第356話 ただいまと、おかえりの夜
祖父の運転する車が喧騒を離れ、見慣れた夜の街へと静かに滑り出していく。窓の外を、色とりどりの街の灯りが、まるで、夢の残像のように、次々と後方へと流れていった。それは、非日常の終わりと、日常の始まりを告げる、優しい合図に見えた。
後部座席には、杏子と栞代。
助手席に座る祖母が、何度も心配そうに、後ろを振り返っては微笑む。
「二人とも、本当にお腹は大丈夫? お昼から、ほとんど何も食べていないでしょう?」
その、柔らかな心配の言葉に、杏子は、少しだけ照れたように笑った。
「ううん。大丈夫。帰りのバスの中で、みんなで少しだけお菓子を食べたの。かるかん饅頭と、干し芋と、あと、黒糖のかりんとう。でも、栞代は?」
「いや、大丈夫や」
「ほう。修学旅行中に、買い込んだやつか」
祖父が、ハンドルを楽しそうに軽く叩く。
「うん。みんなで少しずつ分け合って食べたの。……なんだか、ずっと修学旅行を続けたくて」
「ま、ええこっちゃ。名残惜しい、と感じるくらいが、ちょうどええんじゃ」
栞代が笑って肩をすくめる。
「まあ、終わって五分で『さあ、次の練習』なんて言う子は、世界中探しても杏子ぐらいのもんやけどな」
杏子は、親友の茶化すような言葉に、笑いながらも、揺るぎない決意を浮かべていた。
「中田先生、開けて待っていてくれるって言ってくれたから。それに、なんか、弓にも“ただいま”させたくて」
「弓が“ただいま”ねえ。なんかずっと弓と一緒に居るみたいだな」
祖父が後ろのミラー越しに目を細めた。
「ええ、ええ。ほな、一旦家帰って、荷物置いたらすぐ出掛けよか」
「ありがとう、おじいちゃん」
道場の心許ない一つの灯りが夜の闇の中に見えてきたのは、午後八時を少し回った頃だった。
静寂の中に、木造の、美しい屋根のシルエットが、しんと浮かび上がっている。玄関の灯りの下で、中田先生が、温かいお茶を片手に待っていた。
「おかえり。修学旅行、どうやったかな?」
「はい! とっても楽しかったです! 先生、夜分に無理を言って、本当にごめんなさい」
「かまわん、かまわん。……それより、聞いたで。鳴弦館の篠宮かぐやと、ガチガチに、やり合ったんやってな?」
「「えっ!?」」
なんで、それを知ってるんですか。杏子と栞代は、同時に驚きの声を上げ、振り返った。
「ふふっ。伊達に,この世界で長く生きてはおらんよ」
そう言って、中田先生はいつものように、豪快に笑った。
杏子は、その言葉に素直に頷くと、丁寧に、そして深くお辞儀をして道場へと入る。栞代も、荷物を置くとその後に続いた。
道場の中は、あたたかい木の匂いと、凛とした静寂に満ちていた。
床に落ちる、電球の光が、二人の影を細く、長く、伸ばしている。
杏子は、ゆっくりと自分の弓を取り出し、静かに弦を張った。
「……なんだか、慌ただしい旅をさせちゃったね」
杏子が弓に声をかける。
びぃん、と、弦が鳴る。
その乾いた音が、道場の空気を、優しく震わせた。
旅先で見た、南国の青い海と、雄大な空。好敵手、かぐやのあの、燃えるような声。鳴弦館高校の、あの荘厳な道場の風景──。それら、全ての記憶が、この一本の弦音と共に、一気に胸の奥へと溶けていくようだった。
放たれた矢は、夜の静寂を切り裂き、真っ直ぐに的へと向かう。
乾いた、心地よい的中音が響き渡り、杏子の肩から、小さな安堵の息がこぼれた。
「うん。……ただいま。帰ってきたよ」
その後ろでは、栞代がゴム弓を手に、姿勢を入念にチェックしている。
「栞代。お前さん、ちょいと、良くなっとるな」
中田先生から、不意に言葉が掛かる。
「あの鳴弦館高校はな、流派の伝統を大事にしてるというか、中央に逆らってるというか、時代錯誤な頑固な高校や。だが、今、日本であそこまで徹底して斜面打起しを養成できる高校は、他にあらへん」
口の悪い中田先生らしい表現だった。
「はい。本当に、勉強になりました」
「拓哉も頂点の一つやけど、そこに至る道は一つやない、ということや。必死やからこそ、違う視点からのアドバイスも生きる。……杏子より、むしろお前さんの方が、今回の旅は実りがあったかもしれんな」
ぎょろりと栞代を睨んだかと思うと、中田先生はいきなり豪快に笑いだした。
「ガハハハ! 情けは人のためならず、や。杏子のためを思ってしたことが、巡り巡って、自分に大きくなって返ってくるんやで。ガハハハ! 」
(……そうか。偶然がいくつも重なったとはいえ、先生は全部お見通しやったんや)
そして、栞代は思う。(拓哉コーチにも、早く、この感覚を見てもらいたい)
静寂の中、ゆっくりと、杏子の矢が的を突き刺す音が響く。
夜の空気が、少しずつ、少しずつ、透き通っていった。
「あー。もうこんな時間まで。ねむとーてかなんわ」
「す、すいません先生。ありがとうございました」
「かまんかまん。またいつでもおいで。杏子の矢見てたら、若返るわ。ガハハハハハ」
どっちやねん。先生の口の悪さには慣れているけど。栞代は心の中で突っ込むが、もちろん、口は当然、表情にも出すことはない。
練習を終え、ようやく家に戻る。
祖母が用意してくれていた、温かい、軽い食事が食卓に並んでいた。
出汁の香りが優しい、茶粥と湯豆腐。わかめの味噌汁。そして、完璧な半熟のゆで卵。
「もう遅いからね。とりあえず、これでお腹を落ち着かせて。朝しっかり食べましょうか」
「ありがとう、おばあちゃん」
祖父は、ルイボスティーの入ったポットを持って現れた。
「今はこれを飲むんやで。わしのとっておきの紅茶は明日の朝にお預けやな。今日は早く寝た方がええしな。とびっきり、美味しいのを淹れるでな」
と、得意げに言う。
杏子は、湯気の立つ茶粥を、一口、口に運び、そして、笑いながらも、少しだけ目を潤ませていた。
「……やっぱり栞代と一緒に食べる、おばあちゃんのごはんが、世界で、いちばん美味しいね」
「う・うん・・・・」
少し遠慮している栞代に対し、祖父が「何照れてんねんっ」と少しずらしてつっこんだ。気をつかわなくていいんだ。祖父はそう伝えようとしていた。
「……別に、照れてないけど」
栞代は、少し真面目な顔で、そう、応えた。
その時、祖母が二人の後ろにそっと立ち、それぞれの髪を優しく撫でた。
「おかえり、杏子ちゃん。……おかえりなさい、栞代ちゃん」
その「おかえりなさい」。
その声に、杏子と栞代は、小さく頷き、そし、もう一度、声を揃えた。
「「ただいま」」
食器を片付け、風呂を済ませた後。時計の針は、もう二十三時を回っていた。
祖父母は、杏子と栞代が二階への階段を上がるまで、黙ってその姿を見送っていた。
リビングに戻り、祖父がゆっくりと、紅茶を口に含む。
「あら。それは、明日の朝、淹れるって言ってませんでした?」
祖母が突っ込むと、祖父は「わしは、ええねん。この時間に飲むのも慣れとるからな。それより、やっぱり家族は一緒が一番やな」と応えた。
窓の外では、冬の静かな夜風がそよいでいる。
長かった修学旅行の終わりと、そしてまた、新しい日常の始まりが、一つの穏やかな夜に、ゆっくりと溶け合っていく。




