ぐはっ……!」
真映は、胸を押さえて、その場に大げさに崩れ落ちた。
「まったく、懲りんやつやな」
栞代が笑う。
冴子と沙月も、変わらない、光田高校弓道部の日常に、堪えきれずに噴き出した。
「……うん。やっぱり、ここはいいなあ」
冴子が、ぽつりと呟く。
杏子が、その横で、心から頷いた。
「はい。また一緒に引けるのが、本当に嬉しいです」
道場の外では、白い冬の陽が、まだ眩しく、どこまでも青い空が広がっていた。
ガラス窓から、斜めに射し込む光が、畳の上に、やわらかな光の、だまりをつくる。
風がひとすじ、その光を揺らし、庭の松の葉が微かに、さわ、と、鳴った。




