第357話 ただいま、の朝
薄い朝靄が、庭の畑の向こうに、白い帯のように、たなびいていた。
夜露をたっぷりと含んだ、土の匂い。それが、開け放たれた窓から、少しひんやりとした空気と共に、胸の奥深くまで、届く。
まだ、頼りなげに響く、雀の声。遠くで、新聞配達のバイクが、小さく走り去っていく音。
杏子は、いつものように、誰よりも早く、目を覚ました。
旅の疲れは、不思議なほど身体に残ってはいない。むしろ、身体の中に、何か透明なものが、すっと一本、通っているかのような心地よい軽さがある。
寝室を抜け、音を立てないように、そっと廊下を歩く。階下から、トン、と、軽い杖の音がした。
祖父はもう起きていた。帽子までかぶり、玄関で、丁寧に、自分の靴を磨いている。
「おはよう、おじいちゃん。早いね」
「ふふん。今日は、特別じゃ。ぱみゅ子との、朝の散歩は、久しぶりじゃからなあ」
朝の光を、たっぷりと、吸い込んだみたいに、祖父の声は、弾んでいた。
洗面所へ向かう途中、杏子は、隣の客間の襖をそっと、開けた。
「……栞代、まだ寝てる?」
布団の中で、もぞ、と大きな影が、動く。
「んー……。あと、ごふん……」
「ふふっ。昨日は、遅かったもんね。ゆっくり寝てていいよ?」
しばしの沈黙。布団の中で、大きく息を吸う音がした。
次の瞬間。がばっ、と、まるで、バネ仕掛けのように、栞代が起き上がった。
「いや、行く。……行くに、決まってるやん」
「え、でも、無理しなくても、いいんだよ?」
「行く言うたら、行くねん!」
まだ、寝ぼけ眼のまま、長い髪を手早く一つにまとめ、上着を羽織って、彼女は階段を降りてくる。
玄関で、すでに出発準備を完了させて、待ち構えていた祖父を見つけ、栞代は、苦笑した。
「……おじいちゃん、準備、早すぎっ」
「ふふふ。普通じゃ」
三人は、顔を見合わせて笑い、まだ薄暗い門の外へと、出た。
朝の道は、静かだ。
田んぼの水面が、東の空から差し込み始めた、最初の光を受け、金色のさざ波を立てている。軽い風が、稲わらの乾いた匂いを運び、まだ深い眠りの中にいる、家々の屋根を、優しくすり抜けていく。
杏子は、祖父の少し小さくなった背中を見ながら、その歩幅に合わせて、ゆっくりと歩く。隣で栞代も、無言でその穏やかなペースに、揃えてくれた。
「……こうして、三人で歩くのも、久しぶりやな」
祖父が、そのことに気づき、少し、嬉しそうに、頷く。
「うん。修学旅行の前は、ずっと、雨続きだったもんね」
「ぱみゅ子はな、ちっこい頃から、この、朝の散歩が好きやった。幼稚園の頃から、毎朝こうして、二人で歩いとったんじゃ」
「えっ、ほんとですか?」
栞代が、驚いたように、声を上げる。
祖父は、待ってましたとばかりに、得意げに続けた。
「そりゃもう、こっちにとっては、毎日が修行じゃったわい。途中で、カエルを捕まえようとするし、急に蝶々を追いかけて、走り出すし……」
「おじいちゃん! もう、そんな話、いいから!」
杏子は顔を真っ赤にして、笑いながら軽く抗議した。
「ええじゃないか。可愛い、思い出や」
「……おじいちゃん、朝から、よう、しゃべるなあ。元気やなあ」
栞代が、肩をすくめる。
「それがいつの間にか弓道を始めるようになって、朝の散歩が極端に減っていくのじゃ。わしはそれが寂しくて、実は一昨年はわざと倒れたのじゃ。あっはっはっ」
「ん?」
「おじいちゃん、言っていい冗談とアカン冗談あるの知らんのかっ」
栞代の口調が厳しい。
杏子が悲しそうに呟く。「いつでも散歩ぐらいするから、もう絶対に倒れないでよ。約束してっ」
杏子の目が赤い。
「あっ、いや、その、すまんすまん。もう元気じゃ。大丈夫。ちゃ~んと、ぱみゅ子が旅行中も散歩しとったんや。ほれ、ほんまやで。これ見てみて」
そう言って、杏子の旅行中、一人で散歩している様子の動画を慌てて見せた。
「うん・・・」少し安心したのか、杏子は落ち着いて返事をした。
「ふ~。どうやら元気を取り戻してくれたようじゃな」
「意外と杏子のこと、分かってないからなあ、おじいちゃんは」
「う・・・・」
「でも、ちゃんとアリバイ証明の動画を撮ってたのはえらい。あとで、最初から最後まで何分散歩してるのか、チェックするからな」
栞代が厳しい。
「そやけど」
「そやけど?」
「わし、褒めてもらおうと思って撮影したのに、失地回復にしかならんとは。計算外じゃのう」
「おじいちゃん、それを、自業自得って言うんやで」
栞代と祖父のいつもの会話。杏子はいつの間にかケラケラ笑ってた。今泣いたカラスが・・・・・。
家に戻ると、玄関の引き戸の隙間から、もう香ばしい、幸せな匂いが流れてきていた。
「うわっ! なんだか、すごくいい匂い!」
「用意しておくから、シャワー浴びておいで」
今日は授業はないので、少し時間にも余裕がある。二人は急ぎシャワーを浴び、食卓に戻ってきた。
二人にやいのやいの言われて、続けて祖父もめんどくさそうにシャワーを浴びる。
台所では、祖母がエプロン姿で立っていた。
湯気の立つ熱々の味噌汁、焼き加減が完璧な鮭の塩焼き、美しい、黄金色のだし巻き卵、そして、艶のある白いごはん。
「うわあ! 朝から、すごいご馳走やん!」
「いっぱい、歩いてきたんでしょう。しっかり、食べないとね」
祖母の優しい笑顔に、杏子と栞代は、思わず顔を見合わせた。
「おう。ちゃんと、ワシの分、大盛りになっとるな。ええこっちゃ」
祖父が、咳払いをして、椅子に腰を下ろす。
杏子は、炊き立てのごはんを、一口、頬張った。
「……んーっ! やっぱり、おばあちゃんのごはんが、世界で、一番、美味しいね」
そして、続けた。
「……たしか昨日も、いや、考えたら、毎回同じこと言ってんな、杏子は」
「だって、美味しいんだもん」
「お、おう……」
栞代は、箸を持ったまま、衒いのない真っ直ぐな言葉に、目をそらした。
杏子の幼い真っ直ぐさだが、すぐに素直に表現できる、栞代はそのことを少し羨ましく思った。




