第353話 頂の静寂、二つの弦音』
「競射ってなに?」
遥があかねに聞いた。澪もあかねの方を見ている。
「サドンデスってこと。外した瞬間に終わる。ま、サッカーのPK戦を決まるまで続けるってところか」
あかねが、腕を組んだまま遥と澪に説明する。射位の空気が、ぴんと張り詰めた糸みたいになっていた。
「あ、的も変えるな」
「めちゃくちゃ小さくなってるやん」
「三分の二だけど、もっと小さく見える。たしか本来は4射で勝負が付かない時に変えるんだけと今回はいきなりだな」
「バスの時間がありますから」
紬が冷静に言う。
「今回はわたしとソフィアも特例で来てますから、さすがに集合時間に遅れる訳には行きません。わたしの課題です」
いつものセリフのアレンジに、あかね、まゆ、ソフィアはにんまりしたが、遥と澪はきょとんとするばかりだった。
祖母はいつもと変わらず穏やかに笑顔を浮かべていた。祖父もいつも通り顔面蒼白になっていた。
そいえば、瑠月さんが側にいてあげてたっけ。
思い出したまゆは、ゆっくりと祖父のとなりに座り、瑠月と同じように背中を優しくさすった。
「大丈夫ですよ」
二人の影だけが、時間を支配していた。
杏子は矢を番える。
かぐやも、同じ呼吸で番える。
どちらも、相手の動きを見ていない。
ただ、矢の前にある「静寂」だけを見ていた。
——放たれた。
ひとつの弦音が、道場をかすめる。
矢は、ほぼ同時に的を射抜く。
呼吸の音が聞こえない。
かぐやの指先には、ほんの一滴の汗が光った。
矢が走る。
音が完全に重なっていた。
「綺麗だ……」
まゆの呟きが、消えるように空気に溶けた。
かぐやの頬を、風が撫でた。
杏子のまつ毛が、かすかに震えた。
二人の姿勢は、最初から変わらない。
打ち起こしの角度も、弓の傾きも、
呼吸の流れまでも——同じ。
離れ。
びしゅっ。
紙が裂けるような音。
二つの矢が、ほぼ同じ場所を穿つ。
——まだ、決まらない。
祖母が使っていた弽。杏子に力を与える。
かぐやも、大事なものお守りを身につけている。
放つ。
弓の音が、火の粉みたいに弾けた。
両者中り。
もう、何本引いたのだろう。
杏子も、かぐやも、矢を引くたびに
世界がひとつ小さくなっていく気がした。
時間が止まるのではなく、
時間が“吸い込まれていく”ようだった。
誰もが動けなかった。
「これ……いつ終わるんだろ」
あかねの声も震えていた。
杏子の弓が、かすかに鳴る。
かぐやの弓も、同じ呼吸で震える。
——まるで、互いの心が共鳴しているようだった。
矢が放たれるたび、
風が少しだけ動き、
空気がまた戻ってくる。
そしてまた、二本の矢が、同じように刺さる。
もう、誰にも数えられなくなっていた。
だが、二人は微動だにしない。
杏子は足踏みで土を踏み、弓手の中指と親指が“輪”をつくる。打起しは静かで、大三は低く、肩線が一本の糸になる。会――呼吸がすっと沈み、離れは刃のように細い。
ピシ。乾いた音。
かぐや。
斜面の角度が美しく出る。大三は大きく、胸の“中”が据わり、引分けで背中が広がる。会は短く、濃い。
カン。澄んだ音が梁に返り、こちらも白。
譲らない。拍手は出ない。誰も、音を壊したくなかった。
杏子の袖口がふわりと揺れ、弦の匂いがかすかに立つ。
ピシ。
かぐやは眉一つ動かさず、弓を“返さない”残心で矢先を遠くへ伸ばす。
カン。
小さい的が、さらに遠くへ退いたように見える。
杏子は視線だけを的に置き、体は的を見ない。
ピシ。
かぐやの会が一拍だけ長くなり、空気がそこで止まる。
カン。
あかねの喉が、ごくり、と鳴った。
遥が無意識に澪の袖をつまむ。
杏子――離れ。
ピシ。
かぐや――離れ。
カン。
小さな紙片が、矢風にかすかに揺れた。誰かの心臓が揺れたのかもしれない。
杏子の左拳の角見が生きる。
ピシ。
かぐやの肘が遠く、肩が落ちる。
カン。
息を吸うのが怖いほどの静けさ。
杏子の会は水面。矢所、ぶれない。
ピシ。
かぐやの離れは音でなく“光”のように鋭い。
カン。
――互いの射の所作は研ぎ澄まされ、的紙の音だけが時間を刻む。
足踏みの幅は変わらず、打起しの高さも変わらず、会の深さだけが少しずつ深まっていく。
弓は返る者と、返さない者。残心の形が違うのに、矢だけは同じ中心を貫いた。
ピシ。カン。
場の空気は次第に“音のない拍手”で満たされていく。
遥が小声でつぶやく。「永遠に続くんちゃう……?」
澪は頷くしかなかった。
――まさに、永遠に続くと思われた。
小さな的の白い円が、いつからか夜空の月のように見えはじめる。
的を何度変えたことだろう。
杏子の指先に汗。袖の木綿が、す、と鳴る。
かぐやの視線が遠くで一点になる。
ピシ。カン。
誰かが息を吐いた音が、やけに大きく聞こえた。
それでも二人は、ただいつものように矢を番え、いつものように会を満たし、いつものように離れた。
ピシ。カン。
もう、何本引いたのだろう。
時間の感覚は薄れ、矢数の記憶は溶けていく。
これは、勝負だったっけ。
ただただ、美しい矢と、その矢に噛みつく激しい矢。
その姿だけで。
ふっと、東雲監督が一歩進み出た。審判長へ視線を送られ、短く頷き合う。
「――よし、時間切れ。引き分け」
その声が初めて、道場の静けさに線を引いた。
二人の残心だけが、ほんの少し遅れて、静かに終わった。
杏子はゆっくりと弓を下ろし、深く息を吐いた。
かぐやは、肩でしていた呼吸を整えながら、吠える。
「まだ勝負は終っちょらんど!
時間切れっち、なんやっせ!
うちは、まだ引くっが!!
杏子、逃げっとや!?
もう、おはんはここに住まんか!
こげん気張いよか引き、滅多にでけもはんど!!
引っ越せっど!!」
「おはんと弓ば引いちょいどっ!!
こげん気張いよか相手、二度とおらんど!!
わたしの言うこっ、聞けもせんとや!?
わたしば誰やっち思っちょっとか!
篠宮かぐやじゃっど!!黒曜練弓流の家元の孫ど!!」
多分杏子は半分ぐらいしか分らなかっただろう。
「かぐやさん、本当にありがとうございました。すごく楽しかったです」
その言葉を聞いて、さらに吠えようとした瞬間、かぐやの管理人、鷹匠篝が来て、首相の真壁妃那と共に、かぐやを連れ去った。
「お前は、破門の身じゃろうが」
「杏子さんありがとう。あとは任せて」
「こらぁっ、離せっち言っちょっど!!
うちは、まだ杏子と引くっがぁ!!
邪魔すんなぁ!!
離せっち言うとっじゃっどぉ!!」
ずるずると、まるで大きな駄々っ子のように引きずられて道場から消えていくかぐやの姿。
少し変わった別れの挨拶に、杏子は堪えきれずに、けらけらと楽しそうに笑いながら、頭を下げた。




