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ぱみゅ子だよ~っ 弓道部編  作者: takashi
2年生
352/433

第352話 女王の挑戦と、二つの頂

鳴弦館高校の実戦形式の練習が始まった。道場にはぴんと張り詰めた糸のような心地よい緊張感が満ちている。数十人の選手が五人一組になり、団体戦の射順通りに静かに、そして流れるように弓を引いていく。


杏子は部長である真壁妃那の指示に従い、その練習の輪から離れた端の的を指定され、そこで静かに己の射と向き合っていた。


鳴弦館の実戦練習の一周目のが終わったその時だった。音もなく杏子の背後に一つの影が立った。篠宮かぐやだった。


「相変わらずきれかな姿勢しちょんなぁ、杏子」

その独特の南国らしいイントネーション。


「じゃっどん"きれか"と"強か"は、まっこて別もんじゃっど。せっかくこげん遠くまで来たっじゃっで、そいば今日特別に教えちゃっど。……まさか杏子。こげん来て挨拶だけしてそんまんま帰っど思っちょらんどな?」


「え……?」

杏子は驚いてかぐやの方を振り返った。その瞳はもう完全に獲物を前にした狩人のそれだった。


「今からわいと勝負すっど言うちょっど! はよ用意せんか!」

「ちょ、ちょっとかぐや!」

栞代が慌てて二人の間に割って入る。続いて真壁部長も困った声でその輪に加わった。

「ちょっと、かぐや。あんた、なに言っちょっとね。杏子さんには予定しちょる練習時間もあっど。あとん時間までは自由に引いでもろてよかっち話やったじゃなかね。」


「あほか妃那!」

かぐやはきっぱりとそう言い放った。


「こげんまま気持ちよう帰したら、うちらの手の内ばぜ~んぶ気持ちようさらすだけのごたんなるやろが。『鳴弦館にはわっぜ(とても)勝てん』ちゅうことば、その身体に直接叩きこんどかなあかんど!」


真壁は、この言い出したら聞かない女王様(かぐや)の性格を誰よりもよく知っていた。彼女は助けを求めるように東雲監督の方に視線をやった。


監督は「……部員と杏子さんがそれでもよければ時間を取ろうか」と一応言った。だがこの鳴弦館で篠宮かぐやのこの「本気」の眼差しに逆らえる部員など一人もいない。


「……杏子、どうする? 断るならオレがちゃんと言ってやるけど」

栞代が杏子の耳元で囁いた。


「……ううん。大丈夫」

杏子は静かに首を横に振った。そしてかぐやを真っ直ぐに見つめ返した。


「かぐやさんを始め、鳴弦館高校のみなさまのご好意でこうして練習もさせてもらいました。かぐやさんが望むならわたしもその恩に応えたいです」


「……よう言うたな杏子」

かぐやの口元に満足げな獰猛な笑みが浮かんだ。

「よか。うちの本当の強さば土産に持って帰っがよか。……このわいが直々に胸ば貸しちゃっど」


かくしてあまりにも突然に、しかしどこか必然であるかのように。頂点を争う二人による一対一の真剣勝負の幕が切って落とされた。


道場の中央に二人が並び立つ。その瞬間、見学ルームの空気も一変した。

「おいマジか。試合するぞ。杏子のやつあの篠宮かぐやと」

「あの子そんなに強いのか?」

遥が尋ねる。


「ああ。間違いなく今の高校女子弓道界のトップの一人だ」

あかねが解説する。


「……杏子は?」

「杏子ももちろんそのうちの一人だよ。……もしかしたらとは思ってたけど。これはとんでもないものが見れるぞ。遥、澪。あんたら杏子の本当の姿見たいって言ってたな。今日見れるぞ」


杏子の祖父もそれまでのおちゃらけた応援ムードを完全に消し去り、ただ静かに孫娘のその小さな背中を見つめていた。


道場が静まり返った。


矢束の長さほどの間隔をあけて向き合う二人。その間に張り渡されているのは弦ではない。互いの研ぎ澄まされた「気」そのものだった。


杏子は正統なる正面打起し。対するかぐやは斜面に構え、滑らかな身体の回転で美しい縦線を保つ。


二人の静かな呼吸が道場の古い木の匂いと松脂の清浄な気配にまぎれて溶けていった。


一射目


杏子の足踏み。その足袋の裏がまるで大地に根を張るかのように射場の土を静かに、しかし確かに掴む。胴造り。彼女の身体がそれ自体一本の揺るぎない矢となった。取懸け、手の内。左拳の中指と拇指が完璧な"輪"を作り、肩の力がすっと抜ける。打起し──肩先に薄い風の皮膜を感じる。大三は低く、しかし淀みなく。引分けで背中の眠っていた筋肉が目覚め、そして会。


その会はどこまでも静かな水面。丹田に置いた一つの石が決して動かない。

離れ。それは切れと表現するしかない鋭さ。


ピシィ──。


矢は狙い澄ました一本の光の糸のように的の中心を穿った。的紙が乾いた短い悲鳴を上げて応える。


すかさずかぐや。足踏み。土のざらりとした抵抗が彼女の足の指先にまで伝わる。打起しは高く、その斜面の角度が彼女の気性の激しさを象徴するかのように凛と映える。大三は大きく天を抱くように。引分けで肩甲骨が左右に滑らかに流れ、弦と背筋が引き合ったまま凍りつく。

会は短い──だがその一瞬に全ての力が凝縮されている。


パシンッ。


音が軽やかに跳ね、矢が的の中心へと吸い込まれていった。

二つの中り。静かな、そして完璧な均衡。


「あ、あれ杏子だよな・・・・。すげえ。まるで別人じゃねーか」

遥、そして澪も、まさに"宇宙人" を見ていた。


二射目


杏子はその視線だけを的へと置き、身体はもはや的を見ていない。来る日も来る日も磨き上げた身体の細部が意識せずとも、勝手に正解を選び取っていく。

会。唇がわずかに濡れている。

離れは鞘から抜き放たれた細い刃。


ピシィッ。


矢所は一手目と寸分違わず重なるように中心のやや上。呼吸は乱れない。杏子の頬が興奮で少しだけ色づいていた。


かぐやは眉一つ動かさない。杏子の弦音のその美しい余韻を断ち切るようにすっと立つ。打起しのその終わりで肩が決して"浮か"ない。肘が遠くを円で撫でるように動き、弓が自然に開いていく。

会。その口角がほんのわずか獲物を前にした獣のように上がったかに見えた。

離れは鋭い──紙を一気に引き裂くような音。


カンッ!


矢はまるで紙縒を穴に通したかのように的心を完璧に貫通した。

譲らない。譲る気配など微塵もない。道場の空気が言葉よりも密に、そして重くなっていく。


三射目


杏子の左手首が微かに汗ばむ。袖口の木綿が肌にすれる。足踏み。その汗の湿った気配ごと大地に踏みしめ、身体を据え直す。打起し。肩甲骨の間に"すきま"ができそこに新しい空気が通った。

会。的との距離がぐっと縮まる錯覚。

離れ。


ピシイィ──ッ。


矢のその尾が一切揺れない。的の向こうで安土の土が少しだけ弾ける鈍い響き。三つ目の白。


かぐやは視線を落とさない。足踏みの幅が紙一枚分だけ広がった。それは「攻め」の意思表示。引分けで胸骨がわずかに解放され、呼気が深く腹の底へと落ちていく。

会はいつもより長い──しかしそこに弛緩は一切ない。

瞬きほどの一瞬、肩が沈み離れが出る。


パァンッ。


乾いた最高の音がした。矢所は中心の右半指。そのわずかな修正すらも一つの「美」として完結している。


三対三。観客席からはもう拍手は起きない──この神聖なまでの空間では、いかなる音も野暮だと誰もが知っていた。


四射目


最後の一本。

杏子は自分の内側だけに耳を澄ます。

(……最高の姿勢を。見せるだけ。)

足踏み。土のひんやりとした感触が足袋を通してすねへと上がってくる。

会。世界が狭くそしてどこまでも静かになる。自分の鼓動の音さえもが──消える。

離れ。


ピシッ。


矢はただの一本の線となって中心へと突き刺さる。杏子の弓は美しく大きく"返る"。左手の角見が完璧に効きその残心に一滴の乱れもない。


かぐやが受けて立つ。足踏み。砂利の小さな粒が一つ靴裏で転がった。だが彼女は気にしない。

会。短い。けれどその一瞬は永遠のように満ちている。

離れ。


カァンッ──!


まるで金属の澄んだ鐘のような中り音。その音が道場の高い梁を伝って返ってくる。


かぐやの弓は返らない。彼女はあえてそれを"返さない"。その残心は矢の先へとどこまでも伸びていき、そのまま的の向こうの空へと抜けていくようだった。


四対四。


審判の白い旗が二本同時に揚がったまましばらく降りてこない。静寂のその奥の奥で誰かの喉がごくりと鳴った。


道場に漂う松脂の匂い、弦のわずかに焦げた香り、そして安土の湿った土の匂い。その全てが二人の間にだけ存在する熱い温度となっていく。


ここから先はただ一本の矢だけがこの完璧な天秤を傾ける。


だが今はまだ──。頂に立つ者同士だけが知るその孤高の高さの静けさがそこにはあった。


「競射しよか」東雲監督の声が静かに響いた。


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