第351話 鳴弦館高校・合同練習その1
午後の光が西へ傾き始めたころ、鳴弦館高校の弓道場に一斉の号令が響いた。
「礼!」
数十名の部員が一斉に頭を下げる。
その動きにはまったく乱れがない。一糸乱れぬという言葉を表現しているようだ。
真壁妃那主将が、杏子たちに向き直った。
的をひとつ空けますけん、杏子さん、どうぞおつこいください」
杏子はすぐに首を振る。
「いえ、そんな……。せっかくの練習時間ですし、混ぜていただければ、それで充分です。できるだけご迷惑にならないようにします」
「気にせんでよかですよ」と真壁は微笑んだ。
「言い出したらきかんよ、杏子は」栞代が口を挟む。
「うっちの稽古に混ぜて、たまげさせてやっがよ!」
篠宮かぐやがニヤリと笑う。
こうして光田高校の二人は、鳴弦館の通常練習に加わることになった。
場の空気が一気に引き締まる。号令とともに、八人ごとに分かれて動き出す。
息を合わせ、矢を持つ手が上がり、弓がしなり、静寂の中に弦の音が重なっていく。
“ぴん”という張り詰めた音が続くたび、見学ルームの空気が少しずつ震えた。
その見学ルームのドアが静かに開く。
「失礼します」
祖母の声だった。杏子の祖父母が入ってきた瞬間、あかねとソフィア同時に立ち上がる。
「お、おばあさん!?」「"Oletteko tulleet tänne asti?"(ここまで来たんですか?)」
祖父母は軽く会釈し、祖母が柔らかく言う。
「みなさん、この練習ができるように、お世話をおかけしました。ほんとにありがとうございました。杏子が旅行に参加できるように尽力していただきまして、ほんとに、ほんとにありがとう」
丁寧に頭を下げ、そして、手にした包みを差し出した。
「これ、差し入れです。あとで食べてね。デザートは冷やすといいかも」
祖父がうれしそうに頷く。
「みなさん、今日の観光は? 」
「あ、その、杏子部長が弓を引くところを見ていたくて」
まゆが応えて、全員頷いた。
「一緒じゃのう」祖父は莞爾として微笑んだ。
遥と澪は顔を見合わせて、声をひそめる。
「……行動力、すごすぎない?」「てか、どんだけ溺愛してんねん」
笑いながらも、その眼差しには、呆れながらも、少し羨んでもいた。
「お、初めまして。ぱみゅ子の祖父ですじゃ」
「ぱみゅ子?」
「杏子のこと」あかねが耳元で囁く。
「岸本遥です」「宮下澪です」
「杏子さんと同じ班で、二人ともテニス部で、ダブルス組んでます」
「杏子さんの本気の弓を見たくて、観光よりも価値があると思って」
「ほっほっほっほ。正解じゃ。いい子たちじゃのう。いつでも紅茶を飲みにおいで」
そう言って祖父は祖母の横に座り、道場の方へ、双眼鏡を出して見つめていた。
祖母は、二人の方を向いて頭を下げていた。
弓道場では、すでに鳴弦館の練習が本格化していた。伝統校らしく「根性を鍛える系」の練習は確かにあったが、もちろんそれだけでは終わらない。呼吸、姿勢、射のリズムを分析する理論的メニューも緻密に組まれている。「気合い」だけではなく、「再現性」と「理屈」で的中を積み上げる。それが鳴弦館の強さだった。
全体での準備運動、というには少しハードなものだったが、そのあとは、グループに別れて、ローテーションでの練習になった。
杏子と栞代は、同じグループにしてもらった。並んで弓を手に取る。矢を番え、弓を立て、打ち起こし。射型のチェックだが、斜面打ち起こしが基本の鳴弦館高校において、杏子は、現在の日本高校弓道界の正統派、正面打ち起こし、射法八節の流れを守りながら、呼吸で体を整える。
練習のペースは確かに速い。号令の間が短く、休憩もほとんどない。人数の多さの違いもあり、それは「理」に叶った練習速度だ。だが、杏子たちも表情ひとつ変えず、ペースに付いて行っていた。
次第に鳴弦館の部員たちの視線が二人に集まる。同じ斜面打ち起こしの栞代の動きに、数人が息を呑んだ。「体幹がぶれない……」そんな声が聞こえる。
続いて、鳴弦館名物の「体力トレーニング」。腕立て、弓引き筋の持久走、姿勢維持の静止。杏子と栞代は、それを軽やかにこなした。まるで音楽に合わせて体を動かすように、二人の呼吸が揃っている。
時々行う合同トレーニングでの他校の生徒なら途中で音を上げるメニューを、当たり前のように最後までやりきる。
かぐやが腕を組んで「部長やから当然や。それと栞代もレギュラーやからな」とぼやく。
真壁が小さく笑って「なんで悔しそうなん」と囁くと、
「悔しいわけあるか!」と返しながら、かぐやの眉がぴくりと動いた。
「……やっぱり、すごいね」
鳴弦館の一年生が呟いた。二年生が「合同練習で、ここまで合わせられたの、初めてやな」と続く。
このあと行われたビデオ分析と心理トレーニング。杏子と栞代は、その日の分だけ特別に受けさせてもらった。映像に映る自分の射を真剣に見つめながら、杏子は頷く。的中の瞬間の軌跡を丁寧に追い、説明される。
「すごい……分析、細かい」と呟いた。「一華連れて来たいな。参考になるはずだもん」
真壁が隣で笑う。「研究部門の先生が、手伝うてくださっちょっです」杏子は素直に感動していた。「うちはこれからなんです」
やがて、的前の練習に移る。鳴弦館の射場は静かで、風の流れさえ一定に感じるほどだった。真壁が号令をかけ交代していく。杏子の番になり彼女が一歩前へ出た。弓を立て、うち起こし、引き絞り——放つ。矢が風を裂く音とともに、的の中心に突き刺さった。
場が一瞬、止まった。矢を抜きに行く部員の足音さえ遅れるほど、空気が凍りつく。
その後、静かなざわめきが広がっていく。「すごかっど?」全国大会で光田高校と対峙したメンバーが、ライバルの実力を、後輩たちに告げる。
真壁は小さく息を吸い、部員たち、特に鳴弦館高校では少数派の、正面打ち起こしを行う部員に伝える。
「みんな、今ん射を目に焼きつけちょきなさい。ここまでの姿勢は、ここじゃなかなか見られんとですよ」
かぐやだけが腕を組んだまま、横を向いた。
「見らんでよか! うちは栞代教えっど! おまんらは勝手に学ばんか!」言葉とは裏腹に、視線は杏子の放った矢の先に止まっていた。
その後、栞代は、かぐやに直接教えを受けていた。 鳴弦館は“斜法打ち起こし”を基本とする。地元流派の影響、創設時の状況、理由はあるが、ただ、現在の射法八節、正面打ち起こしを敵視している訳ではない。
肘の角度、手首の返し、腰の送り。微妙に異なる。しかし、その違いを栞代は面白がるように吸収していた。光田高校にも拓哉コーチが存在し、かなり優秀なコーチではあるが、鳴弦館高校の指導体制に対し、質はともかく、量では圧倒的に及ばない。
「多分言い方はちゃっどん、根っこは一緒やっど」かぐやが笑う。口は悪いが、動作の一つ一つを丁寧に指導してくれる。「今ん力の抜き方、よかごたる。そいが弓道の心ばい。」
栞代に向ける視線は自然と師匠のものになっていた。
「栞代は、ほんに飲み込みの早か〜。こいは油断でけんどなぁ……。
じゃっどん、愛弟子にゃなんもかんも教えんと、師匠とは言えもはんど!
弓ば的に当てる最後のコツば教えちゃっで。
そいはな、好きな人ば思い浮かべて引くこっじゃっど!
こいは高等テクニックじゃっで、
下手んうちは気が散っでどげんもならんど〜!
がっはっはっはっはっ!」
かぐやは豪快に笑うも、栞代は「は、はあ・・・」としか応えられなかった。
対して、弓道場の一角では、鳴弦館の中では珍しい正面うち起こしの部員たちが、杏子に声をかけた。
「もしよかたら、うちらの姿勢、ちょっと見てくれませんか?」
「えっ、わたし?」
「はい。先生方も教えてくださっですけど……杏子さんの射を見て、どげんしても気になって。」
杏子は少し戸惑いながらも、その生徒たちの射を見た。気になる点を指摘する。
「なるほど……そうかぁ、力じゃなかとですね」
その言葉に、部員たちは深く頭を下げた。先の斜面打ち起こしと、全く同じ構造がここにあった。
東雲監督がそのやりとりを遠くから見て頷いた。お互いが補って高め会う。思ったより、練習受け入れの効果はあるようだ。
祖父母が見学ルームから小さく拍手を送る。祖母は穏やかに見守っていて落ち着いていたが、見学ルームは遮音されていることもあり、本来は声を出してはイケナイのだが、祖父は、杏子が動くたびに「すごい」「美しい」「綺麗」から始まり、「清らか」「凛としてる」「優雅だ」「可憐だ」「眩しい」「眼が潰れる」「息をのむ」「芸術」「映える」「優しい」「誠実」「聡明」「神々しい」「オーラがある」「魅力的」「空気が変わる」「心が奪われた」「清楚だ」「崇高」「神秘的」・・・・・・・・・。
祖母を除く見学者はゲンナリし、よくそんなに褒められるなと呆れるばかりだが、ソフィアは紬に意味を聞いていた。「それはわたしの課題ではありません」と言いながら、解説している紬が一番大変だったのは間違いない。
そして終盤。
東雲監督が実線練習の指示を出した。




