第349話 変人ホイホイ
昼食は木造の趣のある小さな料亭だった。湯気の立つ知覧茶が運ばれてくる。杏子がその香りをそっと吸い込んだ。
「わぁ……。お茶の香りがすごく甘い……」
食事をとりながら自然と話題はこれからの話になっていく。
「チェックインしたら、自由時間やな」
栞代がアプリで行き方を確認している。
「……杏子」
あかねがにやりと笑う。
「今ちょっとワクワクしてへん?」
「うんっ」
「『弓が引ける』って顔に書いてあるで」
杏子は照れくさそうに笑った。
「うん……。なんだか久しぶり。身体がそわそわするんだ」
「まったく。言っとくけど、昨日触ってないだけやで?」
栞代が肩をすくめる。
「この時間があるから、杏子修学旅行来れたもんねっ」
まゆがそう言った。
考えると、弓道部総勢でこの時間を確保した気がする。
栞代は、杏子を見て、この幸せものめ、と心の中で肘で小突きつつ、目はいつもいちばんやさしい。」
湯気の向こうで知覧茶の優しい香りが広がった。
「遥、澪。ふたりは最初の予定どおり、好きなとこ観光してきてええからな。悪いな。オレらのワガママで」と栞代が言うと、遥が地図アプリを閉じて首を傾げた。
「いや、そのつもりやってんけどさ。澪と相談したんやけど、わたしたちも、杏子と一緒に行ってええ?」
「え?」
「杏子が——てか、みんながそこまで夢中になってる“弓”ってやつ、見学させてや。観光はいつでもできるしな」
栞代は少し困ったように笑う。「え? 観光の方が圧倒的に楽しいぞ?」
遥が短く息を吸って、真っ直ぐに言った。
「いや、杏子の“本気”を見てみたい」
「……そうか」
栞代がにやりと口角を上げた。
「ついに杏子もここまで来たか」
「どういうこと?」澪が食いつく。
栞代は腕を組み、わざとらしく咳払いしてから宣言した。
「杏子はな、“変人ホイホイ”なんや。杏子が弓を引く姿は強烈でな。今まで幾人もの人間を闇落ちさせてきた。
まゆもそうやし、ソフィアに至ってはフィンランドから引き寄せられたんやで。後輩もな、真映も楓も一華も、みんな杏子に惹かれて弓道部に入ったんや。全員、見事に変人揃いやで」
「ひど〜いっ」まゆが抗議の手を挙げる。
しかし、あかねは大げさに頷いた。まゆが杏子の弓を引く姿に憧れて弓道部に入ったことを一番知っているのは親友のあかねだ。
「うん、否定はできんな」と言って吹き出す。
栞代は追い打ちをかけるように指を立てた。
「しかも、今回は、まだ実際に杏子が弓を引く姿を見てもいないのに引き寄せられた遥と澪、お前らは“とびきり”の変人ということやで」
「ちょ、なんなんやそれ」遥と澪が同時にむくれる。
すかさず、あかねが割って入った。
「遥、澪。安心しい。二人も、そんでさっき並べた弓道部員も、まったく及ばない、杏子を見た瞬間に“杏子フリーク”になった、桁違いの変人がおるんや」
「ここによっ」
あかねはこれ以上ないほど大げさに、栞代を指さす。
「なっ……何の話や」
栞代は“自分だけ知らない内輪ネタ”に放り込まれたみたいな顔をする。
まゆが小さく笑って、今も語り継がれている、新入部員の自己紹介の様子を手短に語る。
——あの日、杏子が自己紹介で目標を言った瞬間、それを揶揄し嘲り、笑った三年生に食って掛かった栞代。
「杏子を守るために、瞬間湯沸器になったんだって。すっごいかっこ良かったって」とまゆが締めると、遥と澪は驚いた。
あかねは「わたしは直接見たからな」とドヤ顔。
「見たかったなあ」まゆは当時はまだ入部していなかった。
「一年の新入部員の分際で、三年生にケンカ売ったんかっ」
「どんだけ杏子フリークになっとんねん」
「なるほど、別格の変人や」
「キング・オブ・変人やな」
全員、好き勝手に喚く。
「オレは三年生の態度に腹たっただけや!」栞代の反論を聞くものは居ない。
笑いが一段落したところで、当の杏子がふいに”あさって”の方向から落としてきた。
「ソフィア、日本に来た当初は、お味噌汁とごはんが苦手で、大変だったんだよね」
一拍の無音。次の拍で、五人の笑いがぱんとはじけた。
「話の矢、どこ飛ばしてんねん」
「これが杏子の魅力なんや」
「味噌汁と白ごはん、いまは勝ち筋やろ?」
杏子は「うん。なんども練習したから。」と小さくうなずく。「どうしも慣れたいって。ソフィア、何度も何度もトライしたなあ」杏子にはソフィアの顔が浮かんでる。
そういう”ずれ”が、彼女の真ん中の優しさを露わにする。
遥がスポーツドリンクのキャップを閉め、澪がスマホのカメラをしまった。
「決まり。観光はあと回し。今日は“杏子の本気”コース、同行申請」
「はい、受理します」まゆが即答し、あかねが「不許可でも付いてくるやろ」と笑う。
栞代は肩をすくめた。「来るもんは拒まん。変人は、大歓迎や」
「……誰のこと?」
「全員」
「いやいや、わたし、違うし」あかねの抗議も、聞くものは誰も居ない。
六人の笑い声が、旅館の薄い天井をやわらかく揺らす。
観光地図よりも先に、誰と何を見るかが決まった。
目の前の景色はまだ動き出していないのに、心だけがひと足先に、桜島の方向へ走り出していた。
誰かを傷つけるためじゃない。自分と、そしてかけがえのない仲間たちと高め合うその一射のために。
それこそがこの平和な時代の中で弓を持つことの本当の意味なのだと。彼女たちはあらためて、静かに、そして確かに感じていた。




