第348話 知覧の空と、平和のための矢
修学旅行三日目の朝。
指宿の温泉旅館の朝は湯の香りと静けさに満ちていた。朝の光が障子越しに白く柔らかく射し込んでいる。杏子たちは昨夜の温泉の心地よい温もりの余韻をまだ身体の芯に残したまま、旅館の食堂で朝食の膳に向かっていた。
湯気の立つあさりの味噌汁とぱりっと焼かれた鮭の皮。それをゆっくりと口に運びながら、杏子は窓の外に広がる朝霧のかかった緑の山々をぼんやりと見つめていた。
「……今日、平和学習やったな」
栞代がぽつりと呟いた。
「うん。知覧の特攻平和会館。……なんだかちょっと緊張するね」
まゆが静かに頷く。
「資料とかテレビとかで見たことはあるけど」
あかねが箸を止めた。
「……うちら弓道やってるからさ。……これ、伝統ある、という言い方よくされるけど、要は戦争のための武器だったってことだもんな」
みんなの話を聞きながら、杏子は静かに頷いた。自分の弓を握るその手を見つめる。いつも当たり前のようにそこにある自分の手。その手のひらの硬くなった皮膚の感触が、今朝はなぜか少しだけ違うもののように感じられた。
"矢"という言葉が、いつもよりもずっと重い響きを持って聞こえる。そんな朝だった。
バスに揺られながら窓の外の風景がゆっくりと変わっていく。道の両脇には黄色い絨毯のように菜の花が咲き誇っている。なだらかな丘の上にはぽっかりと白い雲が浮かんでいた。
「……のどかやなあ」
遥が呟いた。
「……うん。平和ってきっと、こういうなんでもない景色のことなんやろうね」
澪が静かにそう言った。車内には誰も何も言わない穏やかで、少し固い空気が流れた。
知覧特攻平和会館。
館の前でバスを降りると風が不意に冷たくなったように感じた。どこまでも整然と美しく整備された敷地の奥に、低く大地に伏せるかのようにその建物は静かに佇んでいた。その入り口には"知覧特攻平和会館"の文字。
杏子は自然と背筋を伸ばした。
一歩館の中に足を踏み入れると空気が一段ひんやりとした。外の喧騒がまるで厚い壁に遮られたかのように遠ざかっていく。
展示室には夥しい数の若い兵士たちの笑顔の遺影。そして彼らが最期の時まで大切にしていたであろう遺品の数々。そして家族に宛てた最期の手紙。色褪せた粗末な便箋に残る、懸命に丁寧に綴られた達筆な文字。
──母上様へ。
明日、出撃いたします。何も思い残すことはありません。
どうか、お体を大切に。
そのあまりにも短く、そしてあまりにも深いその一文を読んだ杏子。彼女は暫くその場から一歩も動けなかった。彼らのその没年が自分たちとほとんど変わらないという事実に息を呑む。
「……十七歳、十八歳……」
まゆがガラスケースの向こうを見つめながら小さな声で読み上げた。
「……わたしたちと同じ……。冴子部長や沙月さん、瑠月さんと同じ……」
杏子がそっと呟いた。
「……今わたしたちがこうして居られるのは、この人たちが支えてくれているんだね」
杏子の声は震えていた。
展示室の中央には復元された一機の零式艦上戦闘機が静かに鎮座していた。冷たい銀色の翼。その流れるような美しい機体。その周囲を六人はただ黙って歩く。
あかねが小さく息を吐いた。
「……これ、ほんまに空飛んでたんや……」
「うん。そしてここからたくさんの人たちが飛んで行って……二度と帰ってこなかったんだね」
まゆがそう続けた。
その言葉を聞きながら杏子は無意識に両手を胸の前で固く組んでいた。
「……力を尽くして頂き、本当にありがとうございます。二度と悲しい戦争が起きませんように」
小さな小さな声。それは誰に聞かせるためでもない、彼女の心からの祈りだった。隣で栞代が同じように静かに目を閉じた。遥も澪もあかねもまゆもそっと手を合わせた。
がらんとした広い会館の中にわずかに空調の風の音だけが響いていた。
見学を終え外に出ると、南国の冬の青空が目に眩しかった。杏子は一度大きく深く深呼吸をしてその空を見上げる。
「……きれい」
「うん。今も昔も同じ空だね」
まゆが優しくそう答えた。
栞代が空を見上げたままぽつりと言った。
「……命をつなぐって。簡単な言葉やけど……めっちゃ重いな」
「せやな」
あかねが肩をすくめた。
知覧武家屋敷群の美しい石畳の道を歩く。風が見事な竹垣をすり抜け、葉がさやさやと心地よい音を立てた。
「なんか時代劇の撮影セットみたいやな!」
「いやこれホンモノやから」
「……すごい。歴史がずっと続いてるって感じがしますね」
「うん。弓道もきっとこうやって時代を超えて残ってきたんだね」
杏子のその言葉に全員が自然と頷いた。
「この時代どころか、もっと前から、弓って、戦いの武器だったんだよね」
「そうだな」
「もう二度と、弓を『傷つけるため』に使うことがありませんように」
杏子の祈る声のあと、短い沈黙。
その静けさの中で、栞代がポツリと口を開く。
栞代は腕を組んだまま、空を見上げていた。
「……おじいちゃんが総体の時に言ってたやつ、思い出した」
その声は、真剣だった。
「あの時は単なる屁理屈やって思ったけど……今は、ちょっと。
武道って、昔は人を傷つけるためのもんやったけど、今は自分を鍛えるためのもの、という建前やん。じゃあなぜ競い合うのか。……だから、避けて通れんのやろな、あの考え方」
杏子が振り向くと、栞代は苦笑していた。
「悔しいけど、おじいちゃん、正しかったかもな」
杏子は栞代をまっすぐに見た。
「……平和だからこそ、こんな話ができるよね」
六人の顔に少しずつ穏やかな笑みが戻っていった。
誰かを傷つけるためじゃない。自分とそしてかけがえのない仲間たちと高め合うその一射のために。
それこそがこの平和な時代の中で弓を持つことの本当の意味なのだと。彼女たちは静かに、そして確かに感じていた。




