第347話 修学旅行二日目 その3
修学旅行二日目の夜。
案内された温泉ホテルの食事処は、障子の向こうから温泉の湯の流れる音が微かに聞こえてくる静謐な空間だった。卓の上に一の膳が静かに、そして完璧な秩序をもって並べられていく。季節の花をちょこんと添えられた美しい懐石料理。磨き上げられた陶器の小鉢や露に濡れたような漆の椀が、柔らかな灯りの下でそれぞれの光を放っていた。
そのあまりにも完璧な美の前に、あかねが最初にぽつりと呟いた。
「……なあ。これ、どっから手ぇつけてええん?」
まゆがその横で小さく笑う。
「ふふっ。作法だと右手前のお向付から、らしいよ」
栞代は膝の上の熱いおしぼりを丁寧に畳みながら苦笑した。
「……飯食うのに順番が多いのは苦手だな」
遥が突っ込む「料亭じゃないんだから、適当でいいだろ」
杏子は箸を持ったままほんの少し緊張気味だった。目の前の八寸の器に、まるで小さな庭園のように色とりどりの前菜が並べられている。
「……きれい。食べるの、もったいないね」
「杏子ちゃん、写真撮る?」
まゆの言葉に杏子はぱっと顔を上げた。
「うん、撮る! おばあちゃんとおじいちゃんにも見せてあげたい」
パシャと静かな電子音が響いた。その写真に映るあまりにも美しい料理を見て、あかねが小声で「……これは映えとるな」と呟き、みんながくすっと笑った。
料理が進むにつれて会話は自然と弓道部のいつものモードへと移っていく。
「……ソフィア、大丈夫かな。懐石料理って外国の人にはちょっと難しいかもしれないね」
杏子がぽつりと呟くと、栞代が頷いた。
「まあ、味より『順番』とか『食べ方』とかが問題なんだろ。ソフィアは頭ええからその辺は大丈夫じゃないか?」
「うん。ソフィア、日本語もすごく上手だしマナーもいつも完璧だもんね」
まゆがそう言うと、杏子は少し考えて言った。
「でも確か、お刺身がちょっと苦手だったんじゃないかなあ。納豆はなんか無理やり根性で慣れたって言ってたけど」
その「納豆」というパワーワードに全員が一斉に笑い出した。
「確かに! あれは日本人でもハードル高いもんな!」
「ソフィア『あのニオイが魂に直接残る』って真顔で言うてたもんなあ」
「弓道よりよっぽど修行がいる食べ物だよな、納豆は」
場が一気に和やかになる。いつものあの光田高校弓道部の食事の時間が、遠く離れたこの南国の静かな空間の中でもちゃんと息づいている。
お造り、蒸し物。小さな蓋付きの椀を開けると湯気と共に柚子の爽やかな香りがふわりと立ち上った。
「あっ、これ茶碗蒸し?」
「うん……。上品すぎて逆に落ち着かへんわ」
「でもおいしいね。お出汁の味がすごく優しい……」
杏子はその繊細で深い味わいに、ふっと祖母が作る煮物の味を思い出していた。
「……なんだか。おばあちゃんの味に似てる」
まゆがその呟きに優しく微笑んだ。
「ふふっ。それ、杏子にとって、最高の褒め言葉だね」
食事の終盤。デザートの濃厚な抹茶アイスが運ばれてきた頃、杏子はやはりどこか落ち着かない様子で声を上げた。
「……やっぱりソフィア、大丈夫かなあ?」
「杏子、よっぽど心配なんだな。ソフィアももう一年近く日本にいるんだからなんとかなるって」
「ねえ、これ食べたらちょっとだけソフィアたちのところに行ってみない?」
「ああ、いいぜ。……で、ソフィアたちの班はどこなんだ?」
「もう食べ終わった頃かなあ……」
その気になって探すと、あのひときわ目立つ美しい金髪はすぐに見つかった。
「あ、あそこだ。よし、行ってみよか」
デザートを急いでたいらげ、杏子と栞代、あかね、まゆの四人は、遥と澪に挨拶し、そっとソフィアたちのテーブルへと向かった。
「ソフィア、大丈夫だった?」
杏子が心配そうに尋ねる。
ソフィアはきょとんとした顔で四人を見上げ、そしてすぐににこりと笑って答えた。
「ええ。納豆よりは全然大丈夫でしたよ」
その一言で四人は爆笑した。
「それ基準にしてんのかいっ!」
「だって本音ですもの。お刺身も勇気を出して食べてみたらとても美味しかったし、天ぷらはサクサクでしたわ」
「ご飯は? ちゃんと日本の『おひつ』で出た?」
「うん。あとね、懐石料理ってその、全部が芸術みたいなのね。一口食べるごとに『この味は誰のために作られたんだろう?』って考えてしまいました」
しばらく料理の感想を賑やかに言い合った後、ソフィアがふっと真面目な声で言った。
「……弓道部の合宿で大勢で一緒に食べるのには慣れたと思っていたけど。今回のこの旅行はまた別格でした。みんなが今、この瞬間も、同じように一緒にご飯を食べてるんだと思うとなんだかすごく心が落ち着くの。……日本のお料理はただ味だけじゃなくて、『人とつながる』ための食事なのですね」
「あっ!」
その言葉に杏子はスマートフォンを取り出した。
「人とつながるって言えば……!」
そこには留守を預かる後輩たちからの報告のLINEが次々と届いていた。
「あっ。杏子ちゃんのところじゃ昨夜、黒豚しゃぶしゃぶだったんだ! いいなあ!」
まゆが声を上げる。
「いや、昨日も、うめぶたのしゃぶしゃぶだったんだろ? 連日で楓と一華、ゲンナリしたんじゃないか?」
栞代がツッコむ。
「いや、見てみ、栞代」
あかねがその一華からの長文レポートを抜粋して読み上げた。
「『日をまたいでの豚肉の味比べ及び調理法による食感の差異に関する比較分析』……やて。『結論として両者ともに甲乙つけがたいハイレベルな一品であった。ただし調理者の愛情という非科学的な変数が、杏子部長のご祖父母様の料理の味をさらに押し上げた可能性がある』……やて。一華にしてみたら「愛情」とか言うの、めっちゃ珍しい分析やな。よっぽど美味しかったんやろなあ」
「まあ杏子のところで食べると、あのおじいちゃんが横でひたすら笑わせるからな。それだけで味が一つか二つ上がったような気がするもんな」
栞代も頷く。
「ところで紬はどう思う?」
そのいつもの無茶ぶりに、じろりと栞代を睨んだ紬が、相変わらず完璧な「間」と「抑揚」で応える。
「それはわたしの課題ではありません」
みんなが笑う中、杏子はみんなが祖母の料理を褒めてくれたことがとても嬉しくて、ただニコニコしていた。
部屋に戻ると遥と澪がすでに入浴の準備を整えて待っていた。
「あ、遥、澪、ごめんね、お待たせ」
「ううん、全然。……で、これからどうする?」
「悪いんだけど」と栞代が手を合わせた。「もう時間が今しかないから。ちょっとだけ型の確認させてもらってもいいか?」
「栞代、いいよ。そんなの」
遥があっさりと言った。
「わたしと澪、二人で先に大浴場の方入ってくるわ。その分あんたらゆっくり練習しとき。あかねもどうせチェックしたいやろ。そしたらこの部屋も手狭になるしな」
「……いいのか?」
「いいって、いいって。明日、全員で入れるようなら、入ろっ」
そう言って二人は颯爽と浴場へと向かっていった。
残されたのは弓道部の四人。まゆが撮影係となり、三人はそれぞれの練習を始めた。
ゴム弓のしなる音を響かせる栞代。素引きとゴム弓を交互に入れ替えるあかね。そしてただ黙々と美しい素引きを繰り返す杏子。まゆはその三人の姿を様々な角度からゆっくりと撮影していく。
しっかりと汗をかいた頃、遥と澪が戻ってきた。交代で四人は浴場へと向かう。
「それにしても杏子ってほんっとうに一つ一つの動きを丁寧にやるよね」
まゆが今更ながら感嘆の声を上げる。
「わたし、素引きってちょっと苦手やねんな。まだゴム弓の方がええわ。何回か繰り返してると集中力が欠けてくるのが分かる。めちゃくちゃ集中力いるからな、あれ。身体の負担はほとんどないんやけど」
あかねが応える。まゆが付け足す。
「基本練習を疎かにしないって言うか、基本練習大好きだよね、杏子は」
廊下の先から、硫黄の香りがふんわり漂ってくる。
木の床がきしむ音だけが響き、あかねがぽつりとつぶやいた。
「温泉って、なんか“非日常”って感じするなぁ」
「毎日入ったらありがたみなくなるけどな」と栞代。
「うちの風呂、追い焚きもないもん。こういうの、夢やわ」
まゆが笑って、「今日は追い焚きじゃなくて、心の焚き直しだね」と返す。
脱衣所で髪をまとめ、四人は静かに湯気の向こうへ。
湯船は広く、天井の高い木造の空間に、白い湯気がゆらめいていた。
杏子は湯に肩まで浸かると、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「……なんか、溶けそう」
「今日、ずっと動きっぱなしだったしな」と栞代。
「桜島、想像以上に暑かったもんな」あかねが笑い、
まゆは湯面を見つめながら「でも、こうしてみんなでいると安心するね」と言った。
湯気の向こうに、静かに夜の音が重なっていく。
遠くで波が寄せては返す音が、かすかに聞こえた。
杏子は目を閉じて、その音を聞いていた。
温泉のぬくもりに包まれながら、ぽつりと呟いた。
「……明日、いよいよかぐやさんに会えるね」
その心はもう明日へと飛んでいるようだった。




